碑文
「ちちをかえせ
ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ
わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの
にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
峠三吉」
ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ
わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの
にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
峠三吉」
峠三吉は28歳の時、爆心地から3km離れた翠町の自宅で被爆しました。戦後、青年運動・文化運動を通じ次第に平和運動の先頭に立つようになり、原爆反対、平和擁護の作品を数多く発表しました。 1953(昭和28)年3月10日、国立広島療養所で手術中に死去。享年36歳でした。朝鮮戦争が始まり、占領軍による原爆反対運動への弾圧が激しさを増す中、トルーマン大統領の“朝鮮戦争に原爆使用もありうる”という声明に触発され、『原爆詩集』をまとめる決意をしました。この作品は、1951(昭和26)年ベルリンの全世界青年学生平和祭に、日本の代表作品の一つとして送られ、世界的な反響を与えました。碑文はこの詩集の序として書かれたものです。