燃料会館 ただ一人生還【ヒロシマ ドキュメント1945年9月下旬】 | ヒロシマ平和公園の四季 第2部

ヒロシマ平和公園の四季 第2部

原爆投下により広島の街は「ヒロシマ」に変容しました。その悲劇から70年あまり平和な町に復興しました。しかし、平和公園には「ヒロシマのこころ」が息ずいています。四季の移ろいとともに語り継ぎます。

 1945年9月下旬。爆心地から約170メートルの燃料会館は、屋根や壁の一部が崩れても形をとどめていた。今は平和記念公園(広島市中区)になった繁華街の中島本町に29年に大正屋呉服店として建てられた鉄筋3階、地下1階建て。被爆当時は広島県燃料配給統制組合が本部を置いていた。

 8月6日は職員37人が出勤していた。47歳の野村英三さんが地下室で書類を探していると、「ドーン」とごう音が響いた。

 「とたんにパッと電灯が消え真暗になった。同時に二三カ所、固い小石の切片のようなものが当った。痛い!と手を頭にやってみたらねっとりしたものが流れている。血だ!」(50年の手記「爆心にあびる」)

 暗闇の中、階段を上ると足が人の体に触れた。抱え起こしたが、もう息絶えているようだった。外に出ると、元安川対岸の県産業奨励館(現原爆ドーム)が燃え始め、どんどん勢いを増した。やがて、寒さに震えるほどの大雨にさらされた。

 郊外へ逃げたが、ほぼ爆心直下で浴びた大量の放射線に体をむしばまれた。9月1日に発熱し、「出血斑紋は五六カ所も出る。歯ぐきがくさり悪性下痢は十日以上も続くし体はクタクタに衰弱して行った」(同)。医師も治療法が分からず、家族も諦めていたという。

 だが、その後、奇跡的に回復。出勤した37人で唯一、助かった。ほかに7人が脱出し、2週間余り命をつないだ女性もいたが、8月23日に大量に吐血し息を引き取った。

 燃料会館から転じたレストハウスでは、野村さんの生還が紹介されている。82年に84歳で死去。晩年に書いた自分史では核開発競争に警鐘を鳴らした。「今後の大戦では三十七分の一も生存することは難しいだろう」(中国新聞・山本真帆)