瞳をとじて Cerrar los ojos Close Your Eyes | 俺の命はウルトラ・アイ

瞳をとじて Cerrar los ojos Close Your Eyes

『瞳をとじて』

Cerrar los ojos

Close Your Eyes
Fermer les yeux

 

映画 トーキー 169分 カラー

2023年5月22日 カンヌ国際映画祭上映

2024年2月9日 日本封切

製作国 スペイン

製作言語 スペイン語 英語 フランス語

 

出演

 

ミゲル・ガライ マノロ・ソロ

 

フリオ・アレス/ガルデル/探偵 ホセ・コロナド

 

アナ・アレナス アナ・トレント

 

シスター・コンスエロ ペトラ・マルティネス

ベレン・グラナドス  マリア・レオン

マックス・ロカ  マリオ・パルド

マルタ・ソリアーノ エレタ・ミゲル

ティコ・マジョラル アントニオ・デチェント

フェラン・ソレル ホセ・マリア・ボウ

ロラ・サン・ロマン ソレダ・ヴィジャミル

ドクター・ベナビデス ホアン・マルガリョ

リン・ユー      カオ・チェンミン

チャオ・シュー(ジュディス) ヴェネシア・フランコ

 

ストーリー ヴィクトル・エリセ

脚本    ヴィクトル・エリセ

      ミシェル・ガズダンビデ

 

エクゼクティヴプロデュ―サー クリスティーナ・スマラガ

プロデュ―サー クリスティーナ・スマラガ

        パブロ・E・ボッシ

        ヴィクトル・エリセ

        ホセ・アルバ

        オディ―ル・アントニオ=バエス

        アグスティン・ボッシ

        ポル・ボッシ

        マキシミリアーノ・ラサンスキー

 

撮影監督    バレンティン・アルバレス

編集      アセン・マルチェナ(AMAE)

オリジナルスコア フェデリコ・フシド

音響監督    イヴァン・マリン

サウンドデザイン ファン・フェロ

音響ミキサー   カンデラ・パレンシア

プロダクション・マネージャー マリア・ホセ・ディアス・アルバレス

アートディレクター クルル・ガルバル

衣裳デザイナー ヘレナ・サンチス

メイクアップ&へアディレクター ベアトシュカ・ヴォィトヴィッチ

 

 

監督 ヴィクトル・エリセ

 

ホアン・マルガリョ=フアン・マルガージョ

鑑賞日時場所

令和六年(2024年)二月九日 九時三十分

京都シネマ シネマ1 J列1番

 

 ミゲル・ガライは映画監督として活動し一

本の作品を撮った。

 

 2012年のスペインにおいてミゲルは作家と

して暮らしている。

 

 1990年、ミゲルは第二回監督作品『別れ

のまなざし』の製作・撮影を開始し、主人公

の探偵役に親友フリオ・アレナスを抜擢した。

 大富豪フェランは中国人執事と共に暮らし

ている。執事に対してフェランは賢明な男と

篤い信頼を寄せている。探偵は喫煙許可を乞

うとフェランは快諾し、自身も一服する。

 医師から重篤の身であることを告げられて

いるフェランだが、「一本くらいならいいで

しょう」と紫煙をくゆらせた。

 

 「悲しみの王」と呼ばれるフェランはチェス

を愛している。中国人少女チャオ・シューの

写真を見せて、彼女は自身の娘ジュディスであ

るとフェランは述べた。余命が幾ばくも無い身

であると自己確認するフェランはどうしても娘

チャオ・シューことジュディスに会いたいと望

み、「彼女を探して下さい」と探偵に頼む。探

偵は承知する。

 

 この冒頭シーンとクライマックスの2シーン

がミゲル・ガライ監督によって撮影された。

 

 2つのシーンを取り終わった後に探偵役のフ

リオ・アレナスは突然失踪した。『別れのまな

ざし』の製作・撮影継続は困難になり、企画は

未完になった。

 

 ミゲルは映画監督を辞め作家として執筆活動

を始めた。

 

 テレビ番組の女性プロデュ―サーマルタ・

ソリアーノは、自身の番組でフリオ・アレ

ナス失踪事件を尋ねることを決め、ミゲル

に出演を依頼する。

 映画仲間の編集者マックス・ロカはミゲル

は映像許可問題で権利のお金はしっかり貰っ

ておけとアドバイスした。

 

 マックスはフィルムで映画を上映する場所

や機会が減っていることを嘆く。ニコラス・

レイ監督『夜の人々』やチャールズ・チャッ

プリン主演・監督『殺人狂時代』のポスター

がマックスの部屋に貼られている。

 

 

 テレビ局における打ち合わせを経て、マル

タプロデュース・進行役のテレビ番組でミゲ

ルはインタビューを受けた。

 

 ミゲルにとってフリオは親友であった。

 

 フランシスコ・フランコ・バアモンデ(18

92年12月4日‐1975年11月20日)が独裁的に

スペインを統治していた時代は、ミゲルは受

難のときで、フリオも無実の罪で投獄された。

 

 マルタは人気俳優であったフリオは突然姿

を消し、ミゲルは映画監督を辞めた事を確か

める。ミゲルは「私は親友も映画も失った」

と語った。

 

 1990年、警察はフリオ・アレナス失踪事件

を彼の自殺と判断したが、死体は発見されなか

った。

 

 テレビ番組のインタビュー収録を経て、ミ

ゲルの心にフリオと過ごした青春の日々が想

い起された。息子と共に歩んだ日々をミゲル

は追想する。

 テレビ局の取材を受け、ミゲルは親友フリ

オを探す旅に出る事を決める。

 ミゲルはフリオの娘アナ・アナレスと喫茶店

で会う。

 「父が生きている夢を見たわ」とアナ・アレナ

スは父フリオの友ミゲルに告げた。

 

 アナは美術館で絵画の解説の仕事をしている。

 

 

 ミゲルはアナから1967年にフリオと撮った水

兵姿の白黒写真を貰う。

 

 「私は一歳だったわ」とアナは述べる。

 

 

 海岸の家に暮らすミゲルは仲間のトニ・テ

レサ夫婦や友の男性とテーブルで語り合う。

トニは妊娠している妻テレサの腹部を気にし

つつ、「女の子ならエストレーリャ」と子供

に付けたい名前を述べた。

 

 

 トニの勧めでミゲルはハワード・ホークス監

督作品『リオ・ブラボー』の劇中歌『ライフル

と愛馬』を英語で歌う。

 

 ミゲルと愛犬カリはフリオ探しの旅に出た。

 ミゲルはかつての恋人ロラ・サン・ロマン

と再会しフリオについて語り合う。ロラはフ

リオとも付き合っていた。

 

 舟で水路を行くフリオの携帯電話が鳴る。

 

 海辺の施設にフリオに似た男性がいると言う

情報が届いた。

 

  ミゲルは施設を訪ね職員ベレンやシスター

コンスエロに相談する。

 

 ガルデルと呼ばれるフリオそっくりの男性は

施設に居て作業をしていた。認知症に罹ってい

るガルデルを見つめながらミゲルは共に食事を

取る。ミゲルはガルデルはフリオ・アレナスと

同一人物と確信する。

 

 ガルデルの所持品のいくつかは『別れのまな

ざし』の小道具であった。チェスの駒や『別れ

のまなざし』のチャオ・シューことジュディス

の白黒写真があった。

 

 

 シスターやベレンの許可を得たミゲルは自身

もしばらく施設に宿泊し、ガルデルと過ごし、

彼がフリオと同一人物であることを立証しよう

と試みる。

 

 ミゲルはフリオに話しかけ、二人で壁に白

ペンキを塗る作業を為した。

 

 1967年撮影の白黒写真をミゲルはガルデル

に見せて「君だよ。もう一人は私だ。」と告げ

る。

 

 ガルデルは「これは俺の写真じゃない。こ

の男もあんたじゃないよ」と否定した。

 

 ミゲルは施設にアナ・アレナスを呼ぶ。

 

 アナ・アレナスは父フリオ・アレナスそっく

りの男ガルデルの部屋に入り、瞳をとじて「私

はアナ」と告げる。

 

 ◎生命念願◎

ビクトル 

 

 

 

 ヴィクトル・エリセ

  Víctor Erice Aras

 ヴィクトル・エリセ・アラス。

 映画監督・脚本家・プロデュ―サー。

 1940年6月30日スペインバスク地方カラン

サに生まれた。

 

 1973年9月18日、長篇第一回監督作品『ミ

ツバチのささやき』El espríritu de la colmena

がサン・セバスチャン映画祭において上映さ

れる。

 

 1983年5月19日長篇第二回監督作品『エル・

スール』EL SURがスペインで公開される。

 

 1992年10月1日、アメリカ合衆国ニューヨ

ーク映画祭において長篇第三回監督作品上映

『マルメロの陽光』El sol del membrilloが上

映される。

 

2002年短編オムニバス映画『10 ミニッツ

オールダー 人生のメビウス』Ten Minutes 

Older  The Trumpetに監督として参加、『ラ

イフライン』Life Lineを発表する。

 同年5月18日、フランスカンヌ国際映画祭に

おいて上映された。

 アナ・トレント

   Ana Torrent

 

  本名 Ana Torrent Bertrán de Lis

   アナ・トレント・ベルトラン・デ・リス

 

 1966年7月12日スペインマドリッドに生まれ

る。

 

  1973年『ミツバチのささやき』にアナ役で主

演。

 50年の時を経て、ヴィクトル・エリセ監督映画

のヒロインアナを繊細・優美に明かした。

 アナがエリセ映画で再びアナを生きる。ファン

にとっては胸が熱くなる。

 

 本篇フィルムでアナ・トレントが映った瞬間、

命全体で熱くなり大感激を覚えた。

 

 マノロ・ソロ Manolo Solo

 

 1964年スペイン・アルへシラスに生まれた。マ

ノロ・ソロは重く深い演技で主人公のミゲル・ガラ

イを生きる。ワンシーンワンカットの映像にミゲル

の映画への熱意と友誼を大切にする心が溢れている。

 

 ホセ・コロナド José Coronado

 

 1957年8月14日、スペインマドリッドに誕生し

た。本名はホセ・マリア・コロナド・ガルシア José

 María Coronado Garcíaである。

 フリオ・アレナス/探偵/ガルデルを繊細にかつ重厚

に演じている。

 人気俳優・捜索者の探偵・元俳優らしき認知症の

男性という三つの顔を鮮やかに表した。特にガルデル

役の「フリオや探偵がお爺さんになったようだ」とい

うメイクに感嘆した。

 

 

 ホアン・マルガロ Juan Margalloは1940年9月24

日にスペインに誕生した。

 『ミツバチのささやき』ではアナに助けられる脱走

兵を繊細に演じた。

 本作においてはガルデルを診察する医師ベナビデス

博士を重厚に演じた。

 林檎・オルゴール授受関係で友情を確かめ合ったア

ナと脱走兵を演じたアナ・トレントとホアン・マルガ

ロが、50年の時を経て、ヴィクトル・エリセ映画にお

いて、アナ役とガルデルの診察医役で出演した。

 マノロ・ソロ主演、アナ・トレント共演、

ヴィクトル・エリセ監督作品『瞳をとじて』

を2024年2月9日京都シネマ シネマ1J列1

番において鑑賞した。

 

 169分の上映時間一分一秒ワンシーンワン

カットに生命を感じた。

 

 冒頭に『別れのまなざし』の撮影部分のワン

シーンが映る。

 緑豊かな庭園に大富豪老人フリオの豪邸が

ある。

 フリオ・アレナス演じる探偵は中国人執事

リン・ユーに挨拶し入室の後、フリオに椅子

を勧められ着席する。老富豪と探偵は座って

対峙し少女捜索問題を語り合う。

 

 写真のチャオ・シューことジュディスの美

しさに感嘆する。

 ポスターに映る少女である。

 

 ヴェネシア・フランコは本作の美少女とし

ての存在感をまず写真で見せる。

 

 恐らくはフェランにとって、中国人女性と

愛し合って生まれた娘がチャオ・シューこと

ジュディスなのだろう。

 

 フェランは死が迫っている自身に娘との

再会という夢を叶えて欲しいと探偵に懇願

する。

 

 探偵は承知する。

 

 観客の心は『別れのまなざし』の部分フ

ィルムに緊張し胸がいっぱいになる。

 

 ヴィクトル・エリセの魔術に完全に掴ま

れてしまう。

 

 『別れのまなざし』の探偵の少女チャオ・

シュー探しとミゲル・ガライ監督の探偵役

者フリオ探しのドラマが、呼応し観客の心

を包み込む。

 

 フリオの失踪で『別れのまなざし』は2

シーンのみ撮影で製作不可能になった。

 ミゲル・ガライは映画の仕事を失い、作

家に転身した。

 

 『別れのまなざし』は2シーンのみ撮ら

れた未完の作品である。

 

 『エル・スール』95分版を1986年4月3

日有楽シネマで鑑賞したわたくしめは感激

し人目も憚らず号泣してしまった。

 

 だが、ヴィクトル監督にとっては、『エル

・ス―ル』はエストレーリャの南行きの物語

を撮影中に製作資金不足問題で断念し、未完

のまま95分が上映公開されたという無念があ

った。

 95分版は十分に完結し一本の永遠不滅の大

傑作である。これは自分の意見である。だが、

エリセ監督には悔しい心がある。

 『エル・スール』が未完の95分版で上映さ

れたことと『別れのまなざし』が2シーンのみ

撮影で未完となっていることが、照応している

のかもしれない。

 

 勿論ミゲルが主役の映画監督だからといって、

ヴィクトル・エリセその人を劇化しているかど

うかは分からない。投影されていることは確か

と思われる。

 

 『ミツバチのささやき』における『フランケン

シュタイン』、『エル・スール』における『日陰

の花』と共に『瞳をとじて』における『別れのま

なざし』は劇中劇映画として強烈な存在感を示し

てくる。

 

 過去のエリセ映画の暖かくて古風な雰囲気を思

うと、パソコン・携帯電話・テレビ局が映る本作

は21世紀ドラマなんだなあと実感する。しかし、

電子機器を映し語ってもエリセフィルムのぬくも

りは変わらない。

 

 マルタプロデュ―サーのインタビューでミゲル

は若き日に友フリオと交流し共にフランコ総統の

独裁的統治の時代に苦しんだことを確かめる。

 

 フランコ総統統治問題のスペイン人の苦闘は

本作においても確かめられている。

 だが、繰り返しになるが、『ミツバチのささ

やき』におけるアナを1940年代当時の純粋な

若者世代の象徴、イサベルを狡猾な国粋主義者

の象徴と決める意見には反対である。

 アナは宇宙でたった一人の存在である。イサ

ベルもまたかけがえのない存在である。

 

 冒頭に子供達が描いた絵が映る。「この映画

は子供達の心に映る光景を尋ねている」と198

5年の梅田コマシルバーの初鑑賞から感じてい

た。その絵を描いたのは、アナ・トレントとイ

サベル・テリェリヤである。

 

  この映画は、子ども時代の私がどんなふう

  に世界を見ていたかについての確固たる証

  明だと感じます

 (『GINZA』HPより引用)

 

 2024年2月9日GINZAにおいて発表されたア

ナ・トレントインタビューの言葉である。子供

時代のアナがどんな風に世界を見ていたかにつ

いての確固たる証拠が映画『ミツバチのささや

き』である。主演女優自身の確かめを聞いた。

 

 「アナ・トレントが1966年に生まれた」と

いう事実を受けて、『瞳をとじて』のヒロイン

アナは人物像が描かれている訳だが、姓が「ア

レナス」であることにも注目したい。

 

 『エル・スール』のヒロインはエストレーリ

ャ・アレナス、父親はアグスティン・アレナス

である。

 

 

 本作の美術館勤務の女性アナと『ミツバチの

ささやき』の養蜂家娘の女児アナは勿論別人で

ある。

 『ミツバチのささやき』のアナは1940年オユ

エロス村に暮らしている。7歳くらいの童女であ

る。

 『瞳をとじて』のアナ・アレナスは1966年生

まれと自ら語っている。アナ・トレントと同年

である。映画の「現代」である2012年は45歳か

46歳である。つまり1940年には生まれていない。

 しかし、精霊を探す童女アナと美術館職員アナ

は呼応し通じ合っている。これも本作の大切な特

徴である。

 即ちオユエロス村童女アナと美術館職員アナ・

アレナスは照らし合い、共に女優アナ・トレント

の芸によって命が吹き込まれている。

 

 アナ・トレントが演じる美術館職員アナ・アレナ

スは彼女自身が演じた精霊探求童女アナと照応する

のみならず、ソンソレス・アラングーレン、イシア

ル・ボジャインが演じたエストレーリャ・アレナス

とも呼応しているのである。

 

 父と娘の関係という点においても、フェルナンド

とアナ、フェルナンドとイサベル、アグスティンと

エストレーリャ、フェランとチャオ・シューことジ

ュディス、フリオ・アレナスとアナ・アレナスの五

組の親子関係は応じ合っているのだ。

 

 アナから貰った1967年の水兵服の写真のフリオ

と自身を見て、ミゲルは青春の日々を想起する。

 エリセはミゲルにとっての息子と歩み暮らした日

々のエピソードを繊細に語っている。

 

 編集者仲間のマックスはフリオは老いの問題を

克服できなかったのではないかと問う。

 

 ミゲルがかつての恋人でフリオとも愛し合って

いたロラと語り合うシーンは深い。夜のシーンだ

が照明の光が暖かく絵画のような映像を見せてく

れている。

 

 砂浜のテーブルで若夫婦の夫が妊娠中の妻テレ

サを見て、「女の子ならエストレーリャ」と付け

たい名前を述べるシーンは『エル・スール』を想い

起こした。

 テレサの名は『ミツバチのささやき』における

イサベル・アナの母テレサに通じる。

 

 『シオタ駅の列車の到着』のカット集が本にな

っているシーンにエリセ監督のリュミエール兄弟

への讃嘆を感じた。

 

 2012年が物語の「現代」に位置付けられてい

る。『別れのまなざし』は1947年時代の物語で

撮影時期は1990年である。ミゲルとフリオが写

真撮影を為したのはアナが一歳の1967年であっ

た。

 ヴィクトル・エリセは時間時代を鮮やかに語

り、いくつかの時間が照応し合ってミゲルの心

に呼び掛けていく様を映し出す。

 

 施設においてミゲルはフリオと瓜二つの老人

ガルデルと出会い、共に食事を為し、壁の塗装

作業を為す。写真を見せてフリオであることを

思い出してもらおうとするが、認知症のガルデ

ルは否定する。

 

  ◎結末には言及しませんが、ここからドラ

  マの核心について語ります。公開中であり

  ます。

   鑑賞予定の方々は本篇をご覧になった後、

  以下の感想文をご覧頂きますようお願い申

  し上げます◎

 

 

 アナが施設において父フリオとそっくりの男性

ガルデルを尋ね、瞳をとじて「ソイ アナ(私は

アナ)」と語る。

 

 

 50年の時を経て、アナ・トレントがヴィクト

ル・エリセ監督映画で瞳をとじて「ソイ アナ」

を語る。

 

 『ミツバチのささやき』において、イサベル・

テリェリア演じるイサベルはアナに

 

  お友達になれば、何時でもお話が出来る・

  ・・・・・目を閉じて、呼びかけるの。私

  はアナ。私はアナ

 

 と教えた。姉の教えはアナにとって命の主題に

なる。

 『ミツバチのささやき』と共に『瞳をとじて』

においても「出会いたい」という願いを支える

言葉となっている。

 

 ガルデルはフリオ・アレナスと同一人物である

ことには言及せず、アナ・アレナスが娘であるか

どうかもわからぬまま、彼女と親しくなり、施設

について「ここは年寄りばっかりだ」と感想を述

べる。

 アナ・アレナスは、父フリオ・アレナスと瓜二

つの男性ガルデルに寄り添う。アナにとっては、

ガルデルと出会えたことが既に大きな喜びだった

のではなかろうか?

 

 

 ミゲルはフィルムの力に賭け、『別れのまな

ざし』の未完の2シーン目のフィルムを上映しガ

ルデルに見てもらいたいと希望する。

 

 マックスがフィルムを施設に持ってくる。だが、

マックスは「映画で『奇跡』が起こるのはドライ

ヤーで終わりだ」と厳しく注意する。

 カール・テオドア・ドライヤー監督作品『奇跡』

Ordetへの敬意をヴィクトル・エリセが作品で示し

た。

 

 『別れのまなざし』2シーン目は探偵が少女チャ

オシューをフェラン豪邸に案内し、彼女の父と名乗

るフェランとの対面を成り立たそうとする物語であ

る。

 

 このシーンの映画館映写にミゲルは熱い意欲を燃

やす。ガルデルがフリオ・アレナスであることを思

い出すかもしれない。

 

 映画フィルムが奇跡的な事態を呼び起こすかもし

れない。

 

 映画愛に生きるエリセ監督の生涯の主題を感じた。

 

 映画館に連絡を受けたプロデュ―サーマルタ・ベ

レン・シスターコンスエロ・修道女がかけつける。

 

 ミゲルはガルデルとアナに並んで着席するように

頼む。

 

 

  おそらくぼくが個人的に気に入ったものという

  ことなんでしょうが、その結末が、シェイクス

  ピアの『テンペスト』の有名な詩文ー父親の死

  についてのもので、ーその一部はシェリーが埋

  葬されているローマの墓地の墓碑に刻まれてい

  ますーと関係づけたものだったんです。

   (『ミツバチのささやき』 パンフレット 

    29頁 1985年2月9日 シネ・ヴィヴァン)

 

 『ミツバチのささやき』当初のシナリオは、成人

女性ヒロイン(完成版ではアナ)が父(完成版では

フェルナンド)の訃報を聞いて故郷に帰って童女時

代を回想すると言う物語であったという。

 

 その当初の物語の結末には、『テンペスト』に

おける エリアル Arielが語った詩で、この詩は

シェリーが埋葬されているローマの墓地の墓碑

に刻まれていた。

 

 ここで言う「シェリー」とは、『フランケン

シュタイン』の作者メアリー・シェリーの夫パ

ーシー・ビッシュ・シェリーである。

 

 パーシーは1792年8月4日に誕生した。1822

年7月8日、帆船エリアル Arielに乗って航海を

していたが、暴風雨に遭い29歳の若さで事故死し

た。

  エリアル Arielとはウィリアム・シェイクス

ピアの戯曲『テンペスト』The Tempestに登場

する妖精の名前である。吉田健一はアリエルと

訳している。

 

   Nothing of him that doth fade,

       But doth suffer sea-change

       Into something rich,and strange

 

  パーシー・ビッシュ・シェリーのローマの墓

に刻まれる妖精エアリアルの詩である。

 

   身体(からだ)はどこも朽ち果てず、

   海の力で、みな、変えられて、

   不思議な宝となっている。

   (和田勇一訳『シェイクスピア全集 第三巻』

   「あらし」284頁

   1967年11月20日発行  筑摩書房)

 

   その身はどこにも朽ち果てず、

   海はすべてを変えるもの、

   今では貴重な宝物。

   (小田島雄志訳『シェイクスピア全集 第三巻』

    「テンペスト」317頁 

    1975年3月10日発行 白水社)

 

   お前の父親の体で失はれたものは一つもなくて、

   ただ海の底でその凡てが何か

   異様に美しいものに変つただけなのだ。

  (吉田健一訳『シェイクスピア』「「リヤ王の嵐の

   場面と「嵐」」79頁

   1977年5月25日発行 河出書房新社)

 

 エアリアル(アリエル)は青年ファーディナンド

(ファアディナンド)に対して、汝の父アロンゾー

(アロンゾオ)は死んだが、身体は失われる事も

朽ち果てる事もなく、海底で美しいものに変わ

っていると呼びかける。

 実はアロンゾーは生きていて、クライマックスで

ファーディナンドと再会する。

 エアリアルの詩の時点では、ファーディナンド

にとっては父親の死を伝える言葉であった。

   

 

 『ミツバチのささやき』完成版は周知の通り、

アナの幼女期の物語に集約され、父フェルナンド

は結末まで「生きている」設定となった。

 

 オリジナルストーリーラストに関係付けられ

たというエアリアル(アリエル)の詩は、『瞳

をとじて』のクライマックスの『別れのまなざ

し』に導かれる人々の原点になっているのでは

ないか?

 

 

 ファーディナンド(ファアディナンド)は

エアリエルに父アロンゾー(アロンゾオ)は

死して(この時点では死んだと聞かされてい

る)海の底において美しいものになったと聞

かされる。エアリエルの言葉に導かれ、ミラ

ンダと恋におちプロスペロオの教えを聞き、

「生きていた」父アロンゾ―と再会する。

 

 エアリアルの詩に導かれて死んだと思った

父を追想し、生きていた父に出会う。

 ファーディナントの発見物語に、アナ・ア

レナスが照応してくる。

 

 アナは父フリオ・アレナスが失踪に悩み、

父かもしれないガルデルを尋ね、父の出演

フィルムをガルデルと共に映画館で見つめ

る。

 

 ミゲル・ガライはガルデルをフリオ・アレ

ナスその人と見て、フリオ時代を想い出して

欲しいという望みから『別れのまなざし』ク

ライマックスシーンを映画館で上映し見ても

らうことにする。

 友に記憶を呼び起こして欲しいという気持

ちはミゲルにとって熱い。フリオを探すこと

によってミゲルは自己自身の生涯の道を再確

認した。友が共に活動し働き学び合った映画

俳優時代を想い起してくれることは、監督で

あった自己自身の過去の熱気を再燃させるこ

とに直結する。

 

 

 アナ・アレナスは別れた父と出会いたいと

いう事を念(おも)い願っていた。瞳をとじ

てそのことを念(おも)って願う。

 

 「出会いたい」という念願にミゲルとアナは

命の課題を見出した。

 

 そして、フリオ・アレナスそっくりのガルテ

ルにフリオ時代を想い起し自己自身を確かめて

欲しいという念いはミゲルとアナにとっては熱

き願いとなっていた。

 

 

 ◎重ねて申します。結末は言及しませんが、こ

 こから物語の核心に言及しラストに関連する事

 柄について感想を述べます。鑑賞予定の方々は

 本篇をご覧になった後に、拙感想文をご覧頂き

 ますようお願い申し上げます◎

 

 『別れのまなざし』2シーン目のフェランとチ

ャオ・シューことジュディスの体面と見守る探偵

のドラマが映写される。

 ヴェネシア・フランコがチャオ・シューことジ

ュディスの清らかな瞳を輝かす。

 

 『ミツバチのささやき』のアナ(アナ・トレン

ト)・イサベル(イサベル・テリェリヤ)、『エ

ル・スール』のエストレーリャ・アレナス(ソン

ソレス・アラングーレン イシアル・ボジャイン)

に続く五番目の美少女がチャオ・シューことジュ

ディス(ヴェネシア・フランコ)だ。

 この美少女達は「娘」としての存在感をヴィク

トル・エリセ映画において輝かせている。

 

 映画館において、チャオ・シューことジュデ

ィス・重病のフエラン・探偵を映した『別れの

まなざし』のフィルムが映写される。ミゲル・ガ

ラス監督、編集者マックス、シスターコンスエロ、

修道女、マルタ、ベレン、アナ・アレナス、ガル

デルを包む。

 

  私は映画の脚本を自分で書いている。

  だから、私が人生において最も関心を抱い

  ていることが、作品のテーマだと考えるこ

  とは自然なことだ。言葉では伝えきれない

  が、一本の映画を見た経験が主役となる詩

  的な芸術性に属するものだ。

 (『Director’s Note』

  『瞳をとじて』日本語パンフレット)

 

 ヴィクトル・エリセは自ら脚本を書き、自身

が人生において最も関心を抱いていることが主

題になると述べている。「一本の映画を見た経

験が主役となる詩的な芸術性」をテーマに位置

付けている。

 

 ミゲル・ガライとフリオ・アレナスにとって

未完に終わった『別れのまなざし』フィルムが

映され、未完のままに二人の生きた記録を映し、

未来への道を開くものとして存在している。未完

のフィルムに限りない力がある。未完であるから

こそ物語の描かれなかった部分が無限に想像しう

る。エリセはこの点に鋭く着眼した。

 

 ガルデルとその関係者の人々やマックスにも

フィルムは詩を語り掛けている。

 

 人々を繋げ合う絆となり、失われた記憶を呼

び覚ますかもしれない。フィルムの魔力のような

働きにミゲルは全てを賭ける。

 

 フィルムの中でフェランは涙を流すチャオ・

シューことジュディスことジュディスの頬を

濡れ紙で拭き、父と名乗る。探偵と中国人執

事リン・ユーは衰弱する富豪父と嘆きの美少

女娘の再会を静かに見つめる。

 

 アナ・アレナスが父と娘の再会のフィルム

を映画館で見つめる。

 

 童女アナが『フランケンシュタイン』フィ

ルムをオユエロス村公民館で鑑賞するシーン

が呼応する。

 アグスティン・アレナス医師がかつての恋

人ラウラがイレーネ・リオスの芸名で悲劇の

ヒロインを演じた劇映画『日陰の花』を鑑賞

するシーンが照応する。

 

 アナにとっては童女メアリーが何故怪物に

殺されたかを姉イサベルに問う契機になった。

姉の教えを聞き、アナは精霊を探しにいく童女

になる。

 

 アグスティンは劇中で無残に殺されるイレー

ネの迫真の演技を見て、本名ラウラに思わず手

紙を書く。喫茶店における手紙執筆を見つめる

愛娘エストレーリャと視点で交流する。

 

 映画館内映画鑑賞は主人公達にとって大いな

る世界との出会いである。

 

 『ミツバチのささやき』『エル・スール』を

包み照応するものが『瞳をとじて』に生き生き

と流れている。換言するならば『ミツバチのさ

さやき』『エル・スール』が生みだした映画が

『瞳をとじて』である。

 

 『瞳をとじて』における『別れのまなざし』

クライマックスシーン上映において、ミゲル・

ガライ監督・編集者マックス・シスターコンス

エロ・修道女・マルタ・ベレン・アナ・ガルデ

ルが劇中の老人とチャオ・シューことジュ

ディスの親子愛を見つめる。フェラン老人に

は病が強く迫ってきている。チャオ・シューは

涙を激しく流す。フェラン老人はチャオ・シュー

の涙を拭き、娘と呼びかける。二人の再会をフ

リオ演ずる探偵はじっと見届け確かめる。

 

 映画館で映画を見聞することが観客一人一人

の人生に新たな課題を恵む。

 

 『瞳をとじて』は念じ願うことによって生物

は自己の命に目覚めることを明かしている。自

分にとっては命の拠り所の一本だ。 

 

 地球映画史上ベストワンというような上是下

非・高是低非の観念のランキング付けや映画賞

千兆個の贈呈を為しても『瞳をとじて』の尊さ

を顕彰したことにはならない。まさにオンリー

ワンの中のオンリーワンの映画である。

 

 そのような評価付けよりも、映画に対する熱

意が人を動かし、映画館鑑賞で歴史に出会うと

いう物語の教えに学ぶことが大切である。

 

 2024年2月9日9時30分、京都シネマシネマ1

J列1番に着席した。

 1985年春梅田コマシルバーにおいて『ミツバチ

のささやき』、1986年4月3日有楽シネマにおいて

『エル・スール』に出会い、アナ・エストレーリャ

の優しい心に感嘆したわたくしは緊張していた。

 2004年(平成十六年)3月1日京都みなみ会館に

おいて『10 ミニッツ オールダー 人生のメビウ 

ス ライフライン』、同年8月26日日本イタリア会

館京都校において『マルメロの陽光』に出会った。

 どうしても『瞳をとじて』は日本封切日初日第

一回上映を見聞したい。この夢は熱かった。

 169分の上映時間に重く深い物語を聞き見た。生

命の歴史を感じた。

 

 

 勿論『ミツバチのささやき』『エル・スール』

『マルメロの陽光』『10ミニッツオールダー 人

生のメビウス ライフライン』をご覧になってい

ない方や初めてヴィクトル・エリセ映画をご覧に

なる方にとっても、『瞳をとじて』は入って行け

るドラマである。

 

 

 昭和四十六年(1971年)に神戸の映画館で『眠

れる森の美女』Sleeping Beauty(監督 クライ

ド・ジェロ二ミ ウォルフガング・ライザ―マン 

エリック・ラーソン レス・クラーク 1959年1月

29日アメリカ合衆国封切)を母に連れられて見聞し

たことが、わたくしの記憶における最初の映画鑑賞

である。

 

 53年間映画館でどれだけの作品を鑑賞したかの

正確な本数は分からない。現在その多寡を恥じる

気持ちはあまりない。例え「見聞本数が少ない」

と見做すご意見を聞いたとしても、自分にとって

は、一本との出会いが大事だからだ。

 

 最新映画館映画鑑賞作品である『瞳をとじて』

は、自身の映画館映画見聞道をこれで締めの集大

成にしたいと感じさせる重量感があった。

 

 2月10日から本日3月19日までの39日間は映画

を鑑賞していない。『瞳をとして』を映画館映画

鑑賞ラストにしたいという気持ちは自分の中で抑

えがたいものがある。

 

 平成十九年(2007年)三月十九日、アメーバ

ブログにおいて『雄呂血』(映画 75分 無声 

白黒 大正十四年十一月二十日封切 製作阪東妻

三郎プロダクション 主演阪東妻三郎 監督二川

文太郎)の感想を書いた。これが当時『映画感想

ノート』と名乗り後に『ウルトラアイは我が命』

『俺の命はウルトラ・アイ』と改名した拙ブログ

の第一歩である。

 

 伊藤大輔映画感想文を中心課題にして学んでい

る。

 

 私にとっては伊藤大輔監督作品・脚本作品で映

画館未見のものは沢山ある。内田吐夢映画や溝口

健二映画やジャン・ルノワール映画やテオ・アン

ゲロプロス映画でも未見で出会っていないものは

ある。

 そして、ヴィクトル・エリセ監督作品『挑戦』

(1969年)『3・11 A Sense of Home Film

s』(2011年)『ポルトガル、ここに誕生す~

ギマランイス歴史地区』(2012年)に映画館で

出会っていない。

 

 未見作品を尋ねると言う課題を思えば、映画館

映画鑑賞は再開することになるだろう。

 

 『瞳をとじて』は藝術対娯楽の二元観念で類別

されるものではないし、好嫌二元二極主観で決め

つけるものでもないし、前述の通り他映画作品と

の比較のランキングで判断してよいものではない。

 

 「出会いたい」「思い出して欲しい」と念じ願

うことによって、自己の生命に目覚める。

 

 

 十七歳誕生日を迎えた拙ブログにおいて、念い

願う事の大切さに学んでいることを確かめたい。

 

 ラストにおいて物語は鑑賞した観客一人一人

の心の中において広がって流れて行く。その道

は観客の人生においてずっと続いていく。

 

 

 

 ミゲル・フリオ・アナの物語は無限である。

 

 ラストシーンの理想を極め尽くしている。

 

 

 

 ヴィクトル・エリセがフィルムに映した『瞳

をとじて』の生命は永遠である。

 

 

                  合掌

 

               南無阿弥陀仏

 

                  セブン