浮雲
平成二十二年(2010年)十二月二十八日、八
十六歳で死去した。
無声時代から映画に出演し、トーキー時代に
大スタアとなり、カラーに至るまで日本映画史
を支えた。
しかし、本人にとって女優は不本意な仕事で
あったという。日本芸能界のトップスタア・名
優という名声に固執しなかったようでもある。
エッセイは気さくな文で綴られた。鋭くてピ
リッと辛い言葉が記された。
名演を銀幕やブラウン管や舞台に残したが、自
ら誇らず威張らない。
大女優中の大女優であった。
三十一歳で勤めた幸田ゆき子は高峰秀子名演の
中でも燦然と輝く当たり役と確信している。
富岡兼吉を愛し尽くすが不実な彼に裏切られる。
冷たくされて傷つき悲しむが、兼吉を受け入れ全て
を許し屋久島でやり直そうとする。その再起の時
にゆき子の身体は病魔に犯されていた
暖かい愛でゆき子は兼吉を包むが、プレイボーイ
で女遊びが止められない兼吉はどうしても浮気をし
てしまう。心は傷ついてもゆき子は兼吉を許し包摂
する。
森雅之は明治四十四年(1911年)一月十三日
北海道に誕生した。本名は有島行光である。父は
有島武郎、叔父は里見弴である。深く繊細な演技
で二枚目名優として存在感を発揮した。
昭和四十八年(1973年)十月七日、六十二歳
で死去した。
知的な雰囲気と上品な香気で銀幕に男の色気を
匂わせた。
四十四歳で演じた富岡兼吉は大名優森雅之の代
表作と明言したい。
妻邦子と愛人ゆき子がいる。ゆき子との不倫に
全てをかけるかと思いきや、浮気を止められない。
歩きながら若き美女おせいにキスするシーンに森
雅之の色気を感じた。
プレイボーイで不実で冷たい男。そんな兼吉を、
ゆき子・邦子・おせいは愛してしまう。
しわがれた声と気品豊かな微笑みが強烈な印象
を与えてくれる。
岡田茉莉子は昭和八年(1933年)一月十一日
東京府に誕生した。出生名は田中鞠子、結婚後
の本名は吉田鞠子である。
父は俳優岡田時彦である。二十二歳で悲劇の美
女おせいを演じた。
一昨日令和六年(2024年)一月十一日に九十
一歳になられた。
中年男清吉が嫉妬に狂って若く美しい妻おせい
を殺してしまうエピソードは、ウィリアム・シェ
イクスピアの戯曲『オセロー』を想起させる。オ
セローは嫉妬に狂い不貞をしていない妻デズデモ
ーナが不貞をしたと勘違いして殺してしまう。実
際に浮気をしてしまったおせいとはシチュエーシ
ョンが違ってはいる。だが、オセロと清吉の中年
男嫉妬は通じるものを感じる。
加東大介はこの後も成瀬巳喜男シャシンで嫉妬
深い男を当たり役にする。
森雅之は昭和三十五年(1960年)六月に産経
ホール公演『オセロー』において悪の天才イアー
ゴーを演じる。この公演は記録映像が残っていて、
NHKBSで放送され、わたくしは視聴した。森雅
之はイアーゴーの冷酷さと残忍さを深く探求した。
昭和三十年(1955年)に森雅之が演じた富岡
兼吉は弱い男だが女性を愛する男である。愛した
女性の人生に悲劇を齎してしまうところに兼吉の
悲しい道があるとも言えそうだ。
成瀬巳喜男(なるせ・みきお)は明治三十八
年(1905年)八月二十日、東京府四谷に誕生し
た。男女の愛の物語を探求し数々の傑作を発表
した。
昭和四十四年(1969年)七月二日、六十三歳
で死去した。
水木洋子(みずき・ようこ)は明治四十三年(1
910年)八月二十五日に誕生した。本名は高木富子
である。
平成十五年(2003年)四月八日、九十二歳で死
去した。
女性の哀しみを深く見つめ探求した物語を描いた
巨星脚本家である。『浮雲』シナリオは女性でない
と書けないなと痛感する。
同時に水木洋子は男の性欲の強さや気の弱さと言
う事も熟知していた事を感じる。
水木洋子の緻密なシナリオを、成瀬巳喜男が
繊細に映像化した。
クライマックスにおいて病と闘うゆき子は浮気
を続け遊びを止められない兼吉の在り方に苦労し
ていることをしみじみと語る。
「当たり前じゃないか!女は何も君一人じゃ
ない。」
水木洋子の台詞が凄い。
笑顔で爽やかに語る森雅之の台詞が強烈である。
最もゆき子を傷つける言葉を軽々と明るく語る。
富岡兼吉の冷酷で怖い性格がこの台詞に凝縮され
ている。
しかし、非情のモテモテ男兼吉は優しいゆき子の
支え無しでは自分が歩めないこともよく熟知してい
る。
クライマックスで兼吉は最も大切な存在がゆき子
であったことに気付く。
切なさが迫ってくるのだが、水木洋子脚本と成瀬
巳喜男演出は、「切ない」という感覚を観客の心に
呼び起こす。
日本・亜細亜・世界の映画の歴史に輝く永遠不滅
の大傑作である。
成瀬巳喜男が探求した哀の感覚は、観客を震わせ
緊張させる。
高峰秀子と森雅之は、悲しくも愛おしい心を銀幕
に咲かせた。
合掌