忠魂義烈 実録忠臣蔵(参) | 俺の命はウルトラ・アイ

忠魂義烈 実録忠臣蔵(参)

『忠魂義烈 実録忠臣蔵』

映画 無声 82分 白黒

昭和三年(1928年)三月十四日封切

製作国 大日本帝国

製作字幕言語 日本語

 

製作    マキノプロダクション

製作総指揮 マキノ省三

編集    マキノ省三

 

脚本    山上伊太郎

      西条正太郎

 

監督補  秋篠珊次郎

応援監督 吉野次郎

     押本七之輔 他

撮影   田中十三 他

撮影補  藤井春美

 

昭和四十三年(1968年)再編集版

字幕 窓野雪夫

現像 東洋現像所

監修 マキノ雅弘

製作 マツダ映画社

 

出演

 

伊井蓉峰(大石内蔵助良雄)

 

 

市川小文治(吉良義央 片岡高房)

 

勝見庸太郎(立花左近)

月形龍之介(清水一角)

中根龍太郎(松野河内守 与太九呂)

嵐長三郎(脇坂淡路守 寺坂信行)

片岡千恵蔵(服部市郎右衛門 萱野三平)

片岡市太郎(柳原権大納言)

杉狂児(お源)

マキノ正博(大石主税良金)

小島陽三(徳川綱吉)

松本時之助(浅野大学)

中村東之助(田村右京太夫 原元辰)

小岩井昇三郎(伊達左京之亮 三村包常)

山本礼三郎(梶川頼照 堀部武庸)

金子新(高野中納言 潮田高教)

市川小莚治(高野中納言 神崎則安)

荒木忍(前野平内)

川田弘道(猿橋右門)

菊波正之助(万吉)

秋吉薫(石束甚八)

中田国義(荘田下総守)

若松文男(岡田伝八郎)

静馬静之助(介錯)

梅田五郎(平井長庵)

守本専一(石堂)

大味正徳(榊原)

斉藤俊平(高見勘解由)

児島武彦(柳沢吉保 萱野七郎左衛門)

大谷万六(千住 玉虫七郎右衛門)

都賀清司(八動)

松尾文人(大石千代松)

都賀一司(大石大三郎)

津村博(清水一角 弟)

尾上松緑(牧山大五郎 大野九郎兵衛)

藤井六輔(〆助)

大国一郎(和久牛太郎 千五郎)

嵐冠(間十太郎)

染井達郎(堀部金丸)

松村光男(堀部光延 良雪)

若松文男(吉田忠左衛門)

嵐冠吉郎(間瀬正明)

原田耕造(村瀬秀道)

大味正徳(小野寺秀和)

柳妻麗三郎(奥田重盛)

松本熊男(貝賀友信)

西郷昇(千葉光忠)

南部国男(木村貞行)

木村猛(中村正辰)

森清(菅谷正則)

大谷鬼若(早水藤左衛門)

星月英之助(岡島常樹)

矢野武夫(萱野和助)

豊島龍平(横川宗利)

金子新(潮田高教 東下り)

東郷久義(赤植源蔵)

佐久間八郎(不破正種)

英まさる(近松行重)

坂本二郎(富森正因)

沢村錦之助(倉橋武幸)

武井龍三(武林隆重)

天野刃一(大高源吾)

八雲燕之助(吉田兼貞)

鈴木京平(矢田助武)

市川谷五郎(小野寺秀富)

川島清(杉野次房)

藤岡正義(大石信清)

牧光郎(村松高直)

有村四郎(奥田行高)

小金井勝(間光興)

松坂進(磯貝正久)

市原義雄(岡野包秀)

マキノ登六(間新六)

久賀龍三郎(勝田新左衛門)

潮龍二(間瀬正辰)

マキノ梅太郎(矢頭教兼)

徳川良之助(近藤源八)

守本専一(藤井彦四郎)

荒尾静一(早川宗助)

高山久(田中清兵衛)

嵐冠三郎(豊田八太夫)

尾上延三郎(豊田庄助)

花岡百合子(戸田の局)

玉木悦子(瑶泉院)

石川新水(大石陸)

マキノ智子(早水千賀)

松浦築枝(浮橋太夫)

渡辺綾子(軽藻太夫)

住ノ江田鶴子(吉野太夫)

三保松子(お梶)

河上君江(妙香)

水谷蘭子(お富)

岡島艶子(露野)

鈴木梅子(清水一角の姉)

大林梅子(お海)

五十川鈴子(芳子)

都賀静子(田毎)

廣田昴(与助)

玉木潤一郎(為五郎)

大岡怪童(伝九郎)

 

 

諸口十九(浅野長矩)

 

監督 マキノ省三

 

資料の表記によっては、松村光男の僧

の役名は良雲がある。

 

尾上松緑は1895年生まれの映画俳優で

歌舞伎俳優二代目尾上松緑とは別人で

ある。

マキノ省三=牧野省三

     =マキノ青司

     =マキノ荘司

 

月形龍之介=月形陽候=月形竜之介

     =月形龍之助=中村東鬼蔵

                =門田東鬼蔵

 

 

嵐寛寿郎=嵐長三郎

 

植木正義→=植木進=片岡十八郎

     =片岡千栄蔵→片岡千恵蔵

 

マキノ正博=牧野正博=マキノ正唯=マキノ陶六

       =牧陶六=牧野正唯=牧野正雄

       =牧野陶六=マキノ雅弘=マキノ雅広

 

尾上松緑=清浦新八

 

マキノ智子=マキノ輝子=藤野智子

     =牧野輝子=マキノ恵美子

     =マキノ笑子

     

     

 

 

☆鑑賞日時

平成十四年(2002年)十二月八日

京都文化博物館映像ホール

 

この時の他何度か同博物館において

見聞している。


令和四年(2022年)四月二十一日発表

記事・令和五年(2023年)八月三十日

発表記事を再編している。

 

 元禄十四年三月十四日(1701年4月21日)

浅野内匠頭長矩江戸城松之大廊下で吉良上野

介義央に対して抜刀し斬りかかった。

 五代将軍徳川吉宗は即日切腹を命じた。長矩

は自刃し満年齢三十四歳数え年三十五歳で生涯

を閉じた。

 

 赤穂家老であった大石内蔵助良雄は、浅野

家家臣の中で仇討計画に共鳴した四十六名の

同志と討ち入りを計画する。

 元禄十五年十二月十四日(1703年1月30日)

内蔵助を頭領とする四十七士は吉良邸に討ち

入り、義央を刺殺してその首を斬った。泉岳

寺の長矩の墓に四十七士は義央の首を供えた。

 

 活動大写真では忠臣蔵の名前で映像化され

た。

 昭和三年(1928年)マキノプロダクション

は超大作としてこの事件を劇化した。

 

 

 元禄十四年勅使柳原大納言が江戸城に登城

する。

 饗応役を命じられた長矩は吉良上野介から

執拗な虐めに遭う。

 三月十四日松野大廊下で吉良の虐めは激化

し、長矩は刃傷に及んだ。梶川頼照が長矩を

抱き止める。

 吉良上野介は逃げる。すれ違った脇坂淡路

守の衣服に血がついた。

 淡路は激怒し上野介を打擲する。茶坊主達

が淡路守を諌止する。

 徳川綱吉は殿中の抜刀刃傷事件に激怒し即

日切腹を命じた。

 田村右京太夫邸に移された内匠頭長矩は、

家臣片岡権右衛門に視線で無念さを伝え、従

容と切腹した。

 

 早水藤左衛門・萱野三平が早打ちで悲報を

赤穂に伝える。

 

 大石内蔵助は大評定を開き赤穂家家臣の道

を協議する。大野九郎兵衛は老獪な方法で仇

討ちとは距離を置く。

 

 僧良雪に武士道を尋ねる内蔵助は揺れる心

を思いつつ、方針を模索する。 

 

 内蔵助は浅野家家臣達に自刃の決意を述べ

同意した者達を集めるが、現在自刃をする気

は毛頭なく、将来仇討ちしたいと本心を告げ、

一同は心を震わせる。仇討ち一党が組織され

た。

 

 城明け渡しの日が赤穂に来た。内蔵助と一

子主税と寺坂吉右衛門は無念と悲しみを覚え

る。

 

 内蔵助は遊里で豪遊するが、吉良の間者

の視線をかわす。

 

 妻陸に離縁を言い渡した内蔵助は主税と

共に江戸に向かう。

 東下りで変名を用いた立花左近と出会い、

偽名がばれそうになるが、立花の情けある

計らいで突破する。

 

 吉良上野は赤穂の女間者を捕え仇討ちを

警戒する。

 

 南部坂で内蔵助は内匠頭妻瑶泉院と決別

する。

 

 赤穂浪士四十七名は蕎麦屋に集まった。

 

 元禄十五年十二月十四日内蔵助を頭領と

する四十七士は吉良上野介邸に討ち入る。

吉良左兵衛と清水一角は奮闘し上野介を守

るが赤穂浪士の勢いには叶わない。

 

 内蔵助は遂に義中央を発見し刺殺し首級

を挙げた。

 

 両国橋に来た四十七士に服部一郎右衛門

は永代橋を渡るようにと情けある配慮を為

した。

 

 

 ☆マキノ省三 渾身の忠臣蔵

  若き剣豪スタア達の活躍☆

 

 マキノ省三(まきのしょうぞう)は明治

十一年(1878年)九月二十二日に誕生した。

 昭和四年(1929年)七月二十五日、五十

歳で死去した。

 

 日本において活動大写真・映画において

三百本以上製作した。「一スジ・ニヌケ・

三ドウサ」を原則とした作風を徹底し、大

衆の喝采を浴びた。

 

 松田定次・マキノ雅弘・マキノ光雄・マキ

ノ真三・マキノ智子は子供、長門裕之・津川

雅彦・マキノ正幸・牧野アンナ・マキノ佐代

子・マキノ加代子・マキノ公哉は孫、松田寛

夫は養孫、真由子は曽孫である。

 

 日本映画の父と呼ばれた省三は、自身の五十

歳(数え年)を迎える昭和三年に監督三百二十

本目に忠臣蔵映画の集大成版を企画した。製作費

三十万余を投じ昭和二年(1927年)の大雪の日

に討ち入りシーンから撮影が始まった。

 

 

 応援監督として参加した沼田紅緑は風邪に罹

った事を因にしてワイルス氏病を併発し昭和二

年(1927年)三月三十日に三十五歳で死去した。

 

 主人公大石内蔵助役には歌舞伎から七代目松

本幸四郎か二代目實川延若を候補に考えていたが

実現しなかった。

 

 新派の大御所伊井蓉峰に大石内蔵助良雄を依

頼し承諾を得た。

 

 伊井蓉峰(いい・ようほう)は明治四年八月

十六日(1871年9月30日)に東京日本橋に誕生

した。本名は伊井申三郎である。昭和七年(19

32年)八月十五日、満年齢六十歳で死去した。

 近松門左衛門やウィリアム・シェイクスピア

の戯曲も演じ喝采を浴びたと伝えられている。

 『ロミオとジュリエット』を伊井は上演した

そうである。

 

 芸名は「いいようぼう(良い容貌)」に由来

する。

 

 内蔵助役を歌舞伎芸に学ぼうとした蓉峰は幸

四郎に教えを乞い、立花左近との対決場面では

六方を踏んだ。

 これは監督の省三の演出方針に反するものだ

が、新派の大御所蓉峰に対しては省三を以てし

ても直言は難しかった。

 

 浅野内匠頭長矩役には当初片岡千恵蔵が予定

されていた。

 

 

 明治三十六年(1903年)三月三十日、植木

正義(うえき・まさよし)は群馬県に誕生した。

 明治四十五年(1912年)満年齢九歳で十一

代目片岡仁左衛門の片岡少年劇に入門し片岡十

八郎を名乗る。

 

 少年劇解散後は片岡千栄蔵を名乗り、松嶋

屋の屋号で舞台俳優として活動した。

 

 植木進の芸名で映画にも出演した。門閥制度

に不満と不安を実感していた千栄蔵は、昭和二

年(1927年)直木三十五の紹介でマキノ省三に

会った。

 省三はこの年の四月に歌舞伎公演に出たいと

いう千栄蔵に対し、「近く『忠臣蔵』を撮るの

で判官役をやってもらいたい」と強く誘う。

 

 判官とは『仮名手本忠臣蔵』の塩冶判官の事

で、モデルは浅野長矩である。塩冶判官を『仮名

手本忠臣蔵』の公演で勤めたいと夢見ていた千栄

蔵は省三の口説きに応じ、四月マキノプロダクシ

ョン御室撮影所に入社し、芸名を片岡千恵蔵に改

める。

 六月、名古屋の中部撮影所で撮影が行われた

が、浅野長矩役はいつの間にか二枚目スタア諸口

十九(もろぐち・つづや)に決まっていた。

 

 口約束の違約を千恵蔵が糾弾すると、省三は

急遽服部市郎右衛門の役への起用を決める。

 『仮名手本忠臣蔵』では「十一段目」に桃井

若狭之助が塩冶浪士の義挙を讃える。後の歌舞

伎ではこの若狭の見せ場が服部に変更される

演出があり、今日までこの改変設定がよく用

いられている。服部は座頭が勤める事も多い役

だから辛抱してくれというのが省三の意向だっ

たのだと思われるが、約束反故は千恵蔵の心を

傷つけた。

 

 省三は体調を崩し、三月六日病の身に鞭打って

京都市上京区の自宅で編集作業を為したが、火災

が起こり赤穂評定の場、茶屋場の一部、山科の一

部、東下りの一部、蕎麦屋の場、討ち入りの大部

分のフィルムが焼失した。

 

 未完成版になったということで省三は公開を断

念したが、全国のマキノ系の映画館館主から封切

を希望され、未完成版上映が決定した。暦こそ違

うが内匠頭刃傷・切腹の日三月十四日に未完成版

は封切られた。

 

 現在ウィキペディアでは64分の視聴が可能で

ある。著作権問題をクリアしているようだ。 

 お住まいの地域によって銀幕鑑賞が成り立つ

かどうという問題も様々にあると思う。

 

 だが、本作に関してはやはり上映会場銀幕で

御見聞頂きたいという心を申し上げたい。


 よって某動画から記事には貼らない。言う

までもないことだか、映画鑑賞とは映画館や

上映会場で上映された映像を客席で見聞して

成り立つ事柄である。

 

 序盤の勅使江戸城登城は豪華で秀麗な場面で

息を飲む。

 息子雅弘に「娯楽に徹するんやぞ」と省三が

映画作りを教えた事は有名だし、雅弘がその方法

を終生大事にした訳だが、本作の勅使登城シーン

に関しては非妥協の精神・完全主義で撮影が行

われたことは強調したい。

 

 諸口十九は明治二十四年(1891年)二月三日

福井県に誕生した。

 大正九年(1920年)伊藤大輔第一回脚本、ヘ

ンリー小谷監督『新生』に主役で映画初出演を

成し遂げた。

 本作の浅野長矩役は最後の映画出演でその後

は舞台俳優として活動し、昭和三十五年(1960

年)四月十七日、満年齢六十九歳で死去した。

 

 諸口十九の貴重な演技を見れるということで

も本作残存フィルムは有難いのだが、長矩役の

気品は光っている。

 

 市川小文治の吉良上野介義央の憎たらしさも

強烈である。

 

 嵐長三郎後の嵐寛寿郎が血気盛んな脇坂淡路

守を凄み豊かに演じる。松の大廊下で脇坂が血

を付けられたと怒り上野介を糾弾し中啓で打擲

する。これは映像版忠臣蔵によく見られるエピ

ソードで勿論フィクションだが、フィクションで

も殿中での中啓打擲で茶坊主や武士が制止に行

かない戦後の映像作品には疑問を感じる。

 殿中での暴力は厳禁とされている。本作のよう

に坊主達が制止し、淡路が抜刀を堪える事こそ

フィクションの中のリアリズムだ。

 

 ウィキペディアには撮影中の伊井蓉峰の態度

は傲慢であったと書かれているが、補助監督の

吉野二郎(吉野次郎)には、「よろしくご指導

下さいよ」と頭を下げたという。

 

 現存版の伊井蓉峰の重厚な存在感に感嘆した。

主君長矩の憤死の無念を噛みしめ、家老として

赤穂藩の後始末を為し、死の恐怖を感じつつ豪遊

し同志を集め仇吉良邸に討ち入り復讐の大義を

果たす。

 

 人間大石内蔵助良雄の生き方が、伊井蓉峰の

芸に光っている。

 

 遊里のシーンでは芸者の女優達が人文字で「う

きさま」を見せる。

 省三の豪快な演出である。今日の人権の観点か

ら見れば問題はあるかもしれないが、元禄時代の

遊里の物語であり、昭和三年の大日本帝国の活動

写真であることも抑えておきたい。

 

 マキノ正博の主税の美少年の個性も素敵だ。

 

 討ち入りシーンの壮大さはマキノ省三演出の

底力を感じた。

 


 明治三十五年(1902年)三月十八日、門田潔人

(もんでん・きよと)は宮城県美里町に誕生した。

後に月形龍之介の芸名で日本活動大写真の歴史

を牽引した。

 昭和四十五年(1970年)八月三十日、六十八歳

で死去した。


 月形龍之介はこの時満年齢二十五歳の若さだ

が、鋭い殺陣と悲壮美を見せる。

 

 

 内蔵助の吉良上野義央刺殺場面は伊井蓉峰と

市川小文治のがっぷり四つの演技合戦で緊張感

が盛り上がる。

 

 臥薪嘗胆一年を経て、内蔵助は仇討ちを達成

し忠義を明かす。

 

 両国橋の赤穂浪士に永代橋を渡るようにと

指示する服部市郎右衛門を片岡千恵蔵が涼や

かに勤める。時に満年齢二十四歳・数え年二

十五歳の千恵蔵は美しい。

 

 大御所伊井蓉峰と新進気鋭の片岡千恵蔵の

競演という歴史的場面でマキノ省三総決算

忠臣蔵物語は幕を閉じて行く。

 

 確かに大詰めの千恵蔵は綺麗だ。

 

 だが、千恵蔵本人の浅野内匠頭役を外され

た無念は大きかった。

 

 千恵蔵は昭和三年(1928年)二月に月形

龍之介のマキノ退社を受けて、マキノと千恵

蔵は正式契約を結ぶ話し合いが持たれたが、

千恵蔵は内匠頭役口約束反故を改めて糾弾し

た。

 

 省三は「判官はやらせるといったが、実録

の浅野内匠頭をやらせるとはいわなかった」

という卑劣な言い訳で誤魔化した。

 

 「この不誠実極まる遁辞を聞いた瞬間、極

度の憤激に五体がワナワナと慄え」(『日本

映画俳優全集・男優編』145頁 1979年10月

23日発行 キネマ旬報社)た千恵蔵は怒りに

燃え、同席の人々の諫めで必死に堪えた。

 

 松の大廊下刃傷騒動を想起するような事

件であった。

 五月二日千恵蔵はマキノを退社し、十日片

岡千恵蔵プロダクションを設立する。

 

 省三の内匠頭役違約は確かに卑怯卑劣であ

ったが、これを契機にして千恵蔵は独立しプ

ロダクションを起こし時代劇映画傑作を発表し

て行くこととなった。

 

 片岡千恵蔵・伊丹万作・稲垣浩のチームは

千恵蔵プロダクション結成があった事を受けて

成り立った。

 

 違約問題を端緒にした独立があったからこ

そこれをバネにして千恵蔵は時代劇映画の歴

史を新たに開いたとも言えるのではなかろう

か?

 

 前述の通りマキノ省三は昭和四年(1929

年)七月二十五日満年齢五十歳で死去した。


 牧野正博は明治四十一年(1908年)二月二十

九日に誕生した。

 後に数々の時代劇・任侠映画を演出するマ

キノ雅広監督である。本作では大石主税役で

美貌を魅せている。

 平成四年(1992年)十月二十九日、八十五歳 

で死去した。


 昭和十三年(1938年)三月三十一日封切、

日活製作、マキノ正博・池田富保監督の『忠

臣蔵 天の巻 地の巻』において浅野長矩役

を片岡千恵蔵が勤めた。

 

 父省三が配役反故で千恵蔵を裏切った事を

正博が悩んだ事は十分に窺える。

 

 千恵蔵念願の浅野長矩役を『忠臣蔵 天の

巻』で正博は実現した。

 

 嵐寛寿郎は脇坂安照・清水一角の二役であ

る。

 

 阪東妻三郎が大石内蔵之助を勤めた。

 

 この作品も不完全版が現存している。

忠臣蔵  天の巻 地の巻 阪東妻三郎主演作品

 浅野長矩・立花左近二役で片岡千恵蔵は

書き出し、嵐寛寿郎は中留め、阪東妻三郎

は留めの表示である。

 

 浅野長矩役において片岡千恵蔵は気品と

血気を美しく見せた。

 

 日活トーキー版忠臣蔵で遂に念願の役を

得た。

 

 マキノ正博は自作のセルフリメイクを数

多く撮った映画監督だが、赤穂事件の忠臣

蔵に関しては昭和十三年の『忠臣蔵 天の

巻』一本のみである。

 

 省三の違約に激怒した千恵蔵だが、正博後

の雅広との義は長く続き、雅弘名義の最後の

監督作品『藤純子 引退記念映画 関東緋桜

一家』にも出演している。


 本作の配役違約問題はその後の日本映画の

歴史に絶大な影響を与えた。周辺事情学習だ

けでも沢山の話題を呼んだ事を実感する。


 作品そのものを見つめると当時の赤穂事件

活動大写真決定版を目指した事が窺える。


 嵐長三郎の嵐寛寿郎の脇坂の怒りは強烈な

印象を与えてくれる。


 清水一角/月形龍之介は敗北の美学を殺陣に

輝かせている。

 

 長い無声映画忠臣蔵物語の歴史において、

マキノ省三製作総指揮・編集・監督『忠魂義

烈 実録忠臣蔵』は絶大な存在感を見せている。

 

 

                  合掌

 

              南無阿弥陀仏

 

                 セブン