腕時計の針は21時を回っていた。僕はビルの隙間から出ると、警察官の姿が見えない事を確認した。繁華街は飲み屋を探し回るサラリーマンや若い人達で賑わっていた。僕は人混みに紛れながら駅を目指し、ハチ公前を避けながら裏の口へ回り、特急列車の切符を買って群馬を目指した。群馬には一度だけ陽葵と温泉旅行へ行った事がある。南の方へ進むのならばできるだけ土地勘のある場所へ逃げた方が動き易いと思ったからだ。


乗車すると安堵したのか喉が渇いている事に気が付いた。警察から逃れビルの隙間で身を隠している間、ペットボトルは直ぐに空になり、それから暫くの間水分を口にしていなかった。喉の渇きに気付かない程、僕は神経を張り巡らせていた。車内販売の籠の中のビールが気になったが、ノンアルコールビールとサンドウィッチを選んだ。マスと飲みに行った日以来、一度もアルコールを口にしていなかった。サンドウィッチをノンアルコールで流し込み、一息付くと僕は目を閉じた。




もしかしたら祇園杏はこの世界に居ないのでは。何故そんな発想が思い浮かぶのかは分からないが、妙な妄想が頭を過った。思い詰めた表情で新聞記事を見つめていると、老人は迷惑そうに僕を睨み、新聞を閉じると煙草に火を付け体を横に背けた。暫くするとハンバーグが来た。先程の胸騒ぎが拭いきれず、ハンバーグの味が殆ど分からなかった。しかし腹は満たされた。店を出ると思考を巡らせていた緊張の糸が一瞬だけ途切れた。それと同時に疲労感と眠気に襲われた。漫画喫茶かカラオケボックスに泊まろうかと考えている矢先だった。


「ちょっとすみません」


二人の警察官だった。瞬時に僕は逃走していた。捜索願を出したのだと思った。捕まったら記憶を消されてしまう。振り出しに戻されるのはごめんだ。警察官の笛の音と叱咤が繁華街に鳴り響く。


「おい、何で逃げるんだ」


人と人の間を縫うように通り抜け、ビルとビルの間を抜け、建物の隙間に入り込んだ。エアコンの室外機に隠れる様に僕はその場に蹲った。警察官の声が聞こえなくなっても暫くの間動く事ができなかった。アンモニア臭と排水溝の異臭が辺りを立ち込めた。




「だから僕は杏を選んだんだ」

 電車の中にいた。手にはボールペンが握られ、僕はこれまでの記憶をノートに書き記していた。杏の顔も記憶も取り戻した。確かな記憶である事を願う。ふと知念草さんとの電話の内容を振り返った。陽葵の事を杏と言っていた。彼女は何故、陽葵の姿に身を扮して祇園杏と呼ばれているのだろう。やはり本人に会って探るべきか、いや待て、下手に動けば崎玉に取り押さえられてしまうだろう。今は杏との記憶を辿る方が先だ。杏本人を探すのはその後にしよう。

車窓から流れる景色に目を向けた。日が沈み始めている。景色は窓に映る半透明な自分と重なり合う。まるで今の自分を表しているようだ。判別がつかない自分のアイデンティティが、時の運河に、ただ無抵抗に泳がされているような気持になった。僕はこの先どうなってしまうのだろう。

お腹が空いたので僕は渋谷で降りて仕事の前にいつも立ち寄る喫茶店に入った。朝立ち寄る時に夕方のメニューにあるハンバーグをいつも食べたいと思っていたのでハンバーグを注文した。向かい側の席に座る白髪の老人が新聞を読んでいた。三面記事には「集団失踪事件、全容は解明されず」とある。僕はその記事を見て何故か杏の事を思い出した。



曲目はピアノを中心としたインストゥルメンタルが大半を占めていて、数曲を挟んで歌モノが組み込まれていた。普段ポップソングしか聴かない僕にとっては、意味深で難解をきたしてはいたが、素人から見てもピアノの演奏技術は圧倒的なモノだった。

 演奏が終わると一番に僕の所へ来てくれた。数人のファンの視線を感じてやや申し訳ない気持ちになった。杏は静かに会釈した。

「惹き込まれました、本当に上手ですね、プロ目指せばいいのに」

杏は静かに手を横に振った。

「いえいえ、私の腕前じゃ無理ですよ」

僕はその透き通る様な肌と、狭い肩幅を見て抱き締めたいと思った。杏と僕との距離は次第に深まりだした。杏と一緒にいると陽葵を忘れさせてくれるような気がした。何事にも控えめで、自分の感情、パーソナリティ、仕事に至るまで必ず一歩後ろを歩いていた。しかし控えめな中にも凛とした一つの強い輝きを持ち合わせていた。杏と一緒にいると陽葵といる時の様に馬鹿騒ぎする程の楽しさこそ無いが、一つの物事に対して思慮深く、奥行きのある彼女の感性に僕は次第に惹かれていった。しかし僕は陽葵の事が今でも好きで陽葵は僕の事が好きではない。ただそれだけの事だった。



シン旋律 





底にあるのは自由だった

だけどこんなにも不自由だった夢を

目の前に人がいる限り私はレプリカ




遮ぎられた思考

見破られる動作

測られる心拍数

バレないように 

見繕って 黙っていればいい

口に綿を詰め込まれ

最後は口まで縫合されて

私は息ができない





指をくわえ欲していた

ショーケースの中でただ時を待つだけの

ドレスを着た人形に私はなった

神経の意図を神から奪い過去を取り戻す為

ガラスを打ち破った

体内に鮮やかなスカーレット

解像度の優れたコンタクトレンズ

終末時計も入れて貰った 





私は実感した

私って自由な人形だ

着飾って 見繕って 口に綿詰め込まれて

私は無敵な体を手に入れたんだ

心地良い監理体制が私を包み込む

 



高鳴る事の無いシン泊数

冷める事の無いシン旋律

曲がっていて素晴らしい自由だ



杏はその大人しい性格とは相反する様にまるで獲物を捕らえるがの如く僕に話しかけてきた。静かに喋るのだが、強い眼差しを向けて次々と話題を振ってくる。あまりに静かな早口で話すので、僕は杏に暫し耳を傾き掛けて聞き返した。

クルー達はそんな僕達のやり取りを見てウサギ小屋と囃し立てた。杏ほどでは無いが僕自身も普段あまり大きな声を出すことは無い。しかしあの様な性格のどこにあれだけの激しいピアノを弾くエネルギーがあるのだろう。杏の隠されたギャップに僕の心はますます揺るがされた。

 やがて杏が主催するイベントに来訪する事となった。狭いライブハウスにグランドピアノを置くというスタイルはこれまで見て来たどのライブよりも常軌を逸していた。ゲスト達はピアノを弾く杏の周りを取り囲み、お客さんとは極めて近い状態で演奏は行われた。一番前は数人のファンが取り囲み、僕は遠慮がちに後ろの方から見守る事にした。

 杏が一本の薔薇の花を投げると薔薇の花は弧を描き、僕の胸元まで運ばれてきた。ファンの人達はその薔薇の花を受け取りたかったのだろう、一瞬冷ややかな空気が流れたがその空気も一瞬で払拭された。シンセサイザーが流れ、出だしから激しいピアノの演奏が始まった。

杏の旋律はそのお人形さんの様な無機質的な可愛らしさとは相反して、生々しい感情が込められていた。生命力の感じる旋律だった。杏は演奏中、楽譜と僕を交互に繰り返し見続けた。あの腺病質な体と狂気を帯びた慧眼に僕は胸を貫かれた様な気持ちになった。



その普段の大人しさから想像もつかない程の力強さと影のある旋律に僕は感銘を受けた。僕は次第に彼女に興味を持ち出した。それと同時に僕の陽葵に対する態度は当てつけという歪んだ形に変わっていった。

僕は陽葵の前でいかにも仲良さげに杏と会話をし、陽葵の気を引こうとしていた。自分でも自分がこんなにも意地悪の働く人間なのかと暫し慙愧の念に晒された。それだけ僕は陽葵の事が好き過ぎて陽葵に対して歪んでいった。

だからと言って、当て付けに杏を利用するなどといった気持ちは毛頭無かった。杏には陽葵には無い確かな魅力があった。心理的に成熟していて、どこまでも深い沼に僕は引き込まれていった。

 やがて陽葵も僕達の事が気になり出し話しかけてきた。

「最近、三輪本さんと祇園さんの仲が良いともっぱら噂になっているみたいですよ」

「ええ、そうですか」

僕はまるで見知らぬ他人と話すかの様にそっけなく返した。まるで初めて出会った頃の様に僕は二人の間の時間軸を元に戻した。

内心は気にかけてくれた事がとても嬉しかったのだが、二人の間に何も無かったかの様に振る舞える程、僕は大人ではなかった。僕は陽葵の事を許せない程愛していた。




 消しても消しても忘れる事などできない。カジカを辞めようと思っていた矢先だった。

1人の女性がクルーに入って来た。小柄でボブカットの似合う女性だった。

「祇園杏です。よろしくお願いします」

その品のある存在感、生まれたばかりの子猫の様なあどけない容姿に、周りの男子クルー達は騒いだ。

「あの娘可愛いな、彼氏いるのかな」

「いるだろな、普通に、あの顔は」

「お前はああいう大人しい子はタイプじゃないもんな」

「ああ、俺には縁が無さそうだな、縁もへったくりも、今の俺には失うモノも何も無い」

明るくて天真爛漫な陽葵を想い続けたい。誰とも幸せになれなくていいんだ、陽葵を想い続ける事が今の僕の幸せなんだと自分に言い聞かせた。


普段は大人しい祇園さん。無表情で一見冷たそうに見えるが、話してみると話題が豊富で深みのある大人の女性であった。以外にも話かけてきたのは杏の方からだった。冗談こそ口にして言うタイプでは無かったが、知りたがりで好奇心旺盛な自分自身をサブカルの女王と名乗った。ピアノの作曲を趣味としているらしく、発表会に呼ばれた。




「ゆっちゃん、私好きな人がいるの」

誰なのかと聞き返す必要も無い。周りの者から見ても周知の事実である。

「仕方無いよ、人の心は変わるものだから、どちらかが悪いとか考えないでさ、お互いの幸せを願おうよ、俺達ただ合わなかっただけだよ」

口ではそう言ったものの、思考が容易に付いてくる筈も無かった。これからもカジカで顔を合わせなきゃならない。僕はトイレで1人嗚咽を漏らして泣いた。

 
 そんな日々が3ヶ月程過ぎた。僕の陽葵に対する気持ちは忘れるどころか憎しみに変わっていった。勿論幸せを願うがその相手は僕以外は許せないという矛盾。木崎さんと幸せそうにしている陽葵を見ているだけで気が狂いそうだった。

やがて僕は自分に嘘を付き始めた。陽葵が教えてくれた嘘で僕は陽葵を塗り潰した。

無視だ。陽葵はこの世界には存在しないんだと思い込む事で僕は自分を保った。現実から消したいくらい僕は陽葵を愛していた。現実から陽葵を消して、頭の中では擦り切れるくらい陽葵を思い出し、マスターベーションにふけこんだ。



僕は陽葵に嫌われれば嫌われる程、好かれようと努力し続けた。仕事の不満を聞き、陽葵の好きな食べ物をそれまで以上に探求し、振る舞った。

カジカに来るお客様にできるだけ笑顔を向ける努力をした。陽葵は僕のぎこち無い笑みを余所に、哀惜を浮かべた表情で僕を見つめた。どうしたら陽葵が僕を惚れ直してくれるだろう。そう思えばそう思う程2人の溝は深まり、影が2人の周りを徐々に侵蝕していった。

そんな様子を木崎さんが見逃す筈が無かった。木崎さんは忙しい時も暇な時間帯も、変わらず優しい言葉を陽葵にかけ続けた。陽葵が落ち込んでいる時は持ち前の二面性で陽葵を元気付け、かと思えば黙々と仕事に没頭する。

そんな木崎さんに時折目を輝かせて見つめる陽葵の姿を何度も垣間見た。僕は陽葵の言葉を思い出した。

「仏頂面で仕事熱心で不器用な人」 

木崎さんは白い八重歯を見せ、少年の様な笑みをお客様に向けた。 

不器用な人間が何人もの女性と付き合えるワケ無いじゃないか。木崎さんは不器用を器用に使いこなしているだけだ。

自分が徐々に捻くれてゆく虚しさみたいなモノを感じた。そして別れを突き付けられた。