ヒロシマを伝える 四国五郎とその時代 | ヒロシマ平和公園の四季 第2部

ヒロシマ平和公園の四季 第2部

原爆投下により広島の街は「ヒロシマ」に変容しました。その悲劇から70年あまり平和な町に復興しました。しかし、平和公園には「ヒロシマのこころ」が息ずいています。四季の移ろいとともに語り継ぎます。

 

廣島がヒロシマに変容した時代、ヒロシマを生きた反核文学者たちと呼ばれた人たちの壮絶な記録である。永田浩三さんはこれを「世界に輪郭を与える絵と言葉」と表現した。

 

 

その主役は何といっても四国五郎(右)と峠三吉(左)に代表される。峠三吉は28歳の時、爆心地から3km離れた翠町の自宅で被爆しました。戦後、青年運動・文化運動を通じ次第に平和運動の先頭に立つようになり、原爆反対、平和擁護の作品を数多く発表しました。 

四国五郎は、峠三吉の私家版『原爆詩集』(1951年)の表紙絵や絵本『おこりじぞう』(1979年)の挿絵を手がけるなど、広島で生涯をかけて「反戦平和」を見つめながら表現活動を続けた画家のひとりです。

 

 

そしてもう一人は原民喜であろう。原爆ドーム前の歌碑には

「「遠き日の石に刻み 砂に影おち 崩れ墜つ 天地のまなか 一輪の花の幻」 とある。

原民喜は、40歳の時に幟町の生家で被爆しました。前年、最愛の妻と死別していた彼は、孤独と絶望に打ちひしがれながらも、生き残った者の使命として被爆の惨状を伝える作品「夏の花」を書き続けた。

 

 

「夏の花」は自らの被爆体験を記録的に小説にした代表作です。これは被爆した幟町の生家から逃れ、浅野邸(縮景園)で2日間野宿し、八幡村(現在の佐伯区五日市町)に移るまでの惨状をノートに記し、2年後に発表したものです。