全映画のベストワン 鑑賞一年 | 俺の命はウルトラ・アイ

全映画のベストワン 鑑賞一年

 令和五年(2023年)一月十七日、新世界

東映において映画『徳川家康』を鑑賞した。

徳川家康 伊藤大輔監督作品

『徳川家康』

映画 トーキー 143分 カラー(一部青色染色映像有り)

昭和四十年(1965年)一月三日封切

製作会社 東映京都

製作国  日本

製作言語 日本語

 

製作     大川博

企画     岡田茂 

       小川三喜雄

       天尾完次 

原作     山岡荘八(講談社刊)

脚本     伊藤大輔

  

 

撮影     吉田貞次

照明     中山治雄

録音     渡部芳丈

美術     川島泰三

音楽     伊福部昭

編集     宮本信太郎

 

助監督    原田隆司

記録     石田照

装置     矢田好弘

装飾     中岡清

美粧     林政信

結髪     妹尾茂子

擬斗     足立伶二郎

進行主任   黒木正美

スチール   諸角義雄

 

舞踊監修   花柳錦之輔

能楽監修   観世静夫

装飾考証   高津年晴

衣裳考証   甲斐荘楠音

 

出演 

 

中村錦之助(織田信長)

     

 

北大路欣也(松平元信)

     

 

田村高廣(松平広忠)

桜町弘子(本多小夜)

山本圭(木下藤吉郎)

 

三島雅夫(織田信秀)

松本克平(関口親永)

原田甲子郎(水野信元)

内田朝雄(鳥居忠吉)

香川良介(林通勝)

清水元(酒井雅楽助)

加藤嘉(水野忠政)

 

山本麟一(長坂血槍九郎)

中村時之介(杉山元六)

小田部通麿(平手汎秀)

尾形伸之介(金田与三衛門)

国一太郎(戸田政直)

中村錦司(大久保新八郎)

穂高稔(久松俊勝)

天津敏(大久保新十郎)

 

脇中昭夫(服部小平太)

河村満和(毛利新助)

片岡半蔵(天野甚工)

岩尾正隆(大久保甚四郎)

近江雄二郎(織田信広)

遠山金次郎(円)

関根永二郎

大前鈞(銅六)

原田清人(植村新六郎)

 

宮園純子(濃姫)

東竜子

岡島艶子

岡村佐代子

大浦和子

入江幸江

山乃美七子(志女)

松代章子

勝山まゆみ

寺島昭代

 

相原昇

五里兵太郎(弁)

矢奈木邦二郎(佐久間大学)

村居京之輔(飯尾近江)

藤本秀夫(善九)

五十嵐義弘(今川氏真)

有川正治(白須)

鈴木金哉(山口左馬助)

蓑和田良太(万蔵)

 

神木真寿雄

江木健二(山口九郎二郎)

利根川弘

土方哲也(十阿弥)

佐矢吉一

富家賢次

波多野博

唐沢民賢

坂東京三郎

 

千葉重樹(松平与一郎)

西本雄司(天野又五郎)

安中滋(平岩七之助)

白井武雄(石川与七郎)

保坂礼二(阿部徳丸)

北邑栄二(平岩助右衛門)

川浪公次郎(岩室長門)

堀川まこと(奇妙丸)

井上ひろし(茶筅丸)

吉本晴美(一之姫)

菅野直行(虎之助)

 

青木勇嗣(松平竹千代 六歳から九歳)

竹内満(本多鍋之助)

畠山淑子(松平竹千代 三歳)

他 東映児童劇団

アカデミー児童劇団

滝沢修(語り手)

 

西村晃(今川義元)

千田是也(雪斉禅師)

 

 

 

有馬稲子(於大の方)

 

 

監督 伊藤大輔

 

徳川家康=松平竹千代

    →松平元信→松平元康

 

小川三喜雄=初代中村獅童→小川貴也

     →小川三喜雄

 

伊藤大輔=伊藤葭=呉路也 

 

花柳錦之輔→二代目花柳壽楽

 

観世静夫→八代目観世銕之

    =静雪

 

小川錦一→初代中村錦之助

      =小川矜一郎

      →初代萬屋錦之介

 

淺井将勝=北大路欣也

 

桜町弘子=櫻町弘子=松原千浪

 

香川良介=香川遼

 

鈴木金哉→鈴木康弘

 

滝沢脩=滝沢修=瀧澤修

 

 

 水野信元は政略で妹於大を三河国主

松平広忠に嫁がせるという父忠政の方針

に抗議する。忠政は泣いて於大を犠牲に

することは男と男の約束だから堪えよと

告げる。

 

 当の於大は嫁入りを嫌がってはいなか

った。広忠に嫁ぐと、彼を愛し支えた。

 

 天文二十二年十二月二十六日(ユリウ

ス暦1543年1月31日・遡及グレゴリオ暦

1543年2月10日)、於大は男児を出産し

た。この赤子は松平竹千代と名付けられた。

 

 駿河今川・尾張織田に挟まれる松平は

今川に仕えた。今川家の「御所様」こと

当主義元は、広忠に妻於大を離縁させた。

 今川家の軍師雪斎は竹千代君指南を申し

出てくる。教育とは名ばかりで竹千代を

人質として差し出せと言う命令である。

 松平家臣鳥居忠吉は、竹千代君を守護

する小姓達はもし不手際・失敗があった

場合は腹を切ることが家臣の勤めと説く。

三河の侍大久保新十郎が少年達に切腹の

作法を教授する。

 

 竹千代は水野信元に通じる戸田忠政の

裏切りに遭い、織田家に拉致される。

 松平家小姓達は若君を奪われた事を恥

じて海岸で切腹し若い命を散らす。

 

 於大は新しい夫久松俊勝から竹千代が

織田に拉致されたことを聞いた。俊勝の

勧めで於大は熱田に行く。

 

 熱田では織田家の当主信秀の息子吉法師

が奇矯な服装で戦災孤児達の踊りを見せる。

孤児達は生活費を稼ぐ為に踊っていること

を吉法師は強調した。於大を竹千代が住む

居室近くまで案内した吉法師は、竹千代と

語り合う。吉法師と竹千代は家と家の対立

を超えて兄弟の仲であった。

 

 松平広忠が亡くなる。忠吉は織田信広を

捕らえ、竹千代との人質交換を実現する。

 

 竹千代は未亡人本多小夜とその息子鍋之

助と交流し家臣の忠義に感謝する。

 

 吉法師改め信長は尾張の当主となり、後

の楽市楽座の基となる経済政策を実施した。

於大には竹千代の動静を家臣木下藤吉郎に

告げさせていた。

 

 永禄三年(1560年)今川義元は天下に号令

すべく大軍を起こし京の都を目指した。傘下の

大名は今川家の家臣として働く。

 竹千代は松平元信と名を改め、青年武将に

成長した。戦場で自身を捨て石にする御所様

の命令に悔しさを感じながらも命を捨てて忠義

を尽くしてくれる岡崎家臣団への感謝を確か

める。

 

 伊藤大輔は明治三十一年(1898年)十月

十三日愛媛県に誕生した。

 昭和五十六年(1981年)七月十九日、京都

市内の西陣病院において八十二歳で死去した。

 演劇志望青年であった大輔は無声映画時代に

脚本家としてデビューし数多くのサイレント映

画のシナリオを書き、後に監督となった。

 現代から見て昔の作品を日本の映画界・テレ

ビ界では「時代劇」と呼ぶが、この単語は大輔

が無声映画『女と海賊』シナリオにおいて「新

時代劇映画」という在り方を名付けたことに拠

る。

 「新」と「映画」が抜けて「時代劇」の言葉

が広まる。

 大輔は無声・トーキー白黒・トーキーカラー

の時代において「時代劇」映画を書き撮り発表

した。

 

 『徳川家康』は大輔にとって、六十六歳の

監督作品である。

 昭和三十九年(1964年)十二月内田吐夢は

映画『飢餓海峡』192分1秒版を演出した。東

映はフィルムカットを命じ、吐夢は「監督 内

田吐夢」の文字を削れと抗議した。

 大川博社長と吐夢が話し合い、折衷案として

昭和四十年(1965年)一月十五日に四館のみ1

83分版が公開されることとなった。四館以外の

映画館では167分に短縮された版で上映された

という。

 

 「内田吐夢の芸コンが許さぬ」という親友の

悲憤を聞いた大輔は、「芸コン」の「コン」に

充てる字を問われ、「根」が相応しいのではな

いかと答え、「芸根」と友の怒りと悲しみを言

い当てた。

 

 言葉の用い方は注意したいが専門用語として

あるので「文藝路線」の単語を当記事で用いる。

 文藝路線大作は興行成績を挙げられない。この

事をを理由にして、東映京都所長岡田茂は製作本

数を削減する。合理化作戦の血を流す犠牲として

時代劇と文藝路線が選ばれた。東映の算盤勘定に

合わない時代劇と文藝路線は斬って捨てられる。

 

 『徳川家康』は始め山岡荘八の長篇歴史小説

である原作『徳川家康』から五部作の映画版の

製作が企図されていた。

 

 昭和四十年(1965年)四月十日には田坂具

隆監督作品『冷飯とおさんとちゃん』が公開

された。

 

 『徳川家康』『飢餓海峡』『冷飯とおさんと

ちゃん』は興行的には期待された数字を稼ぎ出す

ことは無理だった。

 

 『徳川家康』五部作のシリーズ化の企画は打ち

切られた。

 

 「時代の流れの変化で駄目になったものを如

何に切り捨てるか?」という冷厳な問いを岡田

茂は打ち出した。

 

 岡田自身「功労者を切った」と正直に述べて

いる。

 

 東映で黄金期を築いた時代劇路線は捨てられ、

任侠映画が主流になって行く。

 

 ただ、岡田茂も内田吐夢が撮っていた『宮本

武蔵』全五部作の計画は尊重し、四部までは製

作・公開された歴史を受け、「吐夢さんが白黒

でいいからとやりたがっています」と大川博に

述べ、第五部『巌流島の決斗』の製作を懇願し

た。

 大川博・東映首脳は「低予算であることを」

条件に承認し、内田吐夢は『宮本武蔵 巌流島

の決斗』を演出し、作品は昭和四十年(1965

年)九月四日に封切られた。

 

 時代劇映画の切り捨てという方針が出され、

内田吐夢・初代中村錦之助・伊藤大輔は東映

退社を決める。

 

 東映から迫害に近い冷遇を受けていた時代劇

だが、『徳川家康』と『宮本武蔵 巌流島の決

斗』には大いなる生命力が躍動している。時代

の逆風が逆説的にスタッフ・キャストに強靭な

活力を齎したのだ。

 

 当時の日本映画界で勤務されていた先輩によ

ると「時代劇が終わるかもしれない」という緊

張感のもと、「奇跡のような一本」として『宮

本武蔵 巌流島の決斗』は製作・撮影されたと

いう。

 

 『徳川家康』と『宮本武蔵 巌流島の決斗』

には日本時代劇映画の歴史を集大成するよう

な包容力を感じる。

 偉そうな物言いとお叱りを受けるかもしれな

い。日本時代劇映画史と申し上げても、自分が

鑑賞した無声映画からカラー映画の時代劇の歴史

である。

 その道程において歴史を包み取る広大無辺性

を『徳川家康』と『宮本武蔵 巌流島の決斗』に

感じるのである。

 

 伊藤大輔監督作品の歩みを見てみると『徳川

家康』の143分という上映時間は現存フィルム

集の中で最長ではなかろうか?

 

 その二時間二十三分を伊藤大輔は一気に語る。

一秒も観客を退屈させない。水野忠政・信元の

父子激論から元信の岡崎城守護決定までの歴史

を繊細かつ重厚に語り明かしている。

 

 『徳川家康』は少年時代からテレビ放送版や

ソフト版を視聴し見聞する度に心を熱くしてい

る。

 しかし、令和五年(2023年)一月十七日新

世界東映スクリーンで鑑賞し、これまでの大感

激をも吹き飛ばすような熱き感覚を全身全心で

覚えたのである。

 

 やっぱり永遠不滅の大傑作は映画館・上映

館スクリーンで見聞しないと分からないので

ある。

 

 1895年12月28日のリュミエール兄弟がキネ

マトグラフで撮影したフィルムの上映を起源と

するならば、映画の歴史は128年20日というこ

とになる。

 

 文学・音楽・演劇・美術の長き歴史を思えば

映画の歴史は短く小さなものかもしれない。

 

 しかし、短く若い芸道であっても、映画は文

学・音楽・演劇・美術その他の芸道に匹敵する

深さを示している。

 

 文学・音楽・演劇・美術の学びから見れば、

まだまだ蔑視され学問としても中々認められ

ない映画だが、その存在感は決して先輩達に

負けない。

 

 否、伊藤大輔や内田吐夢が撮った活動大写

真は映画のみならず、文学・音楽・演劇・美術

の歴史も包み込んで先輩芸能に負けない不滅の

光輝を放っている。

 

 わたくしが拙ブログで申したい事はこの事な

のだ。

 

 『徳川家康』ほど美しい映画は他にない。

 

 クライマックスの桶狭間戦後の信長と元信

の再会に観客の胸は熱くなる。敵対関係に在

って二人は友誼を育み、桶狭間戦後盟約を模

索し絆を確かめる。

 

 竹千代時代の元信に約束していたものを

信長が届けるエピソードに心身全体で打たれ

た。

 

 

 活動大写真後の映画を学ぶ営みいおいて生

の歓喜を呼び起こしてくれる作品は尊いシャ

シンと崇拝している。

 生の歓喜を実感させてくれるシャシンは最

上最高の位置にはなくて、地の底からわたく

しを支えている。

 

 映画の顕彰においてBest「ベスト」の形容

詞が用いられることに疑問を呈してきた。

 

 自分に生きる喜びを恵み与えてくれている

活動大写真は果たして「ベスト」なのか?

 

 Bestはgood(良い)が変化した形で形容詞

である。最上・最高の意味もある。

 

 優れたものは上部・高部にあり、劣ったもの

は下部・低部にあるという「上是下非」、「高

是低非」の価値観に拠る事になるのではないか?

 

 この疑問からわたくしは生きる喜びを恵んで

くれている活動大写真をBestの価値観で顕彰す

ることを控えていた。

 

 活動大写真の名が示すが如く、映画館で見聞

した観客の生命をも活動的にする大写真は、命

の源・至奥から実働しているのではないか?

 

 それ故に生きる喜びを恵み与えてくれている

活動大写真・映画は最上・最高とは全く違って

いて最底辺からわたくしを支えてくれている。

 

 自分に生の活力を現成してくれているという

事から“LIFE“(命)の一本である。

 

 「ベストワン」ではなくて「ライフワン」が

映画顕彰の道と確信している。

 

 

 人間が日常生活でBestの感覚を否定すること

は難しい。学校の学習や職場の仕事においても

「ベストを尽くす」ことは求められる。

 勿論自分が「ベストを尽くした」つもりでも

他者からワーストと評されることもある。その

ような状況に在ったとしても自己ベストの更新

を人は自他から求められる。

 

 様々な芸道においてもBest作品の選考が為

される。現代日本の文学や美術ならば新人賞

を取らなければプロフェッショナルとしてデ

ビューすることは難しい。

 

 高校野球は優勝を目指す。

 

 プロ野球は完全優勝日本一を目指す。

 

 大相撲ならば横綱を夢見る。

 

 これは必然的な感覚であろう。

 

 映画祭や映画賞の顕彰もBestの観点で選考

が為される。万人が納得する基準は無い訳だ

が、沢山の審査員から讃えられ得票の多かった

作品がBestの位置に選ばれる訳だ。

 

 Bestの言葉を全否定する訳でもないし、Best

価値観で選ばれた営みを否定することもできな

い。

 

 だがBestの価値観を絶対化する必要はないの

ではないかということである。

 

 昭和二十二年(1947年)に伊藤大輔が撮った

山内伊賀亮物語はわたくしにとって「俺の命」

であり「命一本」である。

 

 このことはわたくしにとって生涯の主題であ

る。

 

 だが、『徳川家康』を新世界東映スクリーン

で見聞し、男二人の熱き友情や広大な母性愛に

育まれる息子の道が、大空を駆け飛翔するよう

に描かれてあることを感じ、これは肯定的な

心でBest Movieであると感じた。

 

 

 「無声かサイレントか」「白黒かカラーか」

「19世紀作品か2024年作品か」「旧作か新作

か」「劇映画がドキュメンタリーか」「実写か

アニメーションか」といったいかなる二項対立

をも超えることが肝要である。

 

 無声・トーキー、白黒・カラー、19世紀・

20世紀・21世紀、劇・記録・アニメーション

といった表現や時代性の様々な違いを超えて、

それらの全てを包み取って映画の歴史は成り

立っているのではないか?

 

 ましてや藝術対娯楽のくだらない二元論・

二元固執等問題外以前の感覚である。

 

 映画の場合娯楽を超えている事は当然で

あるが、藝術をも深め、命を生きて在ると

いうことを立証している作品がある。

 

 『徳川家康』はそんな一本である。

 

 地球映画史上と書いても、その六字はわ

たくしが映画館で見聞した映画鑑賞の歩み

に基づいて語り書いていることはいう迄も

ない。

 

 沢山の映画と映画館スクリーンで出会って

いない。

 見落とし聞き落とした作品は数多い。

 

 昭和四十六年(1971年)恐らくは神戸の

映画館で見聞した『眠れる森の美女』が最初

の映画鑑賞であった。

 令和六年(2024年)一月十三日MOVIX京

都シアター8で見聞した『窓ぎわのトットちゃ

ん』が最新の映画鑑賞である。

 

 鑑賞した作品群の中で最古の作品はリュミ

エール兄弟がキネマトグラフで撮った作品で、

最新の作品は2023年12月22日封切『PERFECT

DAYS』である。

 

 四歳から五十六歳まで自分が出会ってきた映画

の鑑賞本数は、果たして多いのか、少ないのか?

これは自分では分からない。

 

 

 仕事や研究学習や急用でどうしても映画館に

行けない時は必ずある。又身体の病や怪我等様

々な事情で映画館に行けないという方もおられ

るだろう。

 

 

 しかし、作品について語り書く営みにおいては

映画館上映において客席からスクリーンに上映さ

れるフィルムを見聞しなければ言えないし書けない。

これも又事実である。

 

 映画鑑賞は一期一会であることをしっかりと心

で確かめたい。同じ作品を見聞するにしても一回

一回の見聞が尊い機会なのだ。

 

 織田信長(初代中村錦之助)と松平元信(北大路

欣也)が戦いの後に義と義を確かめ合う。

 

 アンチ山岡荘八のわたくしが心身全体を挙げて感

激した。

 

 小説『徳川家康』からどうすればこんなに美しい

映画が生まれるのか?

 

 伊藤大輔の魔術に感嘆した。

 

 小説『徳川家康』を愛読されてる方々、ごめんな

さいね。

 『徳川家康』における家康美化がけしからんと

言ってる訳じゃないんだ。美化の方法の問題なん

だ。山岡荘八が小説『徳川家康』で書いた家康美化

手法の強引さがいかんと申し上げているのだ。

 

 映画『徳川家康』をスクリーンで見聞すれば、観

客は自然に北大路欣也演ずる松平元信を「良い人」

と感じる。

 

 

 

 これが伊藤大輔の話法なんだろうね。

 

 

 伊藤大輔の脚本・演出は山岡荘八の原作小説に

従順どころか、軽々と小説版を吹き飛ばし、映画

は広大無辺の存在感を見せている。

 

 しかし、山岡荘八著『徳川家康』を種として、

伊藤大輔が映画『徳川家康』という華を咲かせ

た。

 この歴史事実も忘れてはいけない。

 

 「戯曲を破壊歪曲する舞台公演は犯罪だ」と糾弾

し、「原作小説を改竄する映像版は上映・放送禁止

にすべきだ」と怒るのは、映像に力がある事を強調

したいからなんだ。

 

 伊藤大輔のように原作小説を超える映画版を書き

撮ることは至難の業であるけれども、映画にはそこ

までの超絶的偉業を成し得る力があるということな

んだ。

 

 だから詐欺に溺れる自称舞台演出家の有象無象や

歴史や伝統を愚弄する映像スタッフに怒りを覚える

のである。

 

 現代の自称演劇人や映像スタッフプロデュ―サー

が自身の趣味を現代感覚と勘違いして歴史や伝統を

破壊する愚行は怠慢である。

 

 映画『徳川家康』は自分にとっては、「鑑賞した

歩みにおける昭和作品・昭和四十年代作品・カラー

映画の作品群のベスト」や「令和五年に見聞した作品

群のベスト」ではなくて、鑑賞した全映画の中で稀有

にベストと確信した大傑作なのだ。

 

 元信と信長の友情を描くクライマックスに身も心も

陶酔した。

 

 

 

 恐らくは時代劇製作削減・中止の流れを岡田茂が

進め、時代劇受難の時期に遭ったことが、「敗北の

美学」を主題にする伊藤大輔に滅びゆく時代劇の美

を輝かせる力を呼び起こしたのであろう。

 

 昭和四十年一月三日の封切から五十九年二週間が

経った訳だが、私が見聞した限りでは、本作より後

に製作された時代劇映画で本作ほどの絢爛華麗さを

見せるシャシンは一本もない。

 

 『宮本武蔵 巌流島の決斗』より後の時代劇映画

にも「剣は武器か」に匹敵する悲しみの問いを語る

作品も無い。

 

 昭和四十年の二大時代劇映画で共にトップクレジ

ットに立った存在は初代中村錦之助である。

 

 初代中村錦之助は織田信長・宮本武蔵の芸で日本

時代劇映画の大いなる終を厳かに飾ったとも言えそう

だ。

 

 伊藤大輔が昭和二十二年に山内伊賀守物語を撮っ

た。この活動大写真はわたくしにとって命だ。

 

 十八年後に伊藤大輔が撮った『徳川家康』はBest

として天空を舞い、星の位置に輝いている。

 

 

                     合掌