2017-6-24 利根川文化研究会
講演「関東河川の修復と大名手伝普請」
北原糸子 明治大学

イメージ 1



問題設定と分析視点
・手伝普請の大名が災害現場で果たす役割
・大名手伝普請による災害復旧
・近世城郭の天下普請→寺社普請→河川修復普請

以下、事例紹介等、データについては、講演資料 参照

まとめ
災害復旧における手伝普請の実態:いずれの場合も普請材は幕府が提供
・幕府所録の城郭普請→助役大名:石垣構築+丁場管理(清張の作成、提出)
幕府普請役:普請材調達、大工・木 職などの調達
*天和期:手伝大名役高に応じて扶持米給付、幕府普請役を含め清張の調整
幕府負担の普請総額は清張によって判明する仕組み
但し、助役大名の石垣構築費用は清張に記載されず、負担額は非公表
・河川(関東河川)宝永期~正徳3年 助役大名は普請金負担・普請は請負町人
寛保水害 大名助役を御救普請に特化→村請け普請、請負町人委託は厳禁
*普請技術→幕府普請役に集約指導体制、手伝大名は技術関与ナシ
➡(御救普請の非効率、大名負担額の増大を反省→町人請負・御金手伝へ)


(参考メモ)
大名手伝普請

江戸幕府
江戸城下町建設のために、千石夫(役高1000石につき1人の人足)を徴発したことに始まる。その後、江戸城、彦根城、篠山城、丹波亀山城、駿府城、名古屋城、高田城などの築城が続き、大名が普請に動員された。

江戸時代初期の諸大名は、幕府の普請動員に応えるために、自らの領内の支配体制を整える必要があった。将軍が諸大名に対して強大な権力を誇示したように、藩内においては藩主自らを頂点とした体制を固めさせられることになったのである(「藩体制の成立」と呼ばれる)。家老・一族と藩主との権力闘争は軋轢を生み、多くのお家騒動を引き起こした。また、外様大名は手伝普請に動員されることを通じて、幕府の軍役体系に組み込まれていった。

江戸時代中期になると、河川の普請が多く行われるようになった。宝永の大和川改修工事、寛保の関東水損地域の河川・堤防改修工事、薩摩藩による宝暦期の木曾川・長良川・揖斐川の治水工事(宝暦治水事件)などが有名である。寛保の場合は寛保二年江戸洪水の際の10か国の西国大名の手伝い普請に記載がある。

「寛保二年江戸洪水#西国大名の手伝い普請」も参照
河川改修工事の場合、大きく分けて御普請と自普請があり、前者は公儀御普請、大名御手伝い普請、経費の1割を幕府、残り9割を住民が負担する国役御普請、藩主がおこなう領主御普請である。このうち、大名御手伝い普請は幕府が必要な材木、坑木、鉄物を負担し、大名が普請人足費、竹・材木の伐採費、運賃を負担した。勘定奉行の指示で代官が工区ごと見積もりをたて、入札で請負人を決めた。入札するには1割を幕府に納入した。各藩は家老級の重臣を惣奉行にたて、家臣団を被災現場に派遣した。臨時の現地本部、出張小屋を設けた。近隣の村から人足を集めて労賃を支払った。[1]

築城・治水の他に手伝普請の対象となったのは、日光山の諸社、徳川家の菩提寺である寛永寺・増上寺、将軍および家族の霊廟、禁裏・御所などの造営・修復である。

江戸時代の初期には、各藩が費用を負担し、実際に藩が取り仕切って普請が行われていた。しかし、時代が下るにしたがって、落札した町人などが現場の責任を負う請負形式が多くなり、さらには金納化も進行した。そして、安永4年(1775年)以降は完全に金納化が通常の形となった。基本的には、各藩は費用を負担するだけとなり、幕府が直接担当役人を派遣して指揮監督するようになった。

江戸時代の手伝普請も各藩の負担は過重であり、藩の財政を逼迫させる要因のひとつとなった。ただし、他の課役・重職を担っている藩には、手伝普請を軽減あるいは免除する処置がとられた。中後期の例では、尾張藩・紀州藩・水戸藩・加賀藩、老中などの要職在任中の藩、溜間詰の大名、長崎警固を担う佐賀藩・福岡藩は免除されていた。