「さるかに合戦」 刑事裁判の記録 | ヒロシマ平和公園の四季 第2部

ヒロシマ平和公園の四季 第2部

原爆投下により広島の街は「ヒロシマ」に変容しました。その悲劇から70年あまり平和な町に復興しました。しかし、平和公園には「ヒロシマのこころ」が息ずいています。四季の移ろいとともに語り継ぎます。

 

 

昔話「さるかに合戦」のあらすじ

蟹がおにぎりを持って歩いていると、ずる賢い猿が、拾った柿の種と交換しようと言ってきた。蟹は最初は嫌がったが、「おにぎりは食べてしまえばそれっきりだが、柿の種を植えれば成長して柿がたくさんなりずっと得する」と猿が言ったので、蟹はおにぎりと柿の種を交換した。

蟹はさっそく家に帰って「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃ鋏でちょん切るぞ」と歌いながらその種を植えた。種が成長して柿がたくさんなると、そこへやって来た猿は、木に登れない蟹の代わりに自分が採ってやると言う。しかし、猿は木に登ったまま自分ばかりが柿の実を食べ、蟹が催促すると、まだ熟していない青くて硬い柿の実を蟹に執拗に投げつけた。硬い柿をぶつけられた蟹はそのショックで子供を産むと死んでしまった。

カンカンに怒った子蟹達は親の敵を討つために、猿の意地悪に困っていた栗と臼と蜂と牛糞を家に呼び寄せて敵討ちを計画する。猿の留守中に家へ忍び寄り、栗は囲炉裏の中に隠れ、蜂は水桶の中に隠れ、牛糞は土間に隠れ、臼は屋根に隠れた。そして猿が家に戻って来て囲炉裏で身体を暖めようとすると、熱々に焼けた栗が体当たりをして猿は火傷を負い、急いで水で冷やそうと水桶に近づくと今度は蜂に刺され、吃驚して家から逃げようとした際に、出入口で待っていた牛の糞に滑り転倒する。最後に屋根から落ちてきた臼に潰されて猿は死に、子蟹達は見事に親の敵を討ったのだった。

 

「さるかに合戦」 刑事裁判 (蟹の殺人行為の正当性を問う)

原告 殺害された猿の未亡人

被告 殺害に加担した蟹兄弟とその協力者 栗と臼と蜂と牛糞

罪状 傷害致死罪 (刑法第205条)

(傷害致死罪とは人を傷害し、結果として相手が死亡した場合に成立する犯罪。刑法第205条に規定されている。具体的には、身体に暴行や傷害を加え、その結果相手が死亡した場合に該当する。暴行や傷害の故意が求められる。つまり、殴ってやろう、傷つけてやろうといった意思がある場合にも成立する。また、暴行の故意まではなくても、暴行を加えた結果、転倒して打ちどころが悪くて亡くなってしまっても傷害致死罪が成立する。この点、暴行や傷害する意図はなく人を死亡させた場合の過失致死罪と区別される。傷害致死罪で有罪になると、刑罰として3年以上の有期懲役が科される。)

 

「当該裁判所は、起訴された刑事事件について、冒頭手続、証拠調べの手続、検察による論告と求刑、弁論手続、被告人からの発言、結審、判決言い渡し、と進んでいった。」

 

青鷺裁判長による判決言い渡し

・被告(蟹とその協力者 栗と臼と蜂と牛糞)の殺人行為は、「仇討ち」の範疇に入るものであっても、その正当性の可否を問う藩の奉行所(裁判所)への手続きの瑕疵(かし・義務違反)があり、幕府による検証もなく「公認」されたものとはいえない。殺人事件の加害者は原則として公権力(幕府・藩)が処罰することとなっていた。現代においては、尊属殺人に対すね報復は認められていない。

(当該判決の根拠についての言及)

・死亡した猿の独善的・利己的な悪行は、狡猾な行為として避難されるべきことではあるが生存権を奪うほどのものではない。賠償などで償う民事の範疇のもので、刑事事件に発展した責任は被告にある。さらに、過度の報復感情に駆られ「栗と臼と蜂と牛糞」などとの共同謀議に至ったことは、社会通念上許されるものではない。

・原告( 猿の未亡人)の愛する伴侶を亡くした喪失感には同情すべき点があるが、青い柿の投げつけたことにより蟹を死に到らしめた(過失致死罪)など、生前の反社会的行動に留意すれば、世間からの懲罰的な立場にあったことは否定できない。しかしながら、法治国家である以上「私刑(リンチ)」があってはならない。

・以上の過失相殺などの諸状況を勘案して、被告は有罪(懲役2年、執行猶予3年)に処す。また、死亡した蟹に対する過失致死罪に関しては、被疑者死亡により既決事案とする。

・「栗と臼と蜂と牛糞」などによる共同謀議に関しては、被告の蟹兄弟と徒党を組んで犯行に及ぶことになったことを考慮すると、犯罪を構成する要件を満たすことになる。よって有罪(懲役1年、執行猶予2年)に処す。

・しかるに被告・原告双方においては、将来に渡り、「報復の連鎖を断ち切る」という「ヒロシマのこころ
を肝に銘じること、を特記する。

 

江戸時代の「仇討ち」ついての考察

江戸時代の仇討ちには厳格なルールがあった。尊属を殺害した者に対する“私刑”として復讐を行う仇討ちは、幕府公認の制度となった。討ち手が藩領の者なら、まず藩に届け出る。理由が幕府によって検証され、仇討ちが認められると、帳付けといって情報が記録されて、そこではじめて討ち手は藩を離れて移動することなどが許されたのである。仇討ちは長幼の序があり、子が親の仇を討つなど主に血縁関係がある目上の親族のために行われ、その逆は認められない。その他、討ち手と仇人には「恨みっこなし」が原則で、仇人の遺族が討ち手に対して仇討ちをする“重敵”や、返り討ちにあった討ち手の遺族が仇討ちをする“又候敵討ち”は禁止。仇討ちの連鎖は許されなかった。仇討ちをして良い場所も決められており、廓内や寺社仏閣などの境内では禁じられていた。しかし、加害者が行方不明になり、公権力がこれを処罰できない場合には、被害者の関係者に処罰を委託する形式をとることで、仇討ちが認められていた。敵討ちの範囲は、父母や兄等の尊属が殺害された場合に限られ、卑属(妻子や弟・妹を含む)に対するものは基本的に認められていない。