自分がやっていることに自由なんてものがあった試しがあっただろうか 。不自由さのなかでなんとか身をよじりながら辛うじてやってきただけではないだろうか。
検閲、言論統制というものは、ある特定の政治的な領域においてのみ行われることであるとも思わない。
たとえば、SNSなどを利用していると「これは書いてはいけないことのようだ」という無意識の検閲が働いている。それは、蔓延する空気として統制がほどこされており、自由な言葉を封じているということになりはしないか。
友人のことや食べ物のことなど、あるいは、多くの人が反応することになる話題などに加担することが自分にはどうしてもできない。また、そういった話題を何一つ面白いとも思えない。
それらの話題を用いて場に参入していくということに、自分には抵抗がある。そういった場所にはとほうもない不自由が立ちはだかっていて、そこに入るためには、その不自由さに身を任せなければならない。不自由な表現をするくらいなら沈黙する。
こうして、すべてが私抜きで起こる。何が起こったのかも最近はしらない。私抜きで起こっている以上、私は存在しない。不自由さを感じながら黙り込んでいる人たちは多数存在しているのだが。
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