大菩薩峠  鈴鹿山の巻 壬生と島原の巻 | 俺の命はウルトラ・アイ

大菩薩峠  鈴鹿山の巻 壬生と島原の巻

『大菩薩峠 鈴鹿山の巻 壬生と島原の巻』

 

 映画 無声
 オリジナル13巻(110分) 54秒版現存
 昭和十一年(1936年)四月十五日封切
 製作国 大日本帝国
 製作会社 日活京都撮影所
 製作言語 日本語
 
 製作総指揮 池永浩久
 企画 根岸寛一
    池永和央
 原作 中里介山
 脚本 三村伸太郎
    稲垣浩
 撮影 谷本精史
    安本淳
 音楽 西梧郎
    深井史郎
 武道考証 高野弘正
 応援監督 山中貞雄
      荒井良平
 
 配役 
 
 机竜之助  大河内傳次郎
 
 宇津木兵馬 沢田清
 宇津木文之丞 黒川弥太郎
 島田虎之助  岡譲二
 裏宿の七兵衛 鬼頭善一郎
 与八     鳥羽陽之助
 道庵先生   高勢實乗
 真三郎    尾上菊太郎
 土方歳三   清川荘司
 芹沢鴨    市川小文治
 机弾正    山本嘉一
 神尾主膳   山本礼三郎
 弁信法師   滝口新太郎
 茂太郎    宗春太郎
 慶作     横山運平
 屑屋の源助  小林重四郎
 近藤勇    中田浩
 お松     深水藤子
 
 お浜     入江たか子
 
 監督     稲垣浩
 
 ◎
 稲垣浩二郎=東明浩→稲垣浩

        =藤木弓

 
 
 

 大邊男=正親町勇=西方弥陀六

      =室町次郎=大河内傳二郎

      =大河内傳二郎→大河内傳次郎

      =大河内伝二郎

 ◎

 鑑賞日時場所

 令和六年(2024年)七月六日

 京都文化博物館フィルムシアター

 ◎

 机竜之助は音無しの構えによって無敵の剣士

となった。彼の刀は血に飢えたかのように人々

を斬り、屍の山を築いていく。

 御嶽山奉納試合で竜之助は宇津木文之丞を斬

った。

 文之丞の妻浜は勝を夫に譲って下さらぬかと

頼みに行って竜之助に身体を奪われた。

 竜之助はお浜を連れて自身の妻として強奪し

た。

 江戸において新選組に入った竜之助は無残に

も妻にした浜を斬殺する。

 兄の仇を討たんとする宇津木文之丞が竜之助

を追う。

 

 

 ◎鬼気迫る芸 竜之助 傳次郎◎

 

 

 

 大河内傳次郎(おおこうち・でんじろう)は明

治三十一年(1898年)二月五日福岡県に誕生

した。戸籍上は明治三十一年三月五日誕生だ

が、傳次郎が強く二月五日誕生を語ったという。

 本名は大邊男(おおなべ・ますお)である。

昭和三十七年(1962年)七月十八日、六十四歳で

死去した。

 

 稲垣浩(いながき・ひろし)は明治三十八年

(1905年)十二月三十日に東京本郷区に俳優東

明二郎の息子として誕生した。本名は稲垣浩二

郎である。

 昭和五十五年(1980年)五月二十一日、七

十四歳で死去した。

 

 母親の薬代を稼ぐために小学校一年生の一

学期で退学し子役となり東明浩の芸名で舞台

活動を成した。八歳で母が亡くなり、父二郎と

共に旅公演に出て沢山の書籍を読んだ。

 

 大正十一年(1922年)日活俳優部に入り、

親戚でもあった伊藤大輔に強い憧れを抱き、

大輔が伊藤映画研究所を設立した際に助監督

となり後に阪東妻三郎プロダクションにおい

ては俳優となった。

 

 

 明治十八年(1885年)四月四日、中里弥之

助は神奈川県に誕生した。

 号が中里介山である。大正二年(1913年)

九月二日から大正十年(1921年)十月迄小説

『大菩薩峠』を『都新聞』に連載し、『都新聞』

連載より後は自費で出版した。以後春秋社・『大

阪毎日新聞』『東京日日新聞』『隣人の友』『国

民新聞』『読売新聞』と発表の場を移しつつ、昭

和十六年(1941年)まで『大菩薩峠』執筆を続

けた。

 昭和十九年(1944年)四月二十八日、五十九

歳で死去した。

 

 映画『大菩薩峠』の企画は始め伊藤大輔監督

で練られた。

 中里介山は「伊藤大輔の写真を見ておこう」

と決めて映画館で『血煙高田の馬場』を鑑賞

した。

 「安兵衛といっしょに高田の馬場まで走りづ

めに走らされたからだよ」と鑑賞後の介山は疲

労の理由を語った。

 

 大河内傳次郎演ずる中山安兵衛の大疾走シーン

は現存しているが、見聞した介山も興奮疲労した。

 

 大輔演出・唐沢弘光キャメラマンの撮影術は観

客に一緒に走っているという感覚を呼び起こす。

 

 

 ところが日活重役は大輔の考えで映画化企画を

決めたと激怒した。大輔は日活を去り、『大菩薩

峠』の出版元神田豊穂の後援を受けて、中里介山

と映画プロダクション大峰社を設立する。

 

 神田豊穂は熱心なキリスト教徒で、彼の友人で

同じくクリスチャンの男性の娘と出会った大輔は

感激し、『大菩薩峠』に起用したいと望んだ。

 

 この女性は及川道子である。

 伊藤大輔は『大菩薩峠』企画のどの役に及

川道子を望んだのか?お松であろうか?今と

なっては謎で想像するしか術はない。

 春秋社の危機で大嶺社の『大菩薩峠』映画

企画は流れてしまった。

 

 

 昭和十年(1935年)日活は『大菩薩峠』

映画化を決定した。既に伊藤大輔は退社して

おり、監督には稲垣浩が選ばれた。

 

 中里介山は武道考証の高野弘正の殺陣に

感嘆し彼の竜之助役を熱望した。

 

 稲垣浩は本格的時代劇の企画である『大

菩薩峠』を語り、原作者の中里先生の道楽

で許されますかと説得を試み大河内傅次郎

の配役を了承してもらったという。脚本に

三村伸太郎、応援監督に山中貞雄・荒井良

平が参加した。

 

 『大菩薩峠 第一篇 甲源一刀流の巻』は

昭和十年(1935年)十一月十五日に封切ら

れた。ロシアで見つかった77分版のフィルム

が現存しているようである。

 

 

 続篇である『大菩薩峠 鈴鹿山の巻 壬生

島原の巻』54秒版が七月六日に京都文化博物

館フィルムシアターで上映された。

 

 54秒版と言って侮ってはいけない。

 

 机竜之助の壮絶な殺気を大河内傳次郎が

妖気たっぷりに魅せている。

 

 机竜之助と宇津木兵馬の対決場面と机竜

之助が御簾を斬りまくるシーンが現存して

いる。後者は引用画像の場面だ。燃える炎

に竜之助の流血地獄の在り方が反映している。

 

 

 

 御簾を斬る竜之助の凄みに圧倒された。

 

 音無の構えの剣で人を斬り殺人を繰り返し

流血を重ね罪に苦悶するが、結局は剣を取っ

て戦う道に全てを絞ってしまう。

 

 生きる事が血を流すことに直結してしまう。

 

 血に飢え血で地を染める。

 

 机竜之助の壮絶な生き方を大河内傳次郎

が重厚な芸で現している。

 

 

                 合掌