出世太閤記 | 俺の命はウルトラ・アイ

出世太閤記

『出世太閤記』

映画 トーキー  113分 白黒

昭和十三年(1938年)六月十七日封切

製作国 大日本帝国

製作言語 日本語

製作   日活太秦

 

原作 山上伊太郎

脚色 山上伊太郎

 

助監督 稲垣朝二

    磯垣金之助

    田坂勝彦

撮影  宮川一夫

録音  中村敏夫

音楽  西梧郎

設計  角井平吉

照明  加藤庄之丞

 

配役

 

木下藤吉郎 嵐寛寿郎

 

おねね   市川春代

 

斎藤龍興  河部五郎

柴田権六  市川小文治

 

小一    原健作

丹羽五郎左衛門 瀬川路三郎

竹中半兵衛 香川良介

 

蜂須賀鶴松 尾上華丈

藤井又右衛門 志村喬

鮨崎茂助  市川正二郎

築阿弥   藤川三之祐

佐久間右衛門丞 仁礼功太郎

百姓     久米譲

日野根弥五右衛門 若松文男

左官の親方  大倉多一郎

大工の棟梁  葉山富之輔

小百姓合若  島田照夫

 

お伸     吉田一子

ねねの母   小松みどり

於朝     清水照子

 

蜂須賀小六  東明二郎

織田三郎吉法師 宗春太郎

小猿      杉マサオ

 

織田信長   月形龍之介

前田犬千代  尾上菊太郎

 

 

監督 稲垣浩

 

嵐寛寿郎=嵐長三郎

 

原健作→原健策

 

香川良介=香川遼

 

島田照夫=島田照男

    =尾上助三郎=片岡栄二郎

 

月形龍之介=月形陽候=月形竜之介

     =月形龍之助=中村東鬼蔵

                =門田東鬼蔵

 

稲垣浩二郎=東明浩→稲垣浩

        =藤木弓

鑑賞日時場所

平成十七年(2005年)九月九日

京都文化博物館 映像ホール

 小猿と呼ばれる少年は暴れん坊であった。

母親は十二歳になる小猿少年の暴れ方に悩

んでいる。「一国一城の主になる」という

大夢を語った小猿は家を出た。

 野武士蜂須賀小六に迎えられた小猿は侍

になりたいという望みを実現する。

 木下藤吉郎と改名した小猿は尾張の大名

織田信長に仕え草履取りとなる。

 

 機転が利き知恵が回る藤吉郎を信長は重

く用いる。

 

 藤吉郎も主君信長に忠誠を尽くす。

 

 おねねという妻を迎えた藤吉郎は、舅藤

井又右衛門とも交流する。

 

 信長は桶狭間の戦いで大敵今川義元を奇

襲してこれを討った。

 

 藤吉郎は清州城修繕で手柄を立てた。

 

 母を呼ぶ藤吉郎は孝行を尽くす。

 

 ◎重厚藤吉郎 寛寿郎◎

 

 嵐寛寿郎は明治三十五年(1902年)十二月

八日京都府に誕生した。本名は高橋照一であ

る。歌舞伎界を経てマキノプロダクションに入

り、鞍馬天狗を演じて時代劇大スタアとなり、

嵐寛寿郎プロダクションを設立し解散後日活

に入った。

 昭和五十五年(1980年)十月二十一日、

七十七歳で死去した。

 

 満年齢三十五歳で木下藤吉郎を勤めた。猿/

アラカンの配役である。軽妙なしゃべくりで

人たらしの魅力を発揮するというイメージと

は異なり、重厚で慎重で直向きな青年として

藤吉郎は描写されている。

 天才と呼ばれた山上伊太郎と稲垣浩監督は

アラカンのイメージに思い浮かべて役の設定

を打ち出したのであろうか。

 

 藤吉郎は渋くて一徹な若者である。

 

 嵐寛寿郎が真剣青年藤吉郎を深く探求した。

 

 市川春代は大正二年(1913年)二月九日に

誕生した。本名も市川春代で結婚後加々良春代

となった。

 平成十六年(2004年)十一月十八日、九十一

歳で死去した。

 満年齢二十五歳でおねねを演じた。その美貌

は輝いている。

 昭和四十三年(1968年)三月十七日TBS系放

送のテレビドラマ『ウルトラセブン』「北へ還れ!」

においてフルハシ・シゲル(石井伊吉後の毒蝮

三太夫)の母親で深い存在感を示した。

 稲垣浩活動大写真ではヒロインとして輝きを

示した。

 

 

 月形龍之介は、明治三十五年(1902年)三

月十八日宮城県遠田郡小牛田村に誕生した。

 本名は門田潔人(もんでんきよと)である。

 別名義に月形陽候・月形竜之介・月形龍之

助・中村東鬼蔵・月形東鬼蔵がある。

 大正九年(1920年)、活動大写真の役者を

志して牧野省三の俳優養成所に入り、同年『仙

石権兵衛』でデビューする。 

 映画・歌舞伎の演技に学び、時代劇俳優とし

て大活躍する。

 マキノ時代劇のスターとして人気を博すが、初

代中村吉右衛門を篤く尊敬していたという。

 昭和四十五年(1970年)八月三十日京都府に

おいて六十八歳で死去した。

 満年齢三十六歳で織田信長を勤めた。乱世の

英雄信長を月形龍之介は重く深い芸で凄み豊か

に表現した。

 

 

 稲垣浩(いながき・ひろし)は明治三十八年

(1905年)十二月三十日に東京本郷区に俳優東

明二郎の息子として誕生した。本名は稲垣浩二

郎である。

 昭和五十五年(1980年)五月二十一日、七

十四歳で死去した。

 

 母親の薬代を稼ぐために小学校一年生の一

学期で退学し子役となり東明浩の芸名で舞台

活動を成した。八歳で母が亡くなり、父二郎と

共に旅公演に出て沢山の書籍を読んだ。

 

 大正十一年(1922年)日活俳優部に入り、

親戚でもあった伊藤大輔に強い憧れを抱き、

大輔が伊藤映画研究所を設立した際に助監督

となり後に阪東妻三郎プロダクションにおい

ては俳優となった。

 

  

 昭和三年(1928年)片岡千恵蔵は自身のプロ

ダクションの映画活動で伊藤大輔を招聘しよう

としたが、大輔はスケジュール多忙で行けず、

親友伊丹万作・稲垣浩を送り、浩は片岡千恵蔵

プロダクション第一作『天下太平記』監督の大

役を勤めた。

 ヒットしたという『天下太平記』のフィルム

は残念ながら現存していない。

 

 稲垣浩は監督として存在感を発揮する。

 

 大夢を抱きその実現に向かって誠実に勤め、

真剣に歩む。

 木下藤吉郎のサクセスストーリーである。稲垣

浩監督の語り口は観客の心を暖めてくれる。

 

 

 

 志村喬は明治三十八年(1905年)三月十二日に

兵庫県に誕生した。

 本名は島崎捷爾(しまざき・しょうじ)である。

出演映画は四百本を超える。日本映画史を支えた

大名優である。

 昭和五十七年(1982年)二月十一日、七十六歳

で死去した。

 満年齢三十三歳で年上の嵐寛寿郎の舅藤井又右衛

門を深い演技で勤めている。若き日から老け役が得

意であったことが窺える。

 

 

 原健作は明治三十八年(1905年)四月二十三

日に誕生した。

 後に原健策と改名し、時代劇で重厚な名演を

発表し、難役を豊かな芸で勤めた。

 平成十四年(2002年)二月七日九十六歳で死

去した。

  娘に松原千明、孫にすみれがいる。満年齢三

十三歳で人の良い小一後の豊臣秀長を鮮やかに

演じた。

 

 昭和三十六年(1961年)十一月八日封切の製作

東映京都、脚本・監督伊藤大輔の映画『反逆児』に

おいて、羽柴秀吉/原健策、織田信長/月形龍之介の

配役が実現した。

 

 原健作は原健策に改名し小一の兄秀吉を演じた。

 

 月形龍之介はカラー時代においても信長を演じた。

 

 この映画においては、秀吉は老獪で冷酷な策略家

で、信長は冷酷非情の大名である。

 

 原健作後の原健策が弟から兄、月形龍之介は白黒・

カラーで豪放・残虐の天下人を演じ歩んだ事は興味

深い。

 

 伊藤大輔が盟友稲垣浩監督の写真を意識したかどう

かはわからない。

 

 稲垣浩は『出世太閤記』は情感豊かな家庭劇として

も撮っている。

 

 伊藤大輔は『反逆児』を戦国家庭悲劇として撮った。

 

 全く作風は違うが、原健作後の原健策と月形龍之介

が兄弟や同一人物を演じ両作品を支えたことは確かめ

ておきたい。

 

 合戦シーンの迫力は光っている。

 

 稲垣浩と嵐寛寿郎が組んだ『出世太閤記』は真剣青年

木下藤吉郎の活躍を語る戦国活動大写真として輝いてい

る。

 

  月形龍之介 百二十二回目の誕生日

 

           令和六年(2024年)三月十八日

 

 

                      合掌