日本人よ、蜂起せよ!

日本人よ、蜂起せよ!

神社、オモロイこと、この二本柱が基本です。
最近は新しくお城が追加されました。
他は幹に生えた枝みたいな感じです。

愛国者ですが極右ではありません。

精神世界やらお祈りやら賭け事とか興味の無い関連から「良いね」されても、そちらの部屋は訪れませんから。


九州シリーズの続きです。

 佐賀県の城です。

この門から入り、右手側へ進むと一際綺麗な建物があります。

それが↓です。

これってお金、払った?

無料だったような気が…

なんて太っ腹、佐賀城❗️

(お金、払ってたらどないしょう🤣)

しかし障子を襖を取り替えたら「大奥」が撮影できますね。

欄間の下の空格子は襖がはめ込まれます。

だけど襖が嵌め込まれていたら、

一緒に行った友達が指でブスッ、ブスッで穴を開けるので取り外されているという噂が巷で流れています。

静岡支部長、なんてことを…❗️えーん

私的には再建の建物よりも土塁の方が萌えました。

立派な土塁があるんですよね。


そして本丸へ向かう虎口です。

コの字型に曲がり、更に曲がって階段を登らないといけません。

階段を登り切ったら、また左へ曲がることになります。

一つ上の青ラインまで登ってくると更に赤ラインの左に折れた階段をに登り、やっと登りきったところを左に折れて、やっと天守曲輪だったんしゃないかなぁ〜笑い泣きたぶん…


此処↑を説明しますと2枚上の写真の登り口の近くの駐車場側でして、
私が立っているクローバーが咲いているところが左右に走っている土塁、
上の一段高く奥に縦長なのも土塁、
その土塁の右側が空堀跡、
となっています。

正直此処、佐賀城はあまり興味がなかったので繊細は覚えていましぇーん🤣


そして次に向かったのが環濠集落の一種ですが、奈良県の環濠集落のような村の周りに水堀を張り巡らせただけの単純なものではありません。

この辺りに多いのですが、柳川堀割の密集型バージョンです。

わかりやすく言うと水堀に守られた土地に住んでいるというより、

堀の中の土地にに住んでいる

っていう世界です。

橋によって隣りの曲輪へ移動します。

もちろん敵が懐深く攻めてきたら橋を切ったり、燃やしたりして落とします。

今は草ボーボーのモリゾーで、しかも水が流れないので濁っており、往時の面影を思い浮かべるのも難しいです

中には広く水堀がとられたところもあります。

やはりこういうところは主郭なのでしょうか?

だけど私は思うんですよ。

奈良県で見るような環濠集落は言わば敵が攻めにくくなっていますし、其処が防御の要にもなっています。

このような堀割りの環濠集落というより環濠曲輪と呼ぶ方が正しいと思われるようなところは敵の侵入を許してしまうと

集落よりも範囲が狭い分、囲んで兵糧攻めにしやすいですし、

一つ一つの曲輪を集中的に矢、火矢を使って集中攻撃したら落としやすい気がするんですけど…

火🔥を消す水は余るほどありますけどね…🤣

実際の歴史は知らないので…

ではこの城に限定して某アプリを参照にして調べてみましょう。

東西330m、南北330mのほぼ正方形に近いようです。

言わば残っているところは環濠集落の中でも更に要塞化された部分ですね。

有明海後退によってできた平地らしく、海産物を目的に有明海が後退しだした時から人は定住していたらしいです。

よく分からないのですが中世には今のような形にほぼほぼなっていたようです。

それが16世紀になって犬塚氏の支配下に入ってから要塞環濠集落になったらしいですが…

ここで言う中世っていつよ?

16世紀って中世じゃん真顔

それに定住していたのなら、住みやすいように埋めたり、削ったりして平地になっているのでは?

やはり中世にこの形になっていたというのは、犬塚氏が支配する以前から要塞曲輪として使われていたのではないでしょうか。

なぜそのように思うかというと、この城の近くに吉野ヶ里があるのですよ。

弥生時代の九州を代表する遺跡ですが

このように逆茂木、

敵の侵入を防ぐ木の柵、

空堀などで防御された巨大集落があるからです。

おそらく環濠曲輪も犬塚氏の支配下に入る前から防御的に意図的に作られた要塞だったのでしょう。

では私が先ほど言ったように、あの城は攻めやすいのか?

実はあの城、攻撃されたことは無いようです🤣

しかし犬塚氏は大友方、すなわち負けてばかりいたようです。

てはこのまま吉野ヶ里遺跡へ話を進めるましょう。

親子の猪が走っていますね〜。

かなり敵を警戒していたのか、写真のような高い建物が複数、建てられています。

どこまでが本当か嘘か知りませんけど…ニヤニヤ

吉野ヶ里遺跡は既に階級が確立されており、中心へ向かうと更に柵と堀で守られています。

弥生時代の吉野ヶ里と、中世の城と違うのは

空堀は土塁の内側に作られているところです。

空堀を柵、塀の外側がいいのか、内側がいいのかはわかりませんが、単純にいうと両方にあれば尚、良し❗️というところでしょうか。

そんなところ、見たことは無いのですが…

空堀に割れた土器とか貝の殻、魚の骨とかをある程度捨てておくと更に効果があると思います。

此処は本当に広いので古代にタイムスリップしたような感覚をうけます。

そして此処が中心部入り口です。

土塁が高く盛られ、その上に柵で守られています。

更に内側は空堀が。

この入り口から空堀までも食い違いとなっており、入り口から中は見えなくなっています。

更に柵は二重となっており、かなり厳重です。

やはりこの厳重さは倭国大乱に相応しい守りですし、邪馬台国かどうかは別として、邪馬台国は九州で良いのでは…。

今でもこんな立派な建物に住むなんて難しいですね。

冷暖房はあまり使わない私はこの建物に住みたいです❗️

ではさっそく展示住宅見学会とまいりましょう。

おや、展示住宅と思っていたら人がたくさんいるではありませんか⁉️

何か食事の用意がされています。

遠慮して上へ行きましょう。



ここでは女王が御神託を受けていました。

これは退散しないといけません❗️ランニング=3

しかしさすがの女王も暑いのか扇風機が写っています🤣

扇風機、電気ストーブが使えるなら、

わたしは間違いなく住めます❗️

見張り台を登ってみました。

めっちゃ遠くまで見れるやん❗️

これは攻めてきたら丸わかりですね。

これだけ広範囲の強い国を治る国王か女王、なかなかの指導力のある人だったんでしょう。

ススキかセリの仲間のような植物が群生しています。

そして遥か向こうには何か建物が…

行ってみましょう❗️ランニング)))

おや、何か見えてきましたよ。

お墓です。

甕棺墓列のようです。

吉野ヶ里遺跡では適当に穴を掘って埋めるのではなく、列を組んで埋められています。

その中でも一際大きく目立つのが↑

ここは大きく土を盛られ方墳のような形をしています。

この盛り土も今より倍近い高さだったと考えられています。

中に入ると大きな甕棺墓がいくつもありますので、権力者、及び親族だと思われます。

数的には14基の墓があり、銅剣も発見されています。

北墳丘墓と呼ばれている所でしたが、

その近くが謎のエリアと呼ばれている地区で、

神社が使用していましたが、

祠などを移動させたため、発掘調査したところ、あの巨大な石棺、3枚に割られた石棺の蓋が発見されたんですね。


此処って本当に広いのに着いたのが閉園まで2時間を切っていました。

友達の好意というか古代史には興味がなく、単なるアプリのポチだけのために訪れたのですが、

数年前に訪れた私が行っていないエリアに行かさせてもらいました。

閉園ギリギリに出ます。


ここに来たらあの有名人に会っておかないといけません❗️

気軽にあってもらえるので私的には超人気者です。

その名前は

「吉野ヶ里遺跡?

向こうやで。

私の後ろの道をまっすぐ行ったら大きい辻があるから、そこを右に曲がってまっすぐ行ったら着くわ」

誰かに吉野ヶ里遺跡までの道を教えています。

「あっちに行くんやで。

でもな、今から行っても閉園してるで

親切に説明していたと思います。

写真、撮っても嫌がらないので遠慮なく、

複数枚撮らさせてもらいました。

ありがとうございます、女王様❗️🤣

次の宿泊するところまで移動します。

空には魚のような雲が出ていましたが、

更に進んでいると…

今回の九州冒険談で数少ない夕日が❗️

美しいです❗️

夕日が沈むと空には美しくも不気味な雲が…

夕日の美しいときって、三谷幸喜監督の映画「マジックアワー」でも言っていましたが、ほんとうに一瞬なんですよね。

次に撮ろうとしたら暗くなっています。


いゃ〜、映画 古代史って本当に素晴らしいですね。

ではまた来週、お会いしましょう👋