千利休 本覺坊遺文 | 俺の命はウルトラ・アイ

千利休 本覺坊遺文

『千利休 本覺坊遺文』

映画 トーキー 107分 カラー

平成元年(1989年)十月七日封切

製作国 日本

製作言語 日本語

製作会社 西友

配給   東宝

製作   山口一信

製作総指揮 高丘季昭

 

原作 井上靖(『本覺坊遺文』)

脚本 依田義賢

 

 

音楽 松村偵三

撮影 栃沢松夫

編集 井上治

照明 岩木保夫

美術 木村威夫

録音 久保田幸男

編集 井上治

生花 川瀬敏郎

助監督 原一男

製作補 大場正弘

指導・考証 井上靖

      小松茂美

      熊倉功夫

      戸田宗安

題字 福沢一郎

後援 表千家

   裏千家

   武者小路千家

 

出演

 

奥田瑛二(本覺坊)

 

萬屋錦之介(織田有楽斎)

 

芦田伸介(太閤秀吉)

 

 

上條恒彦(山上宗二)

内藤武敏(東陽坊)

東野英治郎(古渓)

 

 

川野太郎(千宗旦)

牟田悌三(大徳屋)

有馬昌彦(春屋和尚)

今井耕二(細川三斎)

岩下浩(石田三成)

 

 

長塚美登(前田玄以)

小林功(織田信長)

真実一路(松井佐渡)

小池栄(玉甫)

熊田正晴(徳川家康)

 

福田勝洋(増田長盛)

寺島秀幸(織部の小姓)

竹田寿郎(織部の介錯人)

星野晃(検使)

出水憲司(庭師の頭)

須藤信幸(門弟の若者)

木村雅英(戦国武将)

岩下正典(戦国武将)

石田弘一(戦国武将)

森岡隆見(戦国武将)

佐藤宏介(建仁寺の小姓)

世古陽丸(大徳寺の使い)

小林竜次(大徳寺の使い)

歌澤寅右衛門(侍医)

 

 

加藤剛(古田織部)

 

三船敏郎(千利休)

 

 

監督 熊井啓

 

小川錦一=初代中村錦之助=小川矜一郎

      →初代萬屋錦之介

 

封切日平成元年(1989年)十月七日

京都市内映画館、恐らくは京都宝塚で

鑑賞したと記憶している。

 本覺坊は山深い庵において暮らしていた。

師千利休の位牌を拝み、亡き師に報告する

日々を静かに送っている。

 

 織田信長の弟有楽斎長益が本覺坊を尋ね

てきた。

 千利休切腹の真相を有楽斎は追っている。

愛弟子であった本覺坊に利休切腹事件につ

いて聞き問う。本覺坊もわからない事柄が

多かった。

 

 天正十六年(1588年)の茶会を本覺坊は

想起する。

 

 秀吉に怒られ流刑に遭った僧を招いた利休

は、秀吉から預かった掛け軸をかけてもてな

した。

 

 有楽斎は切腹した山上宗二の著書の写しを

借りに本覺坊を尋ねる。宗二は秀吉の茶頭で

あったが、身を寄せていた北条氏が秀吉に倒

され、囚われの身となり秀吉の為に点前を披露

させられ、秀吉を罵倒する。

 「秀吉を馬鹿にするのか?」と天下人は怒

った。宗二は切腹して果てた。

 

 本覺坊は利休の命日に墓に参り有楽斎と出会

った。有楽斎は友古田織部を思った。本覺坊は

慶長十五年(1610年)織部に出会ったことを

告げた。

 

 関ヶ原の戦いの後に織部は豊臣方に組した

嫌疑をかけられ切腹した。織部は助命を頼ま

なかった。有楽斎は利休・宗二・織部の三者

が死の盟約を交わしたと語る。

 

 元和七年(1622年)有楽斎は重い病に罹っ

た。本覺坊が尋ね、夢中に師利休の言葉を聞

いたことを告げた。

 

 天正十九年(1591年)二日後に切腹が決ま

っていた利休は京において徳川家康に出会い、

家康より死ぬことはないと諭されたが、死を

賜って侘びを会得したと利休は心境を語った

という。

 

 利休の覚醒に有楽斎は、彼の切腹の心境を

思い、切腹の仕種を幻の刀で為して死亡する。

 

 本覺坊は庵に戻り茶人の道を歩む。

 

 ◎弟子・友が師の心を尋ねる◎

 

 奥田瑛二は昭和二十五年(1950年)三月十八

日に愛知県において誕生した。三十九歳で主人

公本覺坊を繊細に勤めた。俳優として大活躍す

るとともに声優・ナレーター・画家・映画監督

として幅広く活動している。

 

 

 初代中村錦之助は昭和七年(1932年)十一月

二十日東京府に三代目中村時蔵・小川ひな夫妻

の息子として誕生する。

 本名は小川錦一である。昭和十一年(1936年)

十一月初代中村錦之助の芸名で初舞台を踏む。

 昭和二十八年(1953年)十一月十五日に『鬼一

法眼三略巻』における虎蔵実は牛若丸を勤めた

後、映画俳優に転身する。

 時代劇映画を中心に出演する錦之助は大ス

タアとなる。

 昭和四十六年(1971年)十月歌舞伎座公演

で屋号を萬屋に改める。

 昭和四十七年(1972年)芸名を初代萬屋

錦之介に改めた。

 

 五十七歳で織田有楽斎を迫力豊かな芸で勤

めた。

 数々の映像作品・舞台公演で錦之介は織田

信長を演じた。昭和・二十世紀の織田信長役者

であった。

 

 織田信長の弟有楽斎を錦之介が演じることに

縁を感じた。

 有楽斎役は萬屋錦之介にとって映画の遺作と

なった。

 平成九年(1997年)三月十日六十四歳で死

去した。

 

 

 

 芦田伸介は大正六年(1917年)三月十四日に

誕生した。本名は蘆田義道である。

 満映で俳優として活動した。迫力豊かな芸で

日本映画の歴史に強烈な印象を残した。七十二

歳で独裁者的天下人太閤秀吉を演じた。その凄み

に観客は震えた。

 平成十一年(1999年)一月九日、芦田伸介は

八十一歳で死去した。

 

 

 加藤剛は昭和十三年(1938年)二月四日に誕

生した。

 平成三十年(2018年)六月十八日に八十歳で

死去した。

 五十一歳で茶道を尊び、師利休に続こうとする

織部を厳かな芸で勤めた。

 

 

 三船敏郎は大正九年(1920年)四月一日に

誕生した。 

 平成九年(1997年)十二月二十四日、七十

四歳で死去した。

 野獣の迫力で世界映画の歴史に存在感を示

したスタアであり、「世界の三船」と呼ばれ

た。

 六十九歳で千利休を重厚に演じた。

 

 依田義賢は明治四十二年(1909年)四月十四日

に京都府京都市に生まれた。京都市立第二商業学校

を経て銀行員として勤務した後、昭和五年(1930

年)日活太秦撮影所に入り、脚本を書いた。

 昭和十一年(1936年)第一映画に入り溝口健二の

指導を受けた。溝口健二の厳しい指導を受けつつ健二

作品のシナリオライターとして大活躍し日本映画の

歴史を牽引した。

 平成三年(1991年)十一月十四日に八十二歳で

死去した。

 

 熊井啓は昭和五年(1930年)六月一日長野県に

誕生した。

 平成十九年(2007年)五月二十三日、七十六歳

で死去した。

 社会派の映画人として活躍し反戦平和の名画を

数多く発表した。

 妻熊井明子はウィリアム・シェイクスピアの研

究者である。

 『千利休 本覺坊遺文』は熊井啓にとって、五

十九歳の監督作品である。

 

 老いた本覺坊を織田有楽斎が尋ね、偉大な茶人

千利休が何故切腹したかという事件を尋ねる。

 有楽斎は「石田治部の讒言」を理由の一つとし

て挙げ、秀吉の重臣石田三成から讒言されて利休

は太閤から死を賜ったのだろうと見る。本覺坊は

師匠利休の生前の道を想い起こす。

 

 利休切腹事件をミステリードラマのような形で

追う。本覺坊と有楽斎は謎を尋ねる存在として登

場する。

 

 生前の利休のドラマと事件を追う本覺坊・有

楽斎のドラマが同時進行形式で語られる。

 

 秀吉は暴君・独裁者として描かれる。

 

 三成も讒言・誹謗を為した大名として登場し

た。

 

 有楽斎が重篤になり、本覺坊は師利休の切腹

の心境を語る。

 侘びの心境に目覚めた利休は、全てを受け入

れ、対立していた秀吉や三成は勿論の事戦国武

将達を心に包みこんでいた。

 利休が目覚めた崇高な侘びの心を想い、有楽

斎は幻の刀で切腹の仕種を為して命を終える。

 

 伊藤大輔監督作品『反逆児』大詰で徳川信康

の壮絶な切腹を初代中村錦之助時代の初代萬屋

錦之助は熱演した。

 深作欣二監督作品『赤穂城断絶』において大

石内蔵助良雄の切腹を萬屋錦之介は演じきった。

 熊井啓監督作品『千利休 本覺坊遺文』で織

田有楽斎の切腹仕種を熱く演じる錦之介の芸に

震えた。

 

 萬屋錦之介の映画芸道において切腹場面は重

い。痛ましい自決・自殺の場面だが、最期に命

の全てを燃やすことが描かれていた。

 

 織田有楽斎の幻の切腹は本作の山場になって

おり、壮絶でありつつ、尊敬する茶人への敬意

の表明を示すものとなっている。

 

 萬屋錦之介の渾身の芸に圧倒された。

 

 三船敏郎は全てを甘受する純粋な茶人千利休

を厳かに静かな芸で演じた。

 

                   合掌