「軍都廣島」から学ぶもの | ヒロシマ平和公園の四季 第2部

ヒロシマ平和公園の四季 第2部

原爆投下により広島の街は「ヒロシマ」に変容しました。その悲劇から70年あまり平和な町に復興しました。しかし、平和公園には「ヒロシマのこころ」が息ずいています。四季の移ろいとともに語り継ぎます。

 2月3日、広島市立商業高校の生徒9人が説明案内する勉強会があった。受講したのは安佐南区学区の小中学生とお母さんたち30人。テーマは「軍都廣島から学ぶもの」。同学区の教育関係者と保護者会からの企画に、HPS国際ボランティアが賛同し実現した。私もHPS関係者の一人としてお手伝いをさせてもらった。

 広島城址公園には大本営をはじめ、中国軍管区司令部、第十一歩兵連隊、陸軍幼年学校、騎兵隊、砲兵隊、工兵隊、憲兵隊、輜重隊(しちょうたい)、陸軍病院などなど軍都廣島の史跡が多く残っている。西練兵場には、臨時帝国議会や御便殿(明治天皇の行在所)などがあった。明治27年の日清戦争開戦当時は、東京に代わって廣島が首都機能を果たしていた。明治天皇の軍事最高責任者を担保する明治憲法下の「統帥権」がこれに準拠していた。あの渋沢栄一も大本営の明治天皇と謁見し、戦費の寄進を約束している。

 明治時代以降、近代化の柱である「富国強兵」の号令の下で、日清・日露戦争から日中戦争そして太平洋戦争へと「戦争の世紀」に突入した。その歴史の中で重要な役割を担ったのが廣島第五師団であった。鉄道網も宇品線の敷設、大陸への兵站積出しのための宇品港の築港、「陸軍三廠」と呼ばれた、兵器支廠、被服支廠、糧秣支廠などは軍事物資供給基地として機能した。

 近現代史の流れの中で、「軍都廣島」の果たした役割は”功罪相半ば”したということができよう。それは近代国家として、列強各国と伍していくための必然であったかもしれない。

 大陸や東南アジアへの進出もまた「大東亜共栄圏」建設という東アジアの安全保障を担保する手段だとすれば正当化できる。当時、列強の植民地であったアジア各刻の解放を目指していたからだ。アジアの植民地の多くは、「大東亜共栄圏」の思想を受け継ぎ、戦後次々に独立を果たしている。あのマッカーサーも戦後、太平洋戦争は「日本の自衛のための戦争」であつた、と米国議会で証言している。これは重要な歴史的な史実として近代史に明記すべきであろう。(教科書には記述なし)

 しかし、歴史は勝者によって記されるため、戦後史において日本は侵略国家として糾弾された。東京裁判によって加害者責任のみが問われ、「法の不遡及」原則に反して、多くの戦争犯罪人を生んだ。これは不条理で理不尽な国際法違反なのである。その結果、原爆投下は正当化された。占領下においては、GHQによる「W G I P」政策が日本中を席巻し多くの日本人を洗脳した。現在においてもその洗脳は、教科書選定や教育内容などに影響を与え、今も連綿として続いているのである。

 「軍都廣島」を学ぶことは、戦争と殺人は全く異質で同義語でないことを知ること。戦争の反対語は平和ではなく、戦争や平和に対する「無関心」であること。「ヒロシマのこころ」とは、報復の連鎖を断ち切ること。核兵器は絶対悪だと認識し、核抑止力は幻想であること。この「ヒロシマのこころ」こそが、戦争抑止力になることを最重要テーマとして肝に銘じること。知的好奇心と想像力を磨くことの大切さに気付くこと。格言にも、愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ、とある。