秀山祭三月大歌舞伎 平家女護島 俊寛 平成二十四年三月二十七日南座 | 俺の命はウルトラ・アイ

秀山祭三月大歌舞伎 平家女護島 俊寛 平成二十四年三月二十七日南座

秀山祭三月大歌舞伎

平成二十四年(2012年)三月 南座公演


中村歌昇改め

三代目中村又五郎襲名披露

 

中村種太郎改め

四代目中村歌昇襲名披露


 

夜の部

 

一.近松門左衛門 作

   平家女護島 俊寛


 

二.

三代目中村又五郎

四代目中村歌昇

襲名披露

 

三.河竹黙阿弥 作

  新歌舞伎十八番の内

  船弁慶


 

 『平家女護島 俊寛』

 

 作           近松門左衛門

 

 俊寛僧都      中村吉右衛門

 

 海女千鳥       中村芝雀

 丹波少将成経    中村歌昇

 平判官康頼     中村吉之助

 丹左衛門尉基康  中村錦之助

 瀬尾太郎兼康    中村歌六

 

 ◎

 中村芝雀→五代目中村雀右衛門

 

 

 

 

 初代中村吉右衛門は明治十九年(1886年)

三月二十四日に誕生した。本名は波野辰次郎、

俳名は秀山である。

 昭和二十九年(1954年)九月五日、六十

八歳で死去した。

 

 

 二代目中村吉右衛門は昭和十九年(1944年)

五月二十二日に誕生した。本名は藤間久信・波

野久信・波野辰次郎、初芸名は中村萬之助、別

芸名に二代目松貫四がある。初代の孫として誕

生し後に祖父の養子になった。

 令和三年(2021年)十一月二十八日、七十

七歳で死去した。

 

 初代中村吉右衛門の俳号「秀山」を冠し、初

代ゆかりの狂言を上演してその芸と精神を継承

し学ぶ歌舞伎公演「秀山祭」は平成十八年(二

〇〇六年)九月歌舞伎座で始まった。

 

 平成二十四年(2012年)三月南座でも秀山

祭が開催された。

 わたくしはこの月の十四日に夜の部、二十七

日に昼の部・夜の部を鑑賞した。十四日夜の部、

二十七日昼の部感想は過去記事に記した。本日

は二十七日夜の部感想を書きたい。

 

 三代目中村又五郎・四代目中村歌昇襲名

披露という播磨屋にとって大切な慶事も兼

ねた興行であった。

 

 劇場一階ロビーでは、初代吉右衛門の

写真・揮毫や二代目・三代目又五郎や四

代目歌昇の写真も展示されていた。

 

 初代吉右衛門は、明治・大正・昭和の歌

舞伎を支えた大名優と先輩から教わった。

 時代物を得意として、舞台で熱演すること

も語られている。

 生涯のライバルは六代目尾上菊五郎で、

菊吉時代と呼ばれる時代を歌舞伎史に開き、

二人の火花散る競演は大いなる感動を観客

に与えたと聞いている。

 

 昭和四十二年(1967年)七月二十五日に

生まれた私にとって、初代の芸風は写真や先

輩がたの感想から想像するより術はない。

 

 映画『わが心の歌舞伎座』で初代吉右衛門

の『熊谷陣屋』の断片映像を見た。凄い迫力

であった。

 

 歌舞伎から映画の世界に入った初代萬屋

錦之介は叔父初代吉右衛門を篤く尊敬して

いたと聞いている。親友美空ひばりが『女河内

山』を演じた際に、錦兄は叔父初代吉右衛門

が河内山を演じた公演のテープを親友ひばり

に貸してあげたことを、澤島正監督が講演会で

仰っていた。

 

 初代が当たり役にしていたと言われている『俊

寛』を二代目吉右衛門が継承する。

 

 平清盛の暴政を倒す計画を鹿ケ谷で仲間と

語り合った俊寛は密告により、清盛に罰せられ

て九州鬼界ヶ島に配流された。流人の境遇にあ

って、妻東屋への愛を胸に、淋しさを抱えつつ、

同志の丹波少将成経・平判官康頼と共に懸命

に日々を生きている。

 少将は海女千鳥と恋仲になり、俊寛に祝福さ

れる。

 

 島に赦免船がやってきて、役人瀬尾兼康と丹

左衛門尉が現れる。瀬尾が読む赦免状に記さ

れているのは、成経・康頼の二人で俊寛の名は

無い。俊寛が悲しんでいると情ある丹左衛門は

俊寛も許されたことを告げ、三人が船に乗ること

を許されていると語る。

 

 俊寛・康頼・成経の三人が千鳥と乗船しようと

すると意地の悪い瀬尾は、乗船を許可されてい

るのは三人と高圧的に述べて、成経と恋仲でも

千鳥の乗船を冷たく拒絶し、俊寛には彼の妻

東屋が清盛の横恋慕を拒絶して亡くなったこと

を聞かせる。

 

 愛する妻に死なれ、都に帰っても生きる喜びが

見出せるかどうか疑問に思った俊寛は、執拗な

いじめを為す瀬尾を斬殺し、その罪を受けて島

に残り、自分の代わりに千鳥を船に乗せてやる

ように丹左衛門に依頼する。

 

 自身のいのちを擲って、恋人達の愛を成就しよ

うとする俊寛の優しさを謳った傑作歌舞伎である。

 

 二代目中村吉右衛門の俊寛は暖かくて大きい。

恋仲になった成経・千鳥を見守る父性の優しさ

が印象的だ。

 意地悪な瀬尾から赦免に名前がないことを知

らされ、帰れない悲しみから「ない!」と叫ぶ場は

痛ましさが鋭く表現されていた。観客の心も切な

さでいっぱいになる。

 

 瀬尾から最愛の妻東屋が亡くなったことを聞か

され、重い苦しみと深い悲しみに懊悩し沈みこみ

激しく嘆く演技も凄まじかった。

 

 最愛の妻を失った俊寛は、野生的で純な娘千鳥

に娘を思うに似た親心を感じ、何とか彼女の恋心を

成就させてあげたいと思い、自己を犠牲にする決意

を固める。

 勿論、妻を失った俊寛が千鳥に思慕を感じて、愛

するひとの思いの成就の為に、自己を犠牲にしたと

いう解釈も成り立つだろう。

 

 吉右衛門の俊寛は、二つの意見のいずれもを包

み取る大きさと深さがある。

 

 「俊寛が乗るは弘誓の船」

 

 「弘誓の船(ぐぜいのふね)」における「弘誓」とは、

『仏説無量寿経』に説かれる法蔵菩薩の四十八願

のことである。

 

 法蔵と名のる比丘は、全ての衆生を苦しみから解

放することを願って思惟して、沢山の国土を見聞す

る。

 全ての衆生が苦悩から開放されることを願う四十

八の願いに覚醒した法蔵は、その願いを成就し、全

ての衆生が平等に生まれる国を選び取って、無量

寿仏という仏に成ったと、世尊は阿難に教説される。

 

 無量寿仏とは阿弥陀仏のことで、その国とは浄土

である。苦悩の海を越えていくのが、四十八の弘き

誓いの船である。

 

 即ち、実在の国としてどこかに浄土があるという

ことではなくて、苦悩の中で、弘き誓いの船に乗っ

て、生活の中に「浄土」を確かめていく道である。

 

 四十八の誓いを集約し成就した行(方法)が、南無

阿弥陀仏を称えることである。

 

 「南無阿弥陀仏を称えれば何かいいことがある」訳

ではない。

 俊寛が身を捨てて示したように、生活の場は流刑の

地にあって、ただ一人の淋しさの中で、仏が誓う船に

乗って、苦しみを生きる場として行くことである。

 

 

 

 近松門左衛門がいかに深く『仏説無量寿経』を深く

読み込んでいたかが窺えるのである。

 

 

 吉右衛門の俊寛は、法蔵比丘の誓いに覚醒した生き

方を証してくれた。

 

 弘き誓いに目覚めたからっこそ、大詰めの「思いきっ

ても凡夫心」が鋭く響き、赦免船を見て湧き立つ淋しさ

が迫り「待ってくれ!」の悲痛さがしみじみと伝わって

くる。

 

 

 願いに目覚めれば目覚める程、悲しい時は悲しいし、

辛い時は辛いことが身にしみてくるのである。

 

 俊寛はラストで赦免船を見つめて未練いっぱいに

嘆く。

 

 しかし、それは絶望ではない。自己を犠牲にして、更に

出てくる望郷の気持ち。そこに人間・生物の最も根本的

な生き方がある。

 

 無量の苦しみを背負って生きる生き方において、衆生

は自己を発見する。 

 

 悲しみと痛みを背負って生きる。

 

 

 海女千鳥に中村芝雀。千鳥は強く逞しい。

可愛くて無垢な存在でもある。成経の恋心

に一途さが光っていた俊寛の暖かさに感謝

する真心にも感動した。


 

 成経を中村歌昇が勤める。まっすぐでひたむ

きな芸風が印象的だ。成経の繊細さを鮮やか

に明かしていた。

 

 康頼を勤めるのは吉之助である。流人の暮

らしの厳しさをじっと耐えているところが印

象的だった。誠実な芸に心を打たれた。


 

 丹左衛門尉を二代目中村錦之助が勤める。

情があって暖かい心が風情豊かに表現され

ていた。役人としての厳しさを保ちつつ、俊

寛の苦悩を思う気持ちが見どころになる。

 じっと抑えて、落ち着いたムードの中に、秘

めたる優しさが要求される役だが、錦之助は

豊かな歌舞伎味で、見事に課題に応えた。


 

 歌六の瀬尾は傑作で圧巻であった。憎た

らしさと嫌らしさがネチネチと粘り強く表現さ

れていた。俊寛を執拗に苛め抜く執念深さが

圧倒的だった。


 

 はとこの吉右衛門とは六歳違いで、芸の

兄弟のような関係であると思う。二人の激突

に演技合戦の火花の凄まじさを感じた。

 

 吉右衛門の俊寛は、刀をついて顎鬚を引

いて決める「関羽の見得」も鮮やかに決めて

いた。ここに俊寛の抵抗のメッセージと性根

の強さが窺える。

 

 播磨屋の至芸に時代物の風格を感じた。

 

 

 二代目中村吉右衛門の至芸は悲しみの人俊

寛役を熱く生きた。

 

 

 『三代目中村又五郎

 四代目中村歌昇

 襲名披露口上』

 

 座頭の二代目中村吉右衛門が秀山祭の

解説と襲名した又五郎・歌昇への激励を

述べた。

 

 初代中村吉右衛門は、二代目中村吉右

衛門にとって養父・外祖父である。初代

への敬意と御師匠の一人であった二代目

中村又五郎への感謝の言葉が印象的だった。

 

 二代目中村又五郎は歌舞伎の生き字引

と言われた名優だった。小柄で目が大きく

て情味のある芝居が巧いひとだった。飄々

とした芸風も光っていた。

 池波正太郎氏が二代目の大ファンであった。

『剣客商売』の秋山小兵衛は、二代目を想定

して書かれている。

 

 三代目又五郎にとっても二代目は尊敬し

ている先輩で、その名跡を継承する栄誉

と責任感を強く確かめていた。

 

 歌昇・種之助の若々しくて清々しい言葉に

意欲を感じた。歌舞伎界にも新しい風が吹

きつつあることを感じた。大ベテランの先輩

達と清新な若手がぶつかり合っていくとこ

ろに芸の発展があることを思った。

 

 片岡愛之助は綺麗だった。歌昇への激励

も素敵だった。

 

 翫雀は、昭和五十六年の歌昇襲名の際に

も、三代目又五郎が『船弁慶』を踊ったことを

確かめ、その舞台に圧倒されたことを語り、

又五郎襲名の舞台で弁慶を勤める幸せを

強調していた。


 

 二代目中村錦之助は親戚の一人として

襲名への喜びを述べる。


 

 又五郎の兄歌六は、母上が京都人であった

ことを確かめ南座での秀山祭への情熱を語

っていた。

 

 三代目中村又五郎の言葉には熱意が溢

れていた。

 

『船弁慶』

作        河竹黙阿弥


静御前      中村又五郎

平知盛の霊   中村又五郎

 

源義経      片岡愛之助

舟子岩作     中村歌昇

舟子浪蔵     中村壱太郎

亀井六郎     大谷桂三

片岡八郎     中村種之助

伊勢三郎     中村隼人

武蔵坊弁慶    中村翫雀

 

舟長三保太夫  中村吉右衛門


 

 又五郎の襲名披露狂言は松羽目

物の狂言『船弁慶』である。前シテ

の静御前と後シテの平知盛を又五郎

が勤める。

 

 静御前は、義経との別れの悲しみ

が深く迫った。

 

 愛之助の義経も気品が豊かで、兄

に追われる武将の悲しみがあった。

 

 翫雀の弁慶も存在感が豊かだ。

松羽目物で航海中のムードが出る

のは流石だ。

 

 中村吉右衛門の舟長はご馳走で舞台

を引き締める。

 

 後シテの知盛の霊を又五郎が熱く勤め

た。漲る気迫と凄まじい迫力で観客に

緊張感を与える。

 長刀を振り回しながらの引っ込みは

歌舞伎舞踊の凄さを明かすものでもあ

る。

 

 ハードなアクションだが、客席に迷惑

をかけないのは流石だ。歌舞伎俳優は

責任感が豊かで演劇人としての自覚を

持ってくれている。

 

 中村又五郎が平知盛を熱演する。

 

 平成二年(1990年)十二月祇園甲部歌

舞練場公演『船弁慶』における五代目中村

富十郎の平知盛を客席で見た緊張を想起し

た。


 

 現代歌舞伎の舞踊の傑作群の中でも

特に光る名演であろう。

 

 ◎

 秀山祭三月大歌舞伎於南座からもうすぐ

十二年である。

 

 最近の松竹歌舞伎は時代物・義太夫狂言を

上演せず、話題喚起の漫画・アニメの舞台化

に執着している。

 

 松竹歌舞伎は時代物・義太夫狂言に帰ると

いう課題を思い出して欲しい。

 

 二代目中村吉右衛門の芸魂は現代歌舞伎を

見つめているだろう。

 

 偉大なる播磨屋の芸を現代歌舞伎若手俳優

に継いで欲しい。

 

 尾上右近と中村壱太郎の南座三月歌舞伎公演

『曾根崎心中』が歌舞伎古典復活の契機になる

ことを祈っている。

 

 二代目中村吉右衛門に会いたい。

                        

              文中一部敬称略

 

                 合掌


 

 

                南無阿弥陀仏


 

                  セブン