一面の廃虚「こんなばかな」【ヒロシマ ドキュメント1945年10月5日】 | ヒロシマ平和公園の四季 第2部

ヒロシマ平和公園の四季 第2部

原爆投下により広島の街は「ヒロシマ」に変容しました。その悲劇から70年あまり平和な町に復興しました。しかし、平和公園には「ヒロシマのこころ」が息ずいています。四季の移ろいとともに語り継ぎます。

 

1945年10月の広島市滞在時に写真に納まる林さん。爆心地近くの広島護国神社のこま犬の台座前で、助手として同行した田子恒男さんが撮影(原爆資料館提供)

1945年10月5日の広島市中心部。中央は広島県産業奨励館(現原爆ドーム)、右は相生橋(林重男さん撮影、原爆資料館提供)

相生橋の西詰め。手前のレールの右側に火葬の跡とみられる骨片が白く残る。林さんが1945年10月1日から10日までの間に撮影(原爆資料館提供)

1945年10月の広島市滞在時に写真に納まる林さん。爆心地近くの広島護国神社のこま犬の台座前で、助手として同行した田子恒男さんが撮影(原爆資料館提供)

1945年10月5日の広島市中心部。中央は広島県産業奨励館(現原爆ドーム)、右は相生橋(林重男さん撮影、原爆資料館提供)

 1945年10月5日。被爆2カ月がたとうとする広島市中心部は、なおも見渡す限りの廃虚が広がっていた。爆心地の北西約260メートルの広島県商工経済会(現広島商工会議所)からパノラマ写真の撮影に臨んだカメラマンの林重男さんは、周囲を見渡し、「こんなばかな」と思わずつぶやいた。

相生橋近く 骨片残る

 「たった一発の爆弾による被害だとは、どうしても感覚的に受け入れられなかったのです」。1945年10月5日に広島市中心部のパノラマ写真を撮影した当時27歳のカメラマン、林重男さん(2002年に84歳で死去)は、著書「爆心地ヒロシマに入る」(92年刊)に衝撃を書き残している。

 戦時中は陸軍参謀本部が設立した東方社に所属し、対外宣伝グラフ誌の写真を撮影していた。終戦後の9月、原爆被害の記録映画を撮る日本映画社が東方社関係者へ現地での写真撮影を依頼。「髪が抜ける」「子どももできない」などの臆測が飛び交っていたが、「何でも見てやろう」と志願した。

 「物理班」を担当し、10月1日から市内で撮影を始めた。パノラマ写真は、爆心地の北西約260メートルで焼け残った鉄筋4階建ての広島県商工経済会(現広島商工会議所)の屋上の望楼から撮った。

 「両手、両目をフルに使っての、極度に緊張した撮影」(同書)。晴天を見計らって16カットに分けて360度収めたが、午前10時過ぎごろのため南東方向が逆光。左手を日よけ代わりにかざしてレンズに入る光を遮りながら、シャッターを切った。

 爆心地周辺を歩き、焦土の細部にもカメラを向けた。商工経済会の西側に架かる相生橋の西詰めの一枚には、火葬の跡とみられる骨片が写る。

 「数歩も行けば死体を焼いた跡ばかりで、どこへカメラを向けても、二カ月前の阿鼻(あび)叫喚の声が聞こえてくるようです」(同書)。10日まで広島市で撮影後、長崎市に移動。同じく被爆の惨状を写真で記録した。(編集委員・水川恭輔)