初代豊竹咲太夫生誕八十年 平成二十三年一月十五日『染模様妹背門松』に学ぶ | 俺の命はウルトラ・アイ

初代豊竹咲太夫生誕八十年 平成二十三年一月十五日『染模様妹背門松』に学ぶ

 

 

 初代豊竹咲太夫(しょだい・とよたけ・さきたゆう)

 本名 生田陽三(いくた・ようぞう)

 芸名歴 竹本綱子太夫

    豊竹咲大夫

    豊竹咲太夫

 昭和十九年(1944年)五月十日生まれ。

 令和六年(2024年)一月三十一日死去。

 

 父は八代目竹本綱太夫。豊竹山城少掾に入

門。

 重厚な語りで役の命を明かした。豪快豪放

な声は凄かった。

 

 

 平成二年(1990年)六月中座において上演され

た六月大歌舞伎の夜の部『義経千本桜』「川連法眼

館」に豊竹咲大夫が出演した。

 源九郎狐・佐藤忠信は五代目中村勘九郎後の十

八代目中村勘三郎が人形振りで勤めた。咲大夫の

大音声の語りに感嘆し息を呑んだ。人形振りで動

く五代目勘九郎の芸にも緊張した。

 

 この公演を見聞し、自分は文楽に導かれた。

 

 豊竹咲太夫はわたくしにとって文楽の尊さを

劇場において最初に教えて下さった師匠である。

 

 平成四年(1992年)二月十日国立文楽劇場

歌舞伎公演『通し狂言 仮名手本忠臣蔵』「八

段目」に豊竹咲大夫は出演した。上方演出の「八

段目」に文楽大夫は歌舞伎を応援し出演する。

 歌舞伎ファンにとっても有り難い事柄である。

 

 自分にとって文楽に熱中する身になった事の

契機は、歌舞伎公演に特別出演した咲大夫の語

りを劇場客席で聞いた事である。

 

 数々の名舞台を国立文楽劇場で聞いた。

 

 十五代目片岡仁左衛門とは同年で親友だった。

初代片岡孝太郎によると二人はライバルであった

という。

 阪神タイガースファンの二人は映画『最後の

忠臣蔵』に出演した。

 

 岡田彰布監督率いる阪神タイガースがV2を

達成して豊竹咲太夫の声援に応えることを祈

っている。

 

 本日は平成二十三年(2011年)一月十五日

国立文楽劇場公演『染模様妹背門松』の語りに

学びたい。同年六月十三日発表記事を再編して

いる。

 

 

国立文楽劇場公演

第一二一回文楽公演 平成二十三年一月十五日

 

『染模様妹背門松』(そめもよういもせのかどまつ)

 

作/菅専助

 

「油店の段」

 中

 

豊竹咲甫大夫

野沢喜一朗


 

豊竹咲大夫

鶴澤燕三

 

蔵前の段

お染      豊竹英大夫

善六      豊竹松香大夫

久松      豊竹睦大夫

太郎兵衛   竹本津國大夫

清兵衛     竹本南都大夫

 

          竹澤團七


 

〈人形役割〉

 

お染          豊松清十郎

久松          吉田勘彌

 

下女りん        吉田蓑志郎

伜多三郎        吉田清五郎

芸妓おいと       吉田蓑一郎

山家清兵衛      吉田玉也

母おかつ        桐竹勘壽

小道具屋利兵衛   吉田玉勢

親太郎兵衛      吉田玉輝


 

大阪屋源右衛門   吉田勘緑

番頭善六        桐竹勘十郎

 

豊竹咲甫大夫→六代目竹本織太夫

 

豊竹英大夫→十一代目豊竹若太夫

 

公演当時太夫の表記は大夫であった。


 

 明和四年(一七七六年)十二月、大坂豊竹

此吉座初演。


 

 お染久松心中事件を基にした狂言のひとつであ

る。

 

 油屋のお染と丁稚の久松は恋仲である。それを

面白く思わないのが番頭の善六だ。赤ん坊の頃か

らお染の世話をしていたと恩着せがましく自慢して

彼女を自分のものにしようと執拗に言い寄って、お

染に手厳しく振られる。それを逆恨みして、執拗

に罠を張りめぐらすのが善六のいやらしさであ

る。



 

  「それはつれない読んだとて罰も当たらぬお染

  様。是非に返事」

 

  「エヽいやじゃはいの」

 

 善六と大阪屋源右衛門は、お染の兄多三郎が

芸妓おいとに夢中であることに目を付けて、罠を仕

掛けるが、お染の許嫁者山家屋清兵衛に奸計を

見破られた。

 

 ストーカーの善六は腹の虫が治まらず、久松が

お染に当てた恋文を読んで、清兵衛に恥をかかせ

ようとした。


 

 「エヘンエヘンエヘンエヘン東西東西このところ

 お聞きに達しまする浄瑠璃外題『お染久松袂の

 白絞り』、相勤めまするは豊竹善六大夫、三味線

 さぐり澤源右衛門。いよいよこのところ上の巻から

 読み上げ奉る」


 

 劇中で登場人物が浄瑠璃を語る趣向である。善六

はチャリ首(かしら)の手代だ。善六が道行本を自

分の頭に「ちょいのせ」するが、この「ちょいのせ」は、

この狂言の通称にもなっている。


 

 「オオイヤイヤ宛名が肝心ぢゃ、エエ『お染様参る

 善六より』。ハアこの善六とは誰やらのことであつた

 はい」

 

 清兵衛の機転で手紙は、善六がお染に当てた恋文

とすり替えられ、善六・源右衛門の悪企みが露見し

た。


 

 咲大夫の堂々たる大音声が圧巻で、善六の語り

では、場内爆笑であった。

 「成田屋!海老蔵!」のアドリブもあった。現

在の十三代目市川團十郎白猿である。

 

 勘十郎・勘緑コンビの善六・源右衛門も、息

がピッタリで大いに笑わせてもらった。

 

 善六のチャリに爆笑しつつ、若い美女お染に横恋慕

してふられて、失敗を続けて男の愚かさを晒すという

彼の生き方は、中年男になった自分の身に、しみじみ

と哀感を届けてくれるものとなっている。


 

 「生きてゐる間が花、死んでしまへば美しいその顔も

 艶(はで)な形(なり)もあのお文さまの文章通り、ただ

 白骨のみぞ残れりぢゃ。」

 

 親太郎兵衛はお染に、朝のお勤め(勤行)で拝聴する

「白骨の御文」の教えを伝える。

 

 

 「白骨の御文」とは蓮如の『御文』(おふみ)の第五帖

の十六通の教えである。

 

 

  「一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体

  をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、

  あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、す

  えの露よりもしげしといえり。されば朝(あした)には紅

  顔ありて夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の

  風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちに

  とじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変

  じて、桃李のよそおいうしないぬるときは、六親眷属あ

  つまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべか

  らず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくり

  て夜半(よわ)のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨

  のみぞ残れり」

  

  

  試訳

  「一生は過ぎやすいものです。今に至るまで、誰が百

  年の肉体を保ち得たでしょうか?私が先か、他人が先

  か、今日かもしれないし、明日かもしれないし、後に亡

  くなる人も、先に亡くなられた人も、根元の雫や葉先の

  露より多いと言えるでしょう。

  ですから、朝には美しい顔をしていても、夕には白骨

  となってしまう身なのです。すでに無常の風が吹いて

  しまえば、二つの眼は閉じ、ひとつの息が絶えれば、美

  しい顔も空しく変わって、桃やすもものように生き生き

  とした姿を失ってしまえば、全ての親族が集まって悲し

  んでも、回復することは無理です。ほうっておく訳にも

  いかないので、野辺の送りの後荼毘に付して、夜半の

  煙になれば、白骨のみが残るのです」

 

 

 蓮如の「白骨の御文」は、仏教の根本を確かめたもの

である。「御文」の中でも最も有名である。親鸞・蓮如

の名を聞かれたことが無い方でも、「朝には紅顔ありて

夕べには白骨となれる身なり」の一句は聞かれたことが

あるのではないか。

 

 どんな存在にとっても、何時なんどき起こるかわからない

「無常の風」は怖いし、重い事柄として心に響く。いのち

の無常を確かめつつ、今日の一日の一瞬一瞬を生きている

ことの尊さを確かめよ、と蓮如は伝える。

 

 

 父太郎兵衛は、お染に「白骨の御文」の教えを説き、「生き

ているうちが花」と伝えるが、お染はいのちを捨てて久松と

共に添い遂げることを決めている。

 

 善六の「ちょいのせ」で笑わせつつ、お染久松の道行で切な

さが極まる。

 

 豊竹咲太夫の語りはファンの心に今も響いている。

 

 
                    南無阿弥陀仏