平成が逝く・・・ | ヒロシマ平和公園の四季 第2部

ヒロシマ平和公園の四季 第2部

原爆投下により広島の街は「ヒロシマ」に変容しました。その悲劇から70年あまり平和な町に復興しました。しかし、平和公園には「ヒロシマのこころ」が息ずいています。四季の移ろいとともに語り継ぎます。

新たな「平成」の時代は、昭和天皇の崩御とともに深い悲しみの中始まりました。新しく天皇に即位された
今上陛下は、即位後初の会見でこのように述べられました。
「天皇の在り方については、(昭和天皇に)お接しした時に感じたことが、大きな指針になっていると思います。」
今上天皇は11歳の時に日本の敗戦を体験され、お父様である昭和天皇の御苦労を直接見聞きしておられました。
その体験の一つに、昭和天皇から送られた1通の「手紙」があります。敗戦時、栃木の奥日光に疎開されていた今上陛下(当時は皇太子)は、昭和天皇からこのような手紙を受け取っていました。
昭和天皇:手紙をありがとう。しっかりした精神をもって元気で居ることを聞いて喜んで居ます。国家は多事であるが 私は丈夫で居るから安心してください。今度のような決心をしなければならない事情を早く話せばよかったけれど、先生とあまりにちがったことをいうことになるのでひかえて居ったことをゆるしてくれ。

敗因について一言いわしてくれ。我が国人があまりに皇国を信じ過ぎて英米をあなどったことである。我が軍人は精神に重きをおきすぎて科学を忘れたことである。明治天皇の時には、山県、大山、山本等の如き陸海軍の名将があったが、今度の時はあたかも第一次世界大戦の独国の如く軍人がバッコして大局を考えず、進むを知って退くことを知らなかったからです。
戦争をつづければ、三種神器を守ることも出来ず、国民をも殺さなければならなくなったので、涙をのんで国民の種をのこすべくつとめたのである。穂積大夫は常識の高い人であるからわからない所あったらきいてくれ。寒くなるから心体を大切に勉強なさい。(あの戦争と日本人/半藤一利著 p338より)
手紙には、敗戦を受け入れる苦渋の決断が綴られる中、子を気遣う昭和天皇の親心が垣間見えます。今上陛下は、お父様からのこの手紙をどんな想いで受けとめられたのでしょうか。
当時の陛下のお気持ちは分かりませんが、確かに言えることは、戦後、陛下は、昭和天皇の意思を引き継ぎ、
象徴としての「天皇」のお立場を常に模索されてきたということです。昭和天皇は、終戦翌年から『戦災復興の視察』として自ら“全国巡幸”を始められました。当時、返還前だった沖縄をのぞく、46都道府県をおよそ8年かけて回られ、敗戦のショックにあった国民と直接言葉を交わし、慰め、励まされました。そうした思いを受け継ぎ、「平成」の幕開けとともに、新たに天皇に即位された今上陛下。

陛下は、天皇のため、お国のために散っていったたくさんの人たちの想いを決して忘れることなく、天皇のご公務で忙しい中でも、沖縄をはじめ、サイパン、パラオ、フィリピンなど、、戦没地への巡礼を続けられました。もちろん戦没者への巡礼だけではありません。台風、地震、洪水など、大災害が起きれば必ず、天皇・皇后両陛下は被災地へ訪れ、被災者と寄り添いあい、慰霊・お見舞いをされました。30年間、一貫してこられた陛下の真摯な姿勢。被災地や戦没地、ご公務の場で頭を下げられる陛下のお姿は、日本人として心が打たれる光景でした。今上天皇としての最後のお誕生日のお言葉:
"「私は即位以来、日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、
今日までを過ごしてきました。」”
この言葉にどれだけの想いが込められていたのか...想像を絶します。もうすぐ平成が終わります。私たち国民も
この休みに少し時間をとって、天皇を戴く日本の歴史の深さを学び、陛下のこれまでの想いを噛み締めながら、
新しい時代の変わり目を有意義に過ごしたいですね。