十三代目片岡仁左衛門主演 八陣守護城 平成五年十二月南座 | 俺の命はウルトラ・アイ

十三代目片岡仁左衛門主演 八陣守護城 平成五年十二月南座

平成五年(1993年)十二月南座公演

 夜の部

『八陣守護城』「湖水御座船の場」

 

 

 作 中村魚岸  

   佐川藤太

 

 配役

 

 佐藤肥田守正清 十三代目片岡仁左衛門

 

 家臣斑鳩平次  初代片岡進之介

 家臣正木大介  六代目片岡愛之助

 轟軍次     六代目片岡十蔵

 鬼鹿毛藤内   四代目片岡松之助

 正清の近習    片岡松三郎

 正清の近習   徳也

 船頭      中村仲二朗

 船頭      市川新次

 船頭      中村東志也

 忍びの侍    市川新七

 鞠川玄蕃   二代目坂東吉弥

 

 

 三左衛門娘雛衣  三代目中村鴈治郎

 ◎

 片岡千代之助=初代片岡千代之助

       →四代目片岡我當

       →十三代目片岡仁左衛門

 

 六代目片岡十蔵→六代目片岡市蔵

 

 三代目中村鴈治郎→四代目坂田藤十郎

 ◎

 加藤正清は幼君春若丸の名代として勅

使饗応の席に出た。北畠春雄の陰謀を感

じつつ、春雄が用意した毒入りの酒を正

清は飲んだ。

 

 琵琶湖の湖上の御座船で息子主計之助

の許嫁雛衣が琴を弾く。琴の音を正清が

聞いている。

 

 北畠春雄の家臣鞠川玄蕃や轟軍次は主人

が盛った毒の効き方を観察するが毒を飲んだ

正清は衰弱せず悠々として落ち着いていた。

 

 鎧櫃の中に刺客が潜んでいたが、正清は

彼を一蹴する。

 

 

 だが毒は正清の身体を蝕んでいた。

 

 苦痛を堪える正清を雛衣が支える。

 

 正清は毒を飲んで衰弱して苦痛の中に在っ

ても忠誠心を熱く燃やす。  

 

 

 文化四年(一八〇七年)九月大坂大西芝居

において初演された。加藤清正が徳川家康か

ら毒酒を盛られても、死の寸前まで豊臣秀頼を

守護しようとしたという伝説を基に書かれた狂

言である。

 清正は佐藤正清、家康は北畠春雄の名で劇

化された。

 史実で家康が清正に毒酒を飲ましたかどうか

は、勿論わからない。あくまでも伝説として伝

えられていることである。

 

 

  十三代目片岡仁左衛門

 (じゅうさんだいめ・かたおか・にざえもん)

 

 歌舞伎役者

 本名 片岡千代之助

 明治三十六年(1903年)十二月十五日東京

日本橋に生まれた。

 

 父は十一代目片岡仁左衛門である。

 

 

 明治三十八年(1905年)十二月南座で片岡

千代之助の本名を芸名として『手打』で初舞台

を踏む。

 昭和四年(1929年)四月歌舞伎座で『近頃

河原の達引』の伝兵衛で四代目片岡我當を襲名

する。

 昭和五年(1930年)喜代子夫人と結婚し、

後に三男五女をもうける。

 三人の息子秀公・彦人・孝夫は、後の五代

目片岡我當・二代目片岡秀太郎・十五代目片

岡仁左衛門である。

 

 昭和二十六年(1951年)三月大阪歌舞伎

座において『時雨の炬燵』の治兵衛、『新口

村』の忠兵衛・孫右衛門で十三代目片岡仁

衛門を襲名する。

 昭和三十四年(1959年)三月二十五日封切、

制作東映京都、脚本加藤泰、監督小沢茂弘に

よる『あばれ街道』において、市川團十郎を

勤める。

 

 昭和三十六年(1961年)毎日ホールで『菅

原伝授手習鑑』「道明寺」で菅原道真(菅丞相)

を勤める。伯母覚寿は二代目中村鴈治郎である。

 菅原道真公を勤めるに当たって、精進潔斎し

肉食は公演中しないという在り方を徹底された。

 

 昭和三十七年(1962年)、関西歌舞伎上演

が厳しい時代に、私財を擲って、自主公演仁左

衛門歌舞伎を旗揚げする。

 上方歌舞伎は観客が激減し、劇場では歌舞

伎が上演されないという事態が続く。

 

 仁左衛門は、歌舞伎役者としての危機感の

もと、「失敗すれば家を売ればよい」という

決意で自主公演の旗揚を決め、喜代子夫人と、

息子達・娘達との家族会議で相談し、賛同

を得て、自主公演上演の意志を明確にし実現

の計画を進める。

 乾坤一擲の決意のもと、自主公演を朝日座

で上演した。

 大坂の道頓堀で浪花の歌舞伎を上演したい。

この心根のもと、演目に『夏祭浪花鑑』が選

ばれ、仁左衛門は主人公団七九郎兵衛を勤め

た。

 

 興行的には大ヒットし、客席には立錐の余

地が無いほどの観客が集まったそうである。

 

 後にNHKの『この人 片岡仁左衛門ショー』

で仁左衛門は、この公演の口上を再現した。

 

 

   大坂で歌舞伎の上演がない。こんな悲しい

   ことはありません。わたしは、この道頓堀の

   朝日座で、歌舞伎を演りたかったんです。

   皆さん、ありがとうございました。

 

 八十歳の仁左衛門は、五十八歳の感激を昨日

の出来事のように鮮明に語ってくれた。

 

 

 十三代目仁左衛門の言葉には日々教えられている。

 

    「騙されても騙すな」

 

    「果報は練って待て」

 

    「怒ったら損や」

 

    「一度勤めた役でも工夫を忘れない」

 

    「感謝の心」

 

 

 神仏への感謝を大切にされ、先祖への敬意を

表される。一日一日の命に感謝することを教え

て頂いた。

 

 

 平成五年十二月の何日に南座顔見世を鑑賞

したかのメモを付け忘れていた。迂闊なミスで

あった。だが、舞台の衝撃は今も強烈である。

 

 赤っ面の十三代目仁左衛門は迫力豊かだっ

た。

 

 主君春若丸君を命がけで守ろうとする正清

の闘魂が燃えていた。

 

 

 

 客席で鑑賞したわたくしは、「十三代目

片岡仁左衛門の声が細くなられたかな?」と

感じた。

 

 片岡進之介の平次と片岡愛之助の平次は

綺麗だった。

 

 二代目坂東吉弥の玄蕃と六代目片岡十蔵後

の六代目片岡市蔵の軍次は正清毒殺を見届け

ようとする陰険さが光っていた。

 

 三代目中村鴈治郎の雛衣は美しかった。六

十一歳の鴈治郎が清純な美を光らせた。琴の

音も素敵だった。三代目鴈治郎が雛衣を勤め

たことで顔見世になった。

 

 毒を盛られ、息が苦しくなり、命の危機に

遭う正清が主家を命賭けで守ろうとする。雛

衣は義理の父のような存在である正清を懸命

に支える。

 

 歌舞伎を尊びその命を燃やしたいとする十

三代目片岡仁左衛門とその志を学ぶ三代目中

村鴈治郎後の四代目坂田藤十郎の芸魂が大詰

に照応しているように感じた。

 

 

1994・3・26

 

 十三代目片岡仁左衛門は、平成六年(1994

年)三月二十六日、京都市嵯峨野の自宅におい

て老衰により死去した。満年齢九十歳。

十三代目片岡仁左衛門 喜代子夫妻

 

 

 平成二十年(1998年)初代片岡孝夫が十五代目片岡仁

左衛門を襲名した。

 

 平成二十四年(2012年)九月十六日南座

で『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』を

鑑賞した。加納作次郎に南座で出会う縁に

感慨があった。

十三代目仁左衛門 九代目三津五郎

 

  十三代目片岡仁左衛門は歌舞伎について、

「私の命です」と仰った。その言葉を心に刻みた

い。

 南座で舞台を鑑賞する日は、二階ロビーの

十三代目片岡仁左衛門の肖像に一礼している。

 

 『八陣守護城』の佐藤正清は最後の舞台とな

った。

 

 十三代目片岡仁左衛門は佐藤正清の命を南座

舞台で熱く燃やした。

 

                文中一部敬称略

 

 

                    合掌

 

 

                 南無阿弥陀仏

 

 

                 セブン

佐藤正清 十三代目さん