奥崎謙三 生誕百四年 百四歳誕生日 | 俺の命はウルトラ・アイ

奥崎謙三 生誕百四年 百四歳誕生日

 奥崎謙三(おくざき・けんぞう)

 大正九年(1920年)二月一日兵庫県に

誕生。

 平成十七年(2005年)六月十六日死去。

八十五歳。

 バッテリー商・平和運動家・政治家・神

軍平等兵。

 

 

 昭和十六年(1941年)中支九江工兵隊に

入隊、後に独立工兵第三十六連隊に転属とな

り、ニューギニア戦場に派遣され、その苛酷

な戦闘地域で生き残り、昭和二十一年(1946

年)に復員し、故郷兵庫でサン電池工業所を

自営する。

 

 ニューギニアの戦場で餓死・戦死した戦友

達の無念を悲しみ、戦争の最高責任者であ

り、大日本帝国を統治していた元首であった

裕仁の戦争責任を追求した。

 

 

 昭和三十一年(1956年)四月四日奥崎は不

動産業者延原一夫を刺し、五日延原は死去

した。奥崎は延原一夫を刺殺してしまった事

を深く悔やみ、「天皇に対して力の及ぶことを

して、もっと重い刑罰を受けた方がよかった」

(『ヤマザキ、天皇を撃て』156頁 1987年8月

15日発行 新泉社)と天皇と天皇的なものを

作り出す社会構造を糾弾することを考える。

 

 獄中で謙三は沢山の書籍を読んだが、宗教書は

彼の心を満たさず、ノートに沢山の論文・歌・詩

を書き、「天皇や天皇的なものが多く存在する、

ピラミッド型の構造の現在の社会」(『ヤマザキ、

天皇を撃て』171頁)の変革こそ課題で、それが

戦場で戦死・餓死した戦友達への供養になると

確かめた。

 出所した謙三は自身の課題に向かって進む。

 

   私は、多くの戦友を餓死させ、無数の敵

   味方の人間を殺戮した太平洋戦争は、天

   皇の名を使わなかったならば絶対に行え

   なかったと思いました。いまでさえ、日本人

   には天皇が大きな影響力を持っております

   が、天皇の名は敗戦までの日本人にとっ

   て、神以上の恐ろしい強制力を持っていた

   からであります。

   (『ヤマザキ、天皇を撃て』156‐157頁 

    1987年8月15日発行 新泉社)

 

 昭和四十四年(1969年)一月二日東京のホテル

に宿泊していた奥崎謙三はホテル食堂で朝食を

取り、タクシーで東京駅に向かい、駅から徒歩で

皇居に到着した。

 

   九時半ごろにバルコニー前に着いてから

   三十分程経って、数年間考えつづけた天

   皇の姿が、バルコニーに現れました。天皇

   をはじめて近くで見た私は、舞台の役者の

   ように思いました。

   (『ヤマザキ、天皇を撃て』205頁 

    1987年8月15日発行 新泉社)

 

 奥崎謙三が初めて昭和天皇を見た時の感想は

強烈である。

 「舞台の役者のよう」な存在感があったことを確

かめている。

  

   天皇の姿がバルコニーに現れると、群衆の

   視線と関心は、一斉に天皇に集中しました。

   私は、オーバーのポケットの中で右手で握

   っていたパチンコとパチンコ玉を取り出し、

   群衆の頭越しに、二十数メートル離れた天皇

   に向けて、パチンコ玉を一回に三個発射し

   ました。やっぱり思っていたとおり、天皇に

   パチンコ玉が当たらず、天皇は素知らぬ顔

   をしていました。私がパチンコ玉を一回発射

   しても、私の行為を知って騒ぐ人は誰もなく、

   私は肩すかしを食ったようなもの足りない気

   がしました。私は筋向かいのモーター屋さん

   の主人に予言していたとおり、周囲の人を騒

   がす為に、大声をはりあげて、「おい、山崎!

   天皇をピストルで撃て!」と四、五回繰り返し

   叫びました。

   (『ヤマザキ、天皇を撃て』206頁 

    1987年8月15日発行 新泉社)

 

 奥崎謙三は初めて会った裕仁に向かい、パチンコ

玉を投げたが、玉は当たらず、その狙撃行為も人々

の耳目を引かず、肩透かしの気持ちを覚えた。

 戦死した戦友の名を呼び、「山崎、ピストルで天皇

を撃て!」と叫び、群衆の注目を浴びて、自ら警官に

「行きましょう」と連行してもらうように頼んだ。

 

 裕仁は明治三十四年(1901年)に誕生し、昭和

六十四年(1989年)一月七日に死亡した。八十七年

の彼の生涯において、彼が侵した戦争の責任を面と

向かって直接叱り糾弾した人は奥崎謙三唯一人であ

ろう。

 

 出所後バッテリーの仕事と平和運動をしていた

奥崎謙三に、昭和五十六年(1981年)疾走プロダ

クションの原一男監督と小林佐智子プロデューサー

がドキュメンタリー映画を撮りたいと申し出て、五

十七年(1982年)謙三が同意し撮影が始まった。

 

 この撮影記録は昭和六十二年(1987年)八月一日

映画『ゆきゆきて、神軍』として発表された。

 

 

 

 

 『ゆきゆきて、神軍』  

 映画  122分 トーキー カラー  

 昭和六十二年(1987年)八月一日公開  

 製作国日本  製作疾走プロダクション  

 製作小林佐智子  撮影原一男  録音栗林豊彦  

 

 出演     

 

 奥崎謙三 

 奥崎シズミ

 村本政雄  山田吉太郎

 遠藤誠   島本イセコ

 監督原一男  

 

 ☆鑑賞日時☆

 昭和六十三年(1988年)二月二十日ルネサンスホール 

 令和元年(2019年)八月三十一日京都シネマ

  ☆

 令和三年(2021年)十二月三日デジタルリマスター版

 DVDリリース

 ☆

     

  昭和五十七年(1982年)神戸の奥崎謙三・シズミ夫妻が営むバッテ

リー商店看板には、謙三自身の達筆の文字で時の天皇裕仁の戦争責

任を問い質し、全人類が平和に生きる道を希求する道が大書されてい

る。

 

  謙三・シズミ夫妻は平和運動家太田垣敏和の結婚式の媒酌人を

勤める。

 媒酌人奥崎謙三の挨拶は凄まじい。謙三・シズミ夫妻の媒酌に

より行われた太田垣敏和夫妻の結婚式は暖かいムードに包まれ、

新郎新婦の門出は出席者により祝福される。

 

 奥崎謙三は独立工兵隊第三十六連隊で生き残った人物だが、

同じ生存者である山田吉太郎元軍曹を見舞う。入院されたこと

は「天罰」という謙三の冷たい言葉にスタッフはショックを受けた。

 

 

 この年の四月二十九日丸の内交差点において派手な文字を大書

した愛車から謙三は裕仁の戦争で亡くなった人々の慰霊祭を行った。

 

   

   奥崎「奥崎謙三は此処において、天皇誕生日の

     この日、天皇裕仁を八十一歳まで在位せ

     しめてきたこの天皇裕仁及びその一味の

     為に犠牲になった無数の人々の霊を慰

     める為に。今日ここにおいて私の所属し

     ておりました独立工兵第三十六連隊は、

      ニューギニアにおいて連隊長以下百パ

      -セント近く飢え死に致しました。

      私にとって立派な人間とは神の法に

       従って人間が作った法律を恐れず、

       刑罰を恐れず、本当に正しいことを

       永遠に正しいことを、実行することを

       最高の人間だと思っているんであり

       ます。」

 

 警官が近づき、謙三は警察官がメモらしきものを

見せ、私を人間が作った法律に従わせようとして

いますと聴衆に伝え、警官に求められるまま車から

出て歩みだした。

 

 遠藤誠弁護士を囲む会が法曹会館で開催され、謙三は

スピーチを為した。

 

    

   奥崎「わたくしは一般庶民よりも法律の被害

      多く受けてきましたので、日本人の中

      では法律の恩恵を最も多く受けてきま

      した、無知・無理・無責任のシンボルで

      あります天皇裕仁に対して、先程丸山

      先生が仰って頂きましたように、四個の

      パチンコ玉をパチンコで発射致しまして、

      続いて、天皇ポルノビラを、銀座・渋谷・

      新宿のデパート屋上からばらまき、その

      二つの刑事事件に関わった法律家であ

      るところの、二名の判事と八名の検事の

      顔に、小便と唾をかけて思いきり罵倒致

      しました。例えばこの法曹会館の横に並

      んでおります東京高等裁判所の刑事法

      廷におきましては、裁判長に向かって手

      錠をはめられたまま、『貴様は、俺の前

      で、そんな高い所に立っている資格は

      ない。降りてきて土下座をさらせ!』と怒

      鳴りました。そして、退廷を命じられまし

      て、今度は引き続いて、午後に監置裁判

      が行われましたが、今度はわたくしは、『俺

      の前で土下座をするのは勿体無い。穴

      を掘って入れ!』と申しました。そういう

      ことは独房生活を十年九か月送ってきま

      したわたくしには屁の河童であります。」

 

 

 

  神戸拘置所において謙三は自宅に独居房を建てたい

ので寸法を測らせてくれと頼み拒絶され、職員に激怒す

る。「ロボットみたいな面しやがって、それが人間の顔か」

と問う謙三は職員達に「人間の面」をしていないと糾し、

「天皇裕仁と一緒だ」と叱り飛ばす。

 

 独立工兵隊の戦友島本政行はニューギニアで戦病死

した。謙三は政行を埋葬した土饅頭にパパイヤの実を

供えた。

 

 政行の母イセコを江田島に尋ねた謙三は、戦病死した

戦友を思い、男泣きに涙を流す。

 

 謙三はイセコと共に政行の墓にお参りし、『岸壁の母』

を歌ってもらう。

 

 独立工兵隊第三十六連隊ウェワク残留隊において隊長

による部下銃殺事件があった。

 奥崎謙三はかつて分隊長であった高見実を尋ねる。高

見は涙を流す。

 関係者であった妹尾幸男は奥崎の事件に対する質問

を受け、詳しく語らず出かけようとして、謙三に殴られる。

 

 謙三は妹尾家の人々に取り押さえられ、原一男監督が

カメラを回し続けたことに不満を語る。

 

 吉沢徹之助元一等兵と野村甚平元上等兵は処刑事件

で犠牲になった。吉沢の妹崎本倫子と野村の弟野村寿

也は謙三と共に事件を調査する。

 

 会川利一元伍長は処刑事件の関係者について語る。

 

 原利夫元軍曹は三人の来訪を受けて、中々事件に

ついて語らなかったが、遺族と謙三の問いを受け、二

人は敵前逃亡の罪を着せられて銃殺されたことを語る。

 

 謙三と崎本と野村は神戸に浜口政一元衛生兵を尋

ねた。

 

 浜口は処刑事件で引金を引いていないと証言し、

人肉食問題については「食べました」と落ち着いて

語り、「白豚、黒豚」とニューギニアの犠牲者達を

呼んだことを語る。

 

  奥崎謙三は、元軍曹小島七郎に電話し、処刑事

件を命令したのは残留隊長古清水政雄(村本政雄)

だと確認する。

  崎本・野村と感覚が合わなかった奥崎は先生と尊

敬する桑田博に野村役、妻シズミに崎本役の「代役」

を立てて、広島県の村本邸を尋ねた。

 原一男は代役に反発を感じたが、小林佐智プロデ

ューサーはそこに奥崎の演出を感じた。いよいよ謙

三と村本政雄の対話だ。   

 

 奥崎は村本政雄に、遠藤誠弁護士に相談し 「あな

た」が「なさった処置」は「軍法会議に基づかないもの

であり」、当時の法に照らしても「殺人罪に該当」する

と厳しく述べ、刑事上・ 民事上の責任を追求すること

は無理だが、天の法に照らすならば時効はないと宣

言する。奥崎の言葉に村本は、彼なりの立場や状況

を説明しながら答える。

 

 

 奥崎から「あなたも拳銃を持って」と問われ と村本は

「とらなかった」と言い、その場にいなかったと答える。

謙三は「好きで人間の肉を喰う者 はいないし、そうした

極限状況の下に置かれていた」ことを指摘し、外国の

軍隊ならば、投降したの ではないかと問う。村本政雄

は「本当に軽率な事ですね」と誤りを認める。  

 

    奥崎「私は、人を刺して殺してもね、天皇にパチ

       ンコを撃っても、警察、逃げも隠れもしませ

       ん。」   

 

 延原一夫を殺害し服役し、裕仁にパチンコ玉を撃って

服役した事を確認し た奥崎は村本の腕を掴む。   

 

 

    奥崎「私は無責任な人間が最も嫌なんです。貴

        方はご自分のなさったこと少しも責任とっ

       ておられないんです。」

 

   村本「あんたの考え方と私の考え方は違うんだな」  

 

   奥崎「そういう無責任な人間で最高の象徴がね、

      天皇裕仁だと思うんですね。それから貴方は

      その忠実な部下の将校の一人だと」  

 

  奥崎は大日本帝国の統治者であった裕仁が戦争責

任を取っていないことを糾弾する。 謙三は妻シズミと共

に村本政雄を糺した日の翌日早朝五時に妹尾幸男を再

び訪ねた。妹尾は前回の訪問で 奥崎に冷たい態度を取

って殴られたが、この日の証言では打って変わって処刑

事件の惨たらしさを語った。

 

  原住民を殺害してその肉を食ったことの口封じで吉沢 

徹之助と野村甚平の処刑が行われた。吉沢徹之助と野村 

甚平を、古清水政雄(村本政雄)の命令で、妹尾幸男・妹

尾(高見)実・原利夫・会川利一ら五名に五挺の銃が渡さ

れ、事件が古清水の命令でなされたことを認めた。デジ

タルリマスター版で鑑賞すると妹尾幸男が証言において

熱い涙を流ていることがはっきりと映っていた。奥崎は再

び高見実(妹尾実)を尋ねる。高見も処刑事件が古清水

の命令でなされたことを 認めた。 

 

  高見「上からそう言われりゃ、必然的にそうなってし

      まったんです。」

 

 高見の証言によると五メートル離れた距離撃たされた

という。

 

   高見「非人間的な人間で、ご遺族に対して、その、

       施しをすることもせず、私、お詫び申し上げ

       るほかないんでございます。」

 

 奥崎は敗戦後それぞれが相応の生き方をしたと語って

早朝の訪問を詫びる。 謙三は妻シズミと共にくじ引き謀

殺事件の調査をなしアナーキスト大島英三郎に協力を依

頼する。大島は昭和四十四年(1969年)一月二日に皇居

で発煙筒をたいた。 映像ではこの日奥崎が裕仁にパチ

ンコ玉を撃った事件と大島の発煙筒 騒動の新聞報道を

伝える。    

 

   奥崎「その大島先生と私と同じ日に、午前にです

       ね、天皇裕仁にパチンコを撃った訳でそう

       いうご縁で今日は、橋本、大島先生にね、橋

       本義一というわたしの部隊に居りました軍曹

      が、連隊長以下最後の五名になるまでですね、

       生きておった時点で、同僚の軍曹 の為に、謀

       殺されました事件のですね、真相を究明する

       為に、大島先生を、橋本義一軍曹の御兄さ

       ん役になってもらう為に来て頂いた訳です。」  

 

 奥崎は平和運動仲間の大島英三郎にくじ引き謀殺事

件の被害者橋本義一の兄を演じて貰うという試みを為す。

尋ねる人物は戦友であり、協力者の元軍曹山田吉太郎

である。 山田吉太郎の家を尋ねた奥崎は、新年の挨拶

ヲ為し、山田も新年を祝った。

 ニューギニアの戦場から生還し『独立工兵第三十六連

隊行動記録』をまとめた山田吉太郎。 

  原一男は、ニューギニア戦線を生き残り、全く違う方法

で平和希求の道を歩んだ二人の男 奥崎謙三・山田吉太

郎に注目する。

 

 

    奥崎「山田さんは、その、まあ、下士官の中では尊

        敬してましてですね、あのう、橋本義一さんで

        すね、三人で草の葉を引いてですね、それで、

        殺されたいうことを聞きましてですね、山田さ

        んから、で、片方のね、ウエワク残留隊の殺人

       事件だけね、真相を究明してですね、山田さん

        と私達、行動したね、連隊主力の方の殺人事

        件にも該当する訳です。山田さんは、くじを引

        かれたとおっしゃいますけど、それは、あの、刑

        法上共同正犯になるわけですね。」  

 

 

   山田「いいや」    

 

 

   奥崎「それでね、そのね、まあ、あのう。」   

 

 

   山田「沢山だい!」  

 

 

  山田吉太郎は怒る。    

 

 

   奥崎「はい、え」    

 

 

   山田「今更そんなこと。おら、奥崎さんと何かやって

       きたけど、そんなものは堀り下げたってどうに

      もなんねえだよ!」 

 

 奥崎は「そういう事実」を指摘する。山田は残務整理し

たことを確かめる。   

 

   山田「実際、奥崎さんも知ってるけど、ニューギニアで

       亡くなった人は、家族に聞かせられないような

       死に方してるんだよ。」   

 

    奥崎「だから、その、そのことをね、寧ろ聞かしてあ

       げる事がね、戦争で亡くなった事、これから戦争。

       だから、そのう実際は銃殺しとりながらね、それ

       を戦病死なんか言ってますとね、また再び戦争

       がね、その戦争てものの実態がわからない訳な

       んですよ。」  

 

 山田吉太郎はくじびき謀殺事件への証言を奥崎謙三に

求め られ、「なるべく実態を知らせるように」記録を書いた

と述べる。  奥崎は橋本義一の兄役の大島英三郎を指し

て、「お兄さん でございまして」と称し、山田が立っている事

について、立た されていることに触れ、妹尾幸男を殴った事

を語った。 

 

 

    山田「俺は腹を切ってあるから、あんまり座れない

       んだよ」   

 

 山田吉太郎は術後の身体であることを告げた。   

 

   奥崎「ああ。そうですか、じゃあ、じゃあ、あそこにね、

      座られてね。」   

 

  山田は腰かけた。奥崎はこれまで証言を求めてきた人々

 に事実を語ってもらったことを報告し、山田さんにも言いにく

い でしょうが語って頂きたいと頼む。「言いにくいどころか、そ

れだ けは記録に書けなかったことがある」と山田は語り、余

りにも哀 れだからだと根拠を示した。 奥崎は「言って頂くこと」

を強調し、山田は「俺の生活」は 理解できるものじゃないと強く

述べる。    

 

    奥崎「貴男がね、貴男があのあれでしょ、病気になった

        いうときね、私は東京拘置所の中からね天罰だ

        言ったでしょ、貴男にね。」   

 

 

    山田「聞いた、あの時」 

 

 山田は腹の中で怒ったことを告げる。奥崎は驚く。山田は自

分の場合は天罰じゃないと確かめる。奥崎は、山田だけが天罰

なのではなくて、彼がニューギニ アで餓死しそうになったことや

延原一夫を殺害してしま った事も天罰であり、妻シズミが交通

事故に遭ったことも天罰なんだと語る。 山田は「俺がしていな

い場合は先祖がしてる」と問う。   

 

  奥崎「あなた自身がしてるじゃないですか、ニューギニアで」  

 

  山田「みんなしてるよ。」   

 

 

   奥崎「だからみんな天罰受けてる訳で、貴男だけじゃない

       ですよ。」  

 

   山田「だけど天罰と思ってないよ。」   

 

 

 奥崎が「だからそこに」と問うと、山田はできるだけのことをや

ってきたと人生を確かめる。「そこに貴男なりの問題がある」 と

奥崎は指摘し、山田は「天罰だと思ったらきりがないよ」と苦悩 

を語った。    

 

   奥崎「貴男はあれだけ悲惨な戦争体験をし、そしてまた戦

      争帰ってからね、何故こう何回も何回もね、腹を切っ

      たりはったりするようなね、そういう病気になる、それ

      は貴男が天罰じゃないと思ったら、それは思い上が

       りだと思うんですね。」   

 

 

   山田「思い上がりなんて、それはあんあたが・・・・・・個人

       個人の考えは色々有るよ。」  

 

   奥崎「貴男がね、全然そしたら人間としてん、恥ずかしく

       ない事罪にならないことしてきた言うんですか?今

       迄。」   

 

   山田「みんな罪犯してる誰だって。」 

 

 奥崎謙三は全ての存在が天罰を受けていると主張する。これ 

に対し山田吉太郎は天罰を受けたとは思っていないと生き方を 

確かめる。奥崎に「貴方は?」と問われた山田は、「奥崎さんに 

奥崎さんの人生があったろうし、俺には俺の人生があった、ひと

りひとり違うんだよ。一緒に生まれて一緒に死ぬことは出来な 

いんだよ」と答える。  

 

  奥崎は過去に「貴方も私」も語れないことをしてきたと追求

す る。山田は語ればかえって害になる場合もあり、自身が書

いた 記録を読んでもわかるが草の根っこ、木の根を食べた事

も記されていると確認する。 奥崎は戦争から帰ってきた人は皆

言っているという。山田は ニューギニアは別で生きていられる

場ではないと戦場の苦 しさを語る。奥崎は虫を食ったという事

は誰もが言って いるが、今日聞きにきたことは、貴男が体験

したことだと告げる。 山田は「これ以上のことは言えない」と心

に決め、氏神様に戦友を祀っていると自身の在り方を強く語る。  

 山田家の庭には祠がある。   

 

   山田「結局これはね、その時の指導者だとか、ああ、そい

       つの流れに流されただけだよ。」 

 

 

   奥崎「そうでしょう。だから」  

 

 

    山田「だからこれからを心配して、今の世の中をね、俺は

       心配してる訳なんだよ。」  

 

    奥崎「心配する、するならばね、何故貴方の体験したこと

        をね、その語るべきじゃないですか!そういう連中

        に又再びそう言う事をさせない為に貴方は地獄を

        見てきたわけでしょ!?」  

 

    山田「そうだよ!」  

 

 

   奥崎「その地獄を語らなくってね、戦友の慰霊になんかなる

       筈ないですよ。貴男はね結局ね、現在のね、現在の 

       家族とか女房とだとか子供だとか孫だとかを考えて 

      言わないんでしょ。」     

 

 奥崎は大島英三郎扮する橋本義一を指して、橋本義一さんの

兄さんが話を聞きたいとお見えになっているから話すべきだと強

調する。 山田は「何で俺にすいませんと言えってんだ」と問う。  

 奥崎は過去に事件について語ったじゃないかと問い、山田は 

知るかいと否定する。一昨年の正月に言ったと奥崎が言うと、 

山田は何を言っても「俺らの生活」は理解を絶していると告げ、 

奥崎は「理解なんかはしようとは」と語り、山田は「理解できるよ

うな生活だったら、俺だけ生きて帰ってくるはずはない、みんな

生きて帰る」と意見を語った。 奥崎は「事実を話して下さい」と

迫り、そのことが「最高の供養になる」と自身の心を述べた。   

 

  

 謙三は協力者山田吉太郎にくじ引き謀殺事件に

ついて聞くが、解答を拒否され、靖国神社をめぐる

意見で激怒する。

 山田は参拝して戦死者を追悼するという自らの姿勢

を表明した。この意見に靖国神社を否定する奥崎は

殴る蹴るの暴行を犯した。

  

 

  「やめなさい!」と叫んで奥崎シズミは身を挺して

夫謙三の暴力から山田吉太郎を守り庇って足に負傷

する。山田の妻も懸命に「それだけは止めて下さい」

と懇願する。

  山田吉太郎は何故自分にくじ引き謀殺事件を問

うのかと尋ねる。

 

   奥崎「それはね、やっぱりあなたの為じゃない。亡くな

      った方とか多くの人をね、やっぱりその、これから

      戦争にあなたが仰ることによって、それは大分違

      いますよ。貴方が本当にそういう地獄を体験なさ

      ったことをね、仰って頂くのは。それから独立工兵

      三十六連隊のね、主力の中で、本部と二中隊と三

      中隊の中から貴方と私だけが生きて帰ってくたで

      しょ。一中隊が先行してね、六人程帰ってきた訳

      でしょ。そういうね、貴方は勿論貴方のほうが地獄

      を多く見てきとられる訳です。私は幸い人の肉を

      喰わずに生きて帰れた訳ですからね、ところがウ

      エワク残留隊は人の肉をさ五人で喰って、あの喰

      わなきゃ生きていけなかったし、それを喰った人を

      責めるんじゃなく、寧ろ喰わした人をね、問題があ

      ると思うんです。ところが喰わした人言うのは、喰

      わした連中は、ちっとも咎められて無い訳ですね。

      その最高責任者が裕、あの厚顔無恥の、私、裕仁

      だと思ってる訳ですね。ところが、彼生まれてから

      一回も『すいません』なんて言ってない訳でしょ。と

      ころが貴方の戦後の生活を見てますとね、専ら御

      家族をね、子供さんを学校へね、やられる事に」

 

 

  山田は親の責任だよと答える。奥崎は親の責任と仰るが、

貴方はニューギニアから生きて帰れなかったら、親になられ

なかったでしょと問い、山田も年中思ってるよと常に生還した

ことへの感謝を確かめる。奥崎はお子さんも大事だし、お孫

さんも大事だが、まず原点に返って、ニューギニア戦線から

帰って来られなかったら、奥さん・お子さん・お孫さんとも会え

なかったのではないかと強調する。山田は、それは年中思

ってると述べる。

 

 ウェワクに残留した大日本帝国兵士達は人間の肉を食っ

て生きた。その残酷な罪の最大の責任者は、厚顔無恥の

裕仁である。裕仁は日中太平洋戦争で沢山の日本人・外

国人を殺した。その罪を裁かれず許され、一度も「すいませ

ん」とも語っていない。その裕仁の傲慢不遜を謙三は糾弾

する。

 

   謙三は「世間一般の戦争体験」をなさらなかった山田

吉太郎さんが「家庭だけをやっておられた」ならば、天は「戦

争体験のない、あまり戦争行っても苦労しなかったような人

間のような生き様をさせる為に日本に生きて帰らしたんで

はない」と言うのではないかと問うて証言を語ることには、特

別な使命なのではないかと探る。

 

 

 更に奥崎は過去に自身が犯してしまった延原一夫殺害事

件を確かめその痛みと悲しみを語る。赤線に行って妻シズミ

を裏切ったことへの痛みも告白する。戦争から帰ってきて生

かされた身でありながら妻の心を傷つけたことを、謙三は深

く恥じ入る。奥崎謙三は戦争の地獄を生き抜き帰ってこれた

ことは生かされた身であり、戦死・餓死した戦友の無念を思

い、戦争の残酷さを伝えることが、自分だけのことを考えない

営みであり、天から与えられた課題だと感じた。独房生活で

天罰を感じた謙三は自分だけのことを考えず、全人類の幸

と平和を願って行動する課題に目覚めたという。

  山田は生きる為に色んな事があったと述べる。奥崎は貴

方が生きて帰られ、他の方は亡くなったと確かめ、山田さんに

は語るという課題があるのだと強く求める。

     

 原一男監督が夫謙三に足を蹴られた妻シズミに痛みを聞く。

 

   一男「痛いですか?」

 

   シズミ「そりゃ、痛いですよ。靴履いているでしょう。私が

        受けたんやもの、足を。あの人が蹴飛ばすの」  

 

  警官が山田家の人々に謙三の暴行について質問する。

 

  アメリカが再軍備をしている時代である時を確かめ、

誰も体験していない、「貴重な人類の財産」とも言うべき山

田氏の戦争体験を語って頂きたいと懇願し、沢山の人々

な死を遂げたことを述べ、「千万の命」の一つとして生きて

残って帰ったこられた山田さんが沈黙するのは、「宝の

持ち腐れだ」と嘆く。

 

 山田は沈黙と言うより、生きてる人間には話せることと

話せないことがあると自身の悲しみを語る。

 

 警官が来て、奥崎に何故暴力を振るわれのかという山

田に質問する。

 

 奥崎謙三は戦争中の橋本義一軍曹の殺害事件を聞こう

としたと事情を語った。山田は嘘言わねえ答える。

 

 山田は重ねて言えることと言えないことがあると確かめ

語るのは無理だと自身の立場を明かす。

 奥崎が橋本義一軍曹殺害事件の真相を話して頂きたい

と重ねて問うと、山田は「殺害事件と言われたら困る」と

答える。部隊長だけは今日の言葉では自殺になっている

と告げた。

 

 奥崎と山田の問答によると、橋本義一軍曹は野道(や

どう)三十六連隊の食糧を盗んだかもしれないという疑惑

をかけられ、野道三十六連隊から圧力が加わり、山田は

圧力のもとに「実行」しなきゃこっちの身が危なかったと

確かめる。奥崎は白豚・黒豚と呼び、原住民の人肉を

喰ったのかと問い、山田は原住民はすばしっこくてこっ

ちが負けると語る。奥崎は日本兵の中で、憎まれてる人

が犠牲になったのかと問う。山田はみんな自分一人だけ

生き残ろうと考えると告げた。奥崎は、山田さんも、殺され

るって耳打ちされたことはと問うと、山田は「いくらでもある

よ」と報告した。俺を殺したら三十六連隊にとって不自由に

なると庇ってくれた人が居たんだと事情を話した。奥崎は

貴方が結局野道三十六連隊の生き残りの人達に役に立

つ人物であった為に助かったんですねと確かめる。

 

   謙三「それで、貴方は喰われなくて済んだ訳です

       ね。戦争の犠牲になられた方をですね、喜

       ばれるだろうと思うことならばね、幾らでも

       やろうと、だから現在も、今年も、それ、考え

       てる訳です。今迄独房生活十三年九カ月し

       てきましたけど、又十年やるって決心した訳

       です、今年は。私にとって、暴力しか取り得

       がありませんでね。」

    

   山田「自分が考えてる事がまっとう出来なくなっち

       ゃう場合もあるから。」

 

 自身の心の中で決している事柄を確かめつつ、奥崎は

土下座して謝罪する。

 

   奥崎「暴力を振るった事勘弁して下さい。」

 

 山田は「そんな事ねえです」と優しく許す。山田夫人が

ご主人の排泄について聞く。山田は神経が無くて、自身で

排泄することが困難であると確かめる。足の痛みを語り、

奥崎は「傷害罪でも責任を持ちます」と述べ、救急車を呼ぶ。

 

 山田は深谷の赤十字病院で治療を受けた。

 

 奥崎謙三・シズミ夫妻がカメラの前に立つ。

 

   奥崎「山田さんの怪我はね、別に赤くもなってません

       し、寧ろ家内の怪我がですね、酷いんですけど、

       見た目はね、レントゲン撮ってみなきゃ分かり

       ませんけど、見た目は家内のほうが酷くって、

       家内が山田さんを、傷つけ、庇う為に」

 

   シズミ「私がこういうふうにしたんですからね。」

 

   奥崎「ですから、家内は、我ながら、私の女房ながら、

       天晴であると思います。もし、山田さんにね、

       あれだけ、怪我見た目ですけど、怪我させと

       ったら、やっぱり私も心痛みますし、責任も感

       じますから。今、その、山田さんの娘さんのご

       主人さんがですね、『暴力振るっちゃいけない』

       って仰ったんですけども、その『暴力振るって

       許される、良い結果が出る暴力だったら、私は

       許される』と。だから私は大いに『今後生きてい

       る限り、私の判断と責任によって、自分と、それ

       から人類に良い結果を齎す暴力ならばね、大

       いに使う』と。こう言って、山田吉太郎さんの娘

       さんの御主人に申し上げた訳です。」

       

 シズミは心配そうに夫謙三を見つめる。

 

 島本イセコの訃報が字幕で伝えられる。『岸壁の母』の

歌声が銀幕に響く。「政行さんがニューギニア戦線で亡く

なり、ニューギニアを母上イセコせんに御覧頂く」という

課題に、政行の戦友謙三は全てを賭けていた。島本家の

墓に線香をあげる謙三の姿が映る。

 

 昭和五十八年(1983年)三月二十二日、謙三・原一男・

撮影隊はニューギニアに行き、撮影を行った。

 三月三十日インドネシア情報局の役人が現れ、原一

男監督に「フィルムを出せ」と命じ、謙三は「俺は天皇に

パチンコ玉を撃った男だぞ」と語ったがフィルムは没収

されてしまった。

 

 成田空港に帰ってきた謙三はリムジンバズに原一男監督

共に乗り、警察に尾行されてますと告げ、俄かに同意でき

なかった原監督は後方の車の男性が一礼し警察と気付く。

 

 

 昭和五十八年(1983年)十二月十五日、奥崎謙三はニュ

ーギニア戦線人肉食事件と兵士銃殺事件の黒幕とみた

村本政雄を襲撃したが不在で息子和憲を狙撃し逃走した。

 

 神戸で謙三は逮捕され、村本政雄の他、田中角栄派の

国会議員や南京大虐殺関係者やインドネシア領事館員も

襲撃しようとしたことを語った。

 食堂で奥崎謙三襲撃のニュースを聞き吃驚仰天した原

一男監督だが、主演逮捕により主役を撮るラストは不成立

になり、ニューギニア篇もなく、残存している日本篇でフィルム

を編集し公開することを決める。

 

 昭和五十九年(1984年)奥崎シズミは村本和憲が助かった

ことに夫謙三が涙を流して感謝し、父上政雄さんには、ニュ

ーギニア戦線の事を語って頂きたいと凱旋の車で訴えた。

 

 夫謙三は神軍の派手な車で恒久平和と天皇制否定と戦

争責任追求を訴えたが、その志は妻シズミに継承された。

 

 「忌まわしい戦争を二度と発生させない為にも」村本政雄

さんのご発言は大切とシズミは強調した。広島拘置所の夫

謙三に面会したシズミは、その様子を原一男監督に語った。

 

   シズミ「物凄く元気でね。」

 

   原「元気ですか?」

 

   シズミ「はい、元気で。」

 

 原一男は寒さについて聞き、シズミはあったかいそう

ですと伝え、監督は食事について聞く。

 

 

  シズミ「食事はね、物凄くね、うちより宜しいんだって。

       何もかも神の思し召しでね、あんだけの事

       出来ただけで満ち足りてますて。」

 

 字幕   昭和六十一年九月十八日

      奥崎シズミ死去(68歳)

 

 字幕   昭和六十二年一月二十八日

       奥崎謙三は懲役十二年の実刑判決

       を受ける

 

 エンディングにスタッフの名前が紹介され、最後に

 

      監督 原一男

 

 と映写される。 

 

  ☆神軍平等兵謙三

  無責任のシンボル裕仁を糾弾☆

  

 

  

  日中戦争・太平洋戦争において大日本帝国を

統治 し軍隊を統帥していた裕仁は、日中戦争で

中華民国 を侵略した。裕仁が統帥していた軍隊

は中華民国南京 において三十万の中華民国市民

を虐殺し、朝鮮人女 性を軍の慰安婦にして凌辱

した。 大日本帝国の亜細亜侵略は世界に糺され

たが、裕仁統治の日本の暴走は止まらず、昭和十

六年(1941年) 十二月十六日連合国とも戦う太

平洋戦争に突入する。  

 

 裕仁は敗戦が決定的になっても、降伏後の身の

安全がわからず敗戦決定に迷い、その逡巡の時期

昭和二十年(1945年)に沖縄戦が起こり、連合国

は 八月六日・九日に広島・長崎に原子爆弾を投下

し沢山 の市民が虐殺された。 天皇裕仁は八月十五

日にポツダム宣言を受諾した事を発表した。

 だが、ニューギニア戦線では敗戦後に人肉食事件

で兵士が銃殺されていた。

   

 

 昭和五十年(1975年)十月三十一日、宮殿石橋の間において、裕仁と皇

后良子後の香淳皇后の記者会見が開催された。 自身の戦争責任と広島

原爆投下事件について記者から質問があった。   

   記者「陛下はいわゆる戦争責任について、どのようにお考えになって

       おられますか?」     

 

   裕仁「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあま

       り研究していないので、よく分かりませんから、そういう問題

       についてはお答えができかねます。」   

 

   記者「陛下は、これまでに三度広島へお越しになり、 広島市民に親

       しくお見舞いの言葉をかけておられる訳ですが、戦争終結に

       当たって、原子爆弾投下の事実を、どうお受け止めになりま

       したでしょうか?」  

 

   裕仁「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが、

       こういう戦争中である事ですから、どうも、広島市民に対して

       は気の毒であるが、やむを得ないと思っております。」 

 

 戦争責任を「言葉の綾」と誤魔化し、「文学方面」の事柄 と決めて答えら

れないと逃げる。広島の民が原子爆弾で虐殺されたことに対して「やむを

得ない」とその死を冒涜した。これが大日本帝国統治者であり、大日本帝

陸・海・空軍 を統帥していた大元帥だった男の言葉である。裕仁を守る為

命を捨てて戦った帝国臣民を裏切った。

 

 この記事は平成二十九年(2019年)一月一日の朝日新聞

だが、裕仁を平和主義者とする捏造記事であり、昭和五十

年(1975年)十月三十一日の彼裕仁が戦争責任を「言葉の

綾」と逃げ、原子爆弾に虐殺された広島の人々に「やむを得

なかった」と愚弄・侮辱した言葉は省略されている。

 裕仁の無責任と戦争犯罪を命がけで糾弾した存在が奥崎

謙三である。ニューギニア戦線における人肉食事件・兵士

銃殺事件を追求する謙三。事件を主導したと糾弾される村本

政雄(小清水政雄)。謙三と政雄の対面・問答は緊張感が

ある。奥崎の追求を受けてニューギニア戦線で自分なりに

精一杯やったと村本は懸命に語る。人肉食事件と二兵士銃

殺事件は、令和五年(2023年)二月一日の現在に真相を

解明することは困難である。だが、映画の問答を見ていると

奥崎の尋問に答えられない村本は、人肉を食べ、口封じに

部下二人に罪を着せて銃殺したのではないかという疑惑を

覚える。

 

 無責任な人間は嫌うとする謙三は無責任な人間の最高の

象徴を「天皇裕仁」であるとする。この意見は尊い。天皇に

よって統治された大日本帝国は、大元帥である天皇が陸・海

・空軍を統帥していた。帝国が侵した戦争の責任は全て裕

仁にある。ニューギニア戦線でニューギニアの人々が日本

兵に殺され、その肉を食べられた事件や口封じで兵士が

処刑されたことは、全て裕仁が犯した罪である。

 

 妹尾幸男家訪問で証言する幸男の目から熱い涙が流れ

ている。幸男はかつて自分に殴る蹴るの暴行を加えた謙三

に対して、殴られた時に言えなかったこととして、ニューギニ

アでの処刑について話す。

 高見実は銃殺事件で銃を渡された一人であることを悲しみ

詫びる。

 

 大島英三郎も昭和四十四年一月二日に皇居で裕仁の責任

を糾弾した人物だ。くじ引き謀殺事件を大島・妻シズミと共に

謙三は山田吉太郎に聞きに行く。山田は独立工兵三十六連

隊において地獄のニューギニア戦線を謙三と共に生き残った

人物である。

 原一男監督は、山田吉太郎の平和運動にも着目している。

奥崎謙三が過激な方法でゴッドワールドの建設を夢見て、

一切の戦争と全ての差別が無くなる国を地球に打ち立てる為

に天皇制全廃を為そうとするのに対して、山田吉太郎は戦争の

記録を残し静かに戦友への哀悼の意を捧げ、妻子と共に穏やか

に市民として暮らしている。激烈な謙三と温厚な吉太郎の二人

はそれぞれに平和を祈り、二度と戦争がないようにと願ってい

る。だがくじ引き謀殺事件について聞かれ、吉太郎は耐えられ

なくなって「沢山だい」と怒り証言を拒否する。奥崎との壮絶な

激論になる。

 

 デジタルリマスター版で見聞すると麗らかな陽光が外に差す

中、家の中で二人の男性が戦争観を激しくぶつけあって激論

する光景に緊張感が高まる。激怒する奥崎謙三に対してしっか

りと強く主張を語っている男性出演者は、山田吉太郎だけだと

思う。

 

 奥崎謙三は戦争から生き延びたにも関わらず、不動産業者を

刺殺してしまったことを天罰として、山田さんが病気になられた

ことも天罰であるとする。山田は天罰を否定する。

 

 虫を喰い草を喰い木の根っこを喰う。このことも十分に重い。

奥崎謙三は更に厳しく過酷であった戦争の実態を語って欲しい

と山田吉太郎に頼む。山田にとっては、胸が張り裂けそうにな

るほど辛かったのだろう。きっぱりと拒絶し遺族には伝えられな

いとする。

 人肉食とその口封じ銃殺事件を受け、「実際には銃殺しながら

戦病死」と偽りをした軍隊を糺し、こういうことを許せば新たなる

戦争の因となるとして奥崎は粘り強く証言を山田に頼む。

 

 山田は戦争指導者に利用されたことを確かめ新たな戦争が

起りはしないかと心配していると強調する。奥崎は地獄の戦場

を語ることが、戦死した戦友に対して最高の供養になると証言

を求める。

 

 この後供養について山田吉太郎が靖国神社参拝での追悼を

語り、靖国を糾弾する奥崎謙三は怒り心頭に達して暴力を振るう。

シズミは「止めなさい」と叫び、山田吉太郎を守ろうとして夫謙三

の蹴りを自身の足で受けて負傷する。謙三の暴力には悲しみを

感じる。例え靖国問題で口論になっても術後の山田吉太郎に

殴る蹴るの暴力を振るうことは言語道断である。

 「俺が警察を呼ぶ」と自ら通報し事件を警官に語り、山田吉太郎

は深谷の赤十字病院で手当てを受ける。妻シズミの献身に感謝

しつつも「良い結果を齎すならば」良い暴力を振るうとする謙三。

これは無茶苦茶な理屈である。

 

 島本イセコの訃報を受けて遺影を胸にしてニューギニア撮影に

向かう謙三。原一男監督の製作ノートにニューギニア篇の記録

が書かれている。フィルムはインドネシア情報省によって没収

されてしまった。

 

 昭和五十八年(1983年)十二月十五日奥崎謙三は村本政雄

宅を尋ね村本の不在を聞き、対応した長男和憲を拳銃で狙撃

し二日後自主して逮捕された。和憲さんが怪我をされたことに

お見舞い申し上げる。この事件に関しては奥崎謙三を擁護で

きない。明らかなテロ事件だ。村本政雄氏が人肉食事件や兵士

銃殺事件の主犯だったとしても、謙三が私的に制裁を加える権利

はない。

 奥崎は和憲が命を取り留め助かったと刑務所で聞き感動の

涙を流した。

 だが、奥崎が撮影当初から古清水襲撃を企てており、原一男

監督が「もし謙三が凶行に及んだ場合、自分はカメラを回すかも

しれない。それは人としてどうなんだろうか?」と悩んでいたことも

想起したい。計画を相談されてプロデュ―サーの小林佐智子は

泣いて謙三を制止・諌止した。作品撮影か人間としての暴力制止

の姿勢か?これは大きな難問で原一男の中で常に自問されてい

た事柄だ。この問題が本作全体を貫いていることは間違いない

だろう。

 奥崎シズミは街宣車で村本和憲の無事を安堵しつつ村本

政雄にニューギニア戦線での人肉食事・兵士銃殺事件の証言

を求め忌まわしい戦争を二度と起こしたくないという願いを語る。

 刑務所内の夫謙三にシズミは面会し美味しい食事を貰って

いると語ったと原一男監督に報告する。

 

 昭和六十一年(1986年)九月十八日奥崎シズミは死去した。

 

 昭和六十四年(1989年)一月七日裕仁は死亡した、自身が

責任を負っている南京大虐殺事件・従軍慰安婦強姦事件・ニ

ューギニア戦線人肉食事件・兵士銃殺事件の罪を一言も謝罪

もせずに生涯を終えた。

 

 奥崎謙三は平成九年(1997年)に出所した。『ゆきゆきて、神軍

2』の企画を原一男に頼んだが断られた。奥崎謙三が自身を撮影

したビデオを原一男は受け取り自己への怒りを語った映像も編集

し『亜人間 奥崎謙三』と名付けた。

 

 

 自分は『亜人間 奥崎謙三』を未見である。是非見聞したい。

 

 

 平成十五年(2003年)七月十二日シネ・ヌーヴォ

で原一男特集が開催され、『さようならCP』『ゆきゆ

きて、神軍』『全身小説家』の上映と原一男トークシ

ョーがあった。

 

   「ドキュメンタリーは虚構なんです。」

 

 原一男監督は強調する。『ゆきゆきて、神軍』を支

え続けていたのも、この「虚構」の精神なのであろう

か?虚構・フィクションにこそ、ドキュメンタリーの根

本があると原一男は熱く力説していた。

  『ゆきゆきて、神軍』において奥崎謙三が証言を

聞く営みで代役を立てる演出も思い起こした。その

虚構は巨大なものであり、この虚構に惹かれて、原

一男監督は情熱を燃やしていると拝察した。

 

 全ての上映・トークショーが終わった後、わたくしは

原一男監督に「今戦争の危機が迫っているから、この

映画を広めて平和の尊さを学びたいです」と申し上げ

た。

 

 原一男監督は「おう、頼むわ」と仰った。

 

 奥崎謙三は平成十七年(2005年)六月十六日八十

五歳で死去した。周囲の人々に「馬鹿野郎」と怒鳴っ

ていたということと、「ようしてもろてます」と感謝

していた声が共に伝えられた。

 

 

 

 奥崎謙三のテロ暴力はいけないが、人類の宝

である戦争経験者の体験に学び、戦争の残酷さ

に学び、平和の有難さを確かめるという彼の道

は深い。

 『ゆきゆきて、神軍』鑑賞者・奥崎謙三著書読者

は、戦争の悲惨さを学習し、非暴力で平和を求め

て行く。これが現代人類の道であろう。

 

 

  裕仁は日中太平洋戦争を起こし沢山の地球人を戦死

させた。その責任を取らず、補弼の臣や部下に擦り付け、

自身は税金で贅沢暮らしを犯した。無責任のシンボルで

あり、厚顔無恥な戦犯虐殺者裕仁に対して、「ヤマザキ、

天皇を撃て」と語って叱責・糾弾した奥崎謙三の勇気に

敬意を表する。

 

 謙三の暴力やテロには勿論反対する。だが、裕仁戦

争責任追求・裕仁統帥軍隊戦争責任糾弾や天皇制廃

止の教えは、過激ではなく、人類にとって為すべき課題

を提示したものである。

 

 大和朝廷の権力支配から天皇制神格化は日本国民・

日本在住外国人の心に重くのしかかっている。

 明治維新以降強化され、天皇・皇室は絶対的な存在

であるという虚構に民は洗脳されている。

 

 日中太平洋戦争の責任者は大日本帝国統治者・大日

本帝国陸海空軍統帥者裕仁である。南京大虐殺・従軍

慰安婦問題の責任者も裕仁である。

 

 広島原爆投下・長崎原爆投下は、連合国に対する降伏

を遅らせた裕仁の優柔不断が引き起こした事件である。

 

 原子爆弾によって殺された人々、重病に罹患した人々

に対して、「やむを得なかった」と愚弄した裕仁の大罪を

糾弾する。

 

 奥崎謙三の生涯は、無責任のシンボル裕仁とその軍

隊が犯した犯罪を追求し、糾弾する事に捧げられた。

 

 

 

 『ゆきゆきて、神軍』デジタルリマスター版DVDが令和

三年(2021年)十二月三日に発売された。

 

 奥崎謙三の熱き平和運動を鮮明な映像で見聞する。

自分はフィルム撮影映像はオリジナルが一番という意見

だが、デジタルリマスターで昭和五十七年(1982年)の熱

気が伝わってくるような感覚にもなる。

 

 謙三百四歳誕生日の現代、自民党・公明党・立憲民主

党・国民民主党・日本共産党の与野党が天皇制・天皇の

制度の現在未来保持を宣言し、廃止を語る国会議員は一

人もいない。

 自民党・公明党・日本維新の会・国民民主党・教育

無償化を実現する会は、天皇元首・戦争可能化・緊急

事態条項を狙う自民党憲法草案に日本国憲法を改変し

ようとしている。こんなものは賛成・反対の二元二極

はあり得ない。自民党改憲草案は日本在住地球人の生

命・人権・平和・治安・財産を奪う犯罪計画書であり、

全文破棄あるのみだ。

 

 天皇の制度・天皇制・皇室制度の神格化が、日中太平

洋戦争を起こして敗れても裕仁の責任を問わず、象徴と

して神格化を続けるという失敗を呼び現代に至っている。

 

 『ゆきゆきて、神軍』デジタルリマスター版で見聞す

ると、謙三が卒塔婆に太平洋戦争は裕仁の詔勅で始まった事

を記した文字を確かめられる。

 

 731部隊人体人体実験で殺された中華民国の人々。

 

 南京大虐殺犠牲者たち。

 

 従軍慰安婦として裕仁統帥軍隊に身体を奪われた

朝鮮人女性。

 

 太平洋戦争で日本軍と戦って戦死した地球人。

 

 広島・長崎で原爆で殺された地球人。

 

 ニューギニアで殺され肉体を日本兵に食べられた

人々。

 

 ニューギニア戦線人肉食事件で処刑された兵士

達。

 

 大日本帝国兵士として日中太平洋戦争で戦死した

人々。

 

 数多の命が裕仁の戦争で犠牲になった。

 

 戦争責任を取り、天皇制を廃止することは日本国の

責任である。

 

 日本国憲法に書いてあるからといって天皇制を残す

のだという主張は戦争犠牲者を愚弄する暴論である。

 

 戦争で犠牲になった人々の悲しみや苦痛を忘れず

想い、新たな戦争を止め、天皇制制度・天皇の制度・

皇室を廃止する。

 

 

 

 奥崎謙三は勇気を奮い、禁忌とされていた裕仁の

戦争責任を直接皇居でパチンコ玉発射で糾弾し、ニ

ューギニア人肉食事件銃殺事件を暴いた。

 

 あらゆる人が怖がり、恐れている裕仁戦争責任直接

追求を成し遂げた男。

 

 赤木雅子は十三で『ゆきゆきて、神軍』を鑑賞し、森

友学園決済文書改竄問題で自死した夫俊夫共に観た

と確かめ、「奥崎さんの姿を観て、私ももうちょっと頑張

らなあかん」と力を与えられたことを語った。

 

 昭和六十三年(1988年)二月二十日の初鑑賞以来、自

分は郷里兵庫の大先輩奥崎謙三の映像・文書に何度も

に何度も励まされた。

 

 原一男監督が語るように、証言を拒む人に暴力を振るう

事と戦友の母島本イセコさんを支える事は、共に奥崎謙三

の道なのだ。

 

 

 暴力・テロは絶対に行けない。

 

 奥崎謙三は百三歳の現代、戦争や改憲の危機が近づいて

いるが、謙三の映像の姿を見聞し、抵抗する力を学んで行き

たい。

 

 ☆令和三年(2021年)十二月八日発表記事・

  令和四年(2022年)二月一日発表記事に

  加筆しています☆

 

 ウクライナ・ロシア戦争の終結とmRNA致死猛毒

推進政策終了と昆虫食推進終結と放射能汚染水海洋

投棄推進政策終了を祈る。

 

 

 日本国憲法は天皇制廃止・皇室廃止・君が代

廃止・日の丸廃止・日米安保廃棄・沖縄米軍基

地廃止・沖縄米軍兵士全員帰国明記・原発廃止・

自衛隊の災害救助隊への改称明記・靖国神社廃

止・戦争放棄改変禁止明記・mRNA薬物接種完

全禁止・文楽誹謗禁止の憲法に改正すべきであ

る。

 

 自衛隊は災害救助隊として活動する。 

 

 「ヤマザキ、ピストルで天皇を撃て!」と叫び

裕仁にパチンコ玉を狙撃し戦争責任を糾弾した奥

崎謙三の勇気に平和運動の歩みを学ぶ。

 

 奥崎謙三師

 

 百四歳御誕生日

 

 おめでとございます。

 

 

 奥崎謙三 百四歳誕生日

             

 

 

     令和六年(2024年)二月一日

 

                 合掌

奥崎謙三