元禄美少年記(五) | 俺の命はウルトラ・アイ

元禄美少年記(五)

『元禄美少年記』

映画 トーキー 白黒 108分

昭和三十年(1955年)十二月二十一日公開

製作国 日本

製作   松竹京都

 

脚本  八尋不二

音楽  深井史郎

撮影  長岡博之

美術  水谷浩

録音  奥村泰三

照明  蒲原正二郎

 

出演

 

中村賀津雄(矢頭右衛門七)

 

雪代敬子(シノ)

片山明彦(佐野正平)

 

三井弘次(矢頭長助)

市川春代(矢頭たか)

 

 

淡路恵子(きぬ)

諸角啓二郎(新見弥七郎)

石黒達也(山岡宗人)

 

武田正純(吉田忠左衛門)

藤間林太郎(村松三太夫)

北沢彪(神崎与五郎)

永田光男(前原伊助)

佐竹明夫(間十次郎)

 

多々良純(寺坂吉右衛門)

柳永二郎(大石内蔵助)

 

 

監督 伊藤大輔

 

小川加沙雄=中村賀津雄

      =初代中村賀津雄→中村嘉葎雄

鑑賞日時場所

平成十九年(2007年)二月三日

京都文化博物館 映像ホール

 

令和二年(2020年)十一月十三日 

京都文化博物館フィルムシアター

 

令和四年(2022年)十二月二十日

京都文化博物館 フィルムシアター

平成三十年(2018年)四月二十三日・

令和二年(2020年)七月十八日・

令和三年(2021年)十月十三日発表記事・

令和四年(2022年)十二月二十一日発表記事

を再編している

  元禄十六年二月三日(1703年3月20日)

矢頭右衛門七教兼は、切腹の時を静かに

待っていた。名を呼び出された同志は従

容と切腹の座に向かい、右衛門七は深く

一礼する。

 

 庭が映る。

 

 右衛門七は自身の道を回想する。

 

 元禄十四年三月十四日(1701年4月21日)

戸城において浅野長矩は吉良義央に刃傷

に及び、即日幕府より切腹を命じられ自刃

して果てた。

 

 内匠頭領地赤穂では、右衛門七は、兄の

ように慕っている佐野正平と塩田の仕事に励

んでいた。主君浅野長矩自刃の悲報が届き、

赤穂の武士達は主君の無念を晴らさんとする

武士達が復讐の挙に出んとして、内面に炎を

燃やしていた。

 少年矢頭右衛門七は討入りに加わりたい

と願っている。彼の父長助は病身で臥せって

いた。

 

 討入りを企てる浪士の頭領は家老大石内蔵

助良雄であった。

 右衛門七は雨に打たれながら、内蔵助にご

子息主税殿は少年で御供が叶い、身分の軽い

自身が入れぬのはおかしいですと参加を熱く嘆

願する。

 

 長助は妻タカを「馬鹿」と罵り虐待しているが、

「酒が飲みたい」と買いに行かせて、その間に

自害する。

 

 タカと右衛門七は長助を亡くした悲しみを確か

め合う。右衛門七が江戸に行くことは一生の別れ

を示す。笑われても構わんから、お前と一生共に

居たいと母性を語り、右衛門七の胸は熱くなる。

 右衛門七は茶道の師匠宗入とその美しい姪シ

ノと出会う。シノと右衛門七は一目惚れで惹かれ

合う。

 

 

 寺坂吉右衛門・佐野正平と共に仇討一党に加

えられた右衛門七であったが、浪士間に厳しい

階級差別があり苦悩する。吉良邸の様子を探り、

吉良家の警護の侍新見に追われた右衛門七と

佐野は何とか逃げるが、命がけの働きを同志達

から叱責され悲しむ。

 

 佐野は女絹と恋におちて、仇討の義よりも恋愛

を重視する。

 

 右衛門七に、母タカからの手紙と餅が届き、彼

の胸を熱くする。

 

 母が織物を織る光景が右衛門七の心に映る。

 

 元禄十五年十二月十四日(1703年1月30日)、

大石内蔵助を頭領とする赤穂浪士は吉良義央邸に

討ち入る。討ち入る同志達を見やりつつ、裏門の

前で警備・立哨を命じられ、右衛門七は悲しむ。

 

 乱戦になり、赤穂浪士は吉良の侍を討つが、上

野介が見つからず焦り、朝が近付く。上野介探索

を右衛門七も命じられた。

 

 右衛門七は協力してくれたシノが、吉良家家臣

新見の刃を受けたことに怒り、彼と戦いこれを斬

る。シノは自身の傷など気にせず、吉良さまをと

上野介の居場所を教えてくれる。

 

 炭部屋に潜む上野介は赤穂浪士に斬殺され、浪士

は本懐を遂げた。

 

 元禄十六年二月三日右衛門七は切腹を命じられ

たが、シノの鼓の音を聞き無事を知り感激し、父長

助と最愛の母タカと恋するシノを想い、笑顔で従容と

切腹の座に着く。

 

  ☆伊藤大輔が深く愛した矢頭右衛門七物語☆

    

 伊藤大輔は明治三十一年(1898年)十月十三日

愛媛県宇和島市元結掛に生まれた。

 

 伊藤大輔 寿栄母上

 父は伊藤朔七郎、母は伊藤寿栄である。父朔七

朗松山中学の教員であった。父の仕事の影響で幼

年期の大輔は四国内を転々として愛媛県温泉群坂

本村の親戚の寺院に暮らした。

 

伊藤大輔 少年期

 後に大輔が撮る映画の中で幼児達が漢籍・漢文

を素読するシーンがあるが、こうした場面には大輔

自身の幼少時代の学習が背景にあると見れるだろ

う。

 

 大正元年(1912年)大輔は松山中学に進学し、文

学に熱中し伊藤葭(いとう・よし)の筆名で投稿を始

める。

 大正三年(1914年)九月十日発行『保恵会雑誌』に

本名伊藤大輔の名で投稿した『夏休みの一と日』が

掲載された。

 昭和五十一年(1976年)四月十日キネマ旬報社

発行『時代劇映画の詩と真実』に全文が再掲載さ

れた。

 

 この文章が後に演劇・映画・随筆・テレビ・

ラジオに広がる伊藤大輔作品の最初の活動と

位置付けられよう。

 

 大正六年(1917年)大輔は松山中学を卒業した。

父朔七朗が死去した。大輔は地方新聞の記者を

経て呉の海軍工廠に勤務し、マクシム・ゴーリキー

の戯曲『どん底』を上演し、俳優としてワシカ・ペペ

ル役を勤めた。

 内村鑑三の紹介で小山内薫と出会う。生涯の師

と崇拝する小山内に自作の戯曲を送り添削指導を

受けた。

 

 大正九年(1920年)海軍工廠の労働組合組織の

問題で退職となり、小山内薫の勧めで上京し松竹

キネマ俳優学校に学ぶ。師匠小山内薫の推挙で

活動大写真脚本『新生』を書く。

 『新生』は小谷ヘンリー監督、伊藤大輔脚本作品と

して同年十一二十四日明治座で上映された。松竹

脚本家として数多くのシナリオを執筆する。

 大正十二年(1923年)七月一日公開『女と海賊』

の脚本を大輔は書き、「新時代劇映画」と名付けた。

 この時期の無声映画は女役を女形の男優が勤め

ていたが、大輔は女優を起用して欲しいと松竹に提

案した。作品は興行的に成功した。これ以後「旧劇」

と呼ばれていた「現代より昔の物語」の活動大写真

を、「新時代劇映画」で呼ぶようになるが、次第に

「新」と「映画」が取れて、「時代劇」と呼ばれて

行く。この「時代劇」の言葉は、後に演劇・テレビ

ドラマ・ラジオドラマにも普及する。

 

 大正十三年(1924年)五月一日帝国キネマ芦屋製

作・伊藤大輔第一回監督作品『酒中日記』が公開さ

れた。

 これ以降数々の時代劇映画を演出する。残念ながら

伊藤大輔脚本・監督の無声映画は昭和六年(1931年)

十二月三十一日公開、製作日活太秦の『御誂次郎吉

格子』(『御誂治郎吉格子』)一本のみほぼ完全な形で

残っているという保存状況である。

 

 『幕末剣史 長恨』十五分・『忠次旅日記』百十一分

・『血煙 高田の馬場』六分・『一殺多生剣』三十分・『斬

人斬馬剣』二十六分という不完全版のみ現存している

が、不完全であっても残存部分の映像は生命力は溢れ

ている。

 

 トーキー時代においても大輔は数多くの傑作時代劇

映画を演出し、「時代劇の父」と呼ばれた。

 

 昭和三十年(1955年)伊藤大輔は四本監督作品を発

表した。同年十二月二十一日公開『元禄美少年記』は

大輔にとって満年齢五十七歳の作品である。

 

   この数年間で一番好きな写真です。四十七士の

   中から、いざという時になって、脱落した者があり

   ました。その中で、侍になっていない者は寺坂吉

   右衛門だけです。映画では、この寺坂を同輩三人

   に置き換えて、少年、青年、老年に分けました。この

   中に二人が脱落して右衛門七だけが討ち入りに

   加わるのです。義士と言われるものでさえ、軽輩に

   対する差別があったーそれを出すのが狙いでした。

   (『伊藤大輔シナリオ集』第二巻 344頁

    「自作を語る」 昭和六十年七月二十五日発行

    淡交社)

 

 『元禄美少年記』は、伊藤大輔自身にとって、「ここ数年

間で一番好きな写真」で「戦後最も印象に残っている」写

真として確かめられている。自作に厳しい大輔が「ここ数

年間で一番好き」と惚れ込んだ心を語ってくれたことは珍

しいもので、熱眼熱手の人大輔が燃やした情熱は完成し

たフィルムに燃えている。

 

 寺坂吉右衛門の切腹脱落に注目し、少年・青年・老年

に分けて、右衛門七・佐野・寺坂の浪士間差別の苦悩を

尋ねる。

 

 中村賀津雄は昭和十三年(1938年)四月二十三日に

三代目中村時蔵と小川ひなの五男として誕生した。本

名は小川加沙雄である。

 二代目中村歌昇(四代目中村歌六)・四代目中村時

蔵・初代中村獅童・初代中村錦之助後の初代萬屋錦

之介は兄である。

 昭和十八年(1943年)九月歌舞伎座公演『取替べい』

において中村賀津雄の芸名で初舞台を踏む。

 兄錦之助に続いて映画の世界に入り、昭和三十年(1

955年)松竹製作『振袖剣法』で銀幕デビューを為した。

 十七歳で巨匠伊藤大輔監督作品『元禄美少年記』に

主演し、主人公矢頭右衛門七の悲しみを繊細に表した。

 少年時代から大名優であった事が窺える。右衛門七

役における苦悩の探求は深い。

 

 八尋不二は明治三十七年(1904年)七月十八日に誕

生した。脚本家として繊細な傑作を書いた。

 親友伊藤大輔を支えた名ライターである。昭和六十一

年(1986年)十一月九日に八十二歳で死去した。

 

 本作のタイトルが、インターネットで『元禄美少年録』

なっている表記があるが、これは誤りである。

 

 日本語表記感覚に気を遣った伊藤大輔が、「ゲン

ロクビショウネンロク」といった語呂の調子が良く

ないタイトルを付ける筈がない。

 

 

 『元禄美少年記』(ゲンロクビショウネンキ)が

この活動大写真の題名である。

 

 矢頭右衛門七が純粋な忠義に燃えて仇討の挙に

加わるが厳しい身分差別を受けて苦悩し、シノとの

恋に女性の優しさを感じ、母タカの母性愛に感謝し

ながら仇討の挙で活躍する。

 

 市川春代が母タカの優しさを豊かな母性で明かす。

 

 雪代敬子のシノは可憐で美しい。

 

 シノの役名は『四十八人目』において山田五十鈴

が勤めたヒロインおしのに通じる。

 

 仇討までは身分の違いで迫害を受けたが、罰だけ

は高低上下一切関わりなく死刑である切腹を命じら

れる。

 

 伊藤大輔の着眼はこのことへの悲しみであった。

 

   右エ「これまであなた方は私をー私たちをどんな

      眼で見てこられました?同じ同志でありな

      がら、生まれが違う、育ちが違うと、まるで」

 

   間「右衛門七!」

 

   右エ「まるで犬猫同様に扱ってこられたじゃありま

      せんか!そんな人たちと一緒に死ぬのは嫌

      です」

 

( 『伊藤大輔シナリオ集Ⅱ』207頁)

 

 脚本には右衛門七が平等の切腹に怒るシーンがあり、

伊藤はここに主題を集約したが、二本立て興行を進める

松竹は、右衛門七の抗議の台詞をカットした。

 

 

 現存版にはこのシーンが無い。伊藤大輔は「骨抜きに

なった」と悲しんだ。

 

 しかし、この訴えの言葉は無いものの、現存版は差別

と戦って散る美少年の悲嘆を描いた大傑作である。

 

 

 

 ラストにおいて矢頭右衛門七は、シノの鼓を聞き、討

ち入りで負傷した彼女が無事で自身の死に心を伝え

てくれている事に深謝する。

 

 自刃する身だが、母タカとシノの無事と幸を祈り悠

々と切腹の座に向かう。「母以外にも愛してくれる人

がいた」事を右衛門七は確かめて笑顔になり幸を感じ

る。

 

 切腹直前に於いて右衛門七はタカの母性愛とシノの

愛に感謝し、命の喜びを感じる。死が迫る瞬間に母と

シノの無償の愛に深謝する。

 

 伊藤大輔にとって、矢頭右衛門七が浪士間差別を悲

しむ言葉を削除されたことは悲しい出来事であった。

 恐らくは十七歳中村賀津雄の名演も深く重いもので

あったろう。クライマックスの抗議の悲嘆が痛切である

からこそ、ラストの女性達への愛への感謝が染みわた

る流れになったことは想像しうる。

 

 

 死刑だけは平等という冷厳さに切なさがこみあげて

くる。

 

 片山明彦が熱演した佐野は『四十八人目』において

しの・安坊との家族愛に生きた小平太を継承する人物

である。

 

 『幕末』感想文において、近藤長次郎が仲間達から

迫害され、切腹を強いられるシーンに『元禄美少年記』

でカットされた場面への追想を想像したことを書いた。

 近藤長次郎役の中村賀津雄にとっても、『元禄美少

年記』矢頭右衛門七役で削除された抗議の場面を想

い起すものがあったのではなかろうか?

 

 『元禄美少年記』は復讐の挙で差別を受け切腹のみ

平等であることに抗議するが、女性達の愛に命の喜

びを見出すことに右衛門七物語の光がある。

 

 『幕末』の近藤長次郎は朋輩に嫉妬され嬲られ、切

腹に追い込まれ憤死するという悲劇である。

 

 ふたつの悲劇は、一筋の光の発見と残酷悲惨という

両極にあるのだが、共に中村賀津雄後の中村嘉葎雄が

熱演していることに注目したい。

 

 

 

 昭和五十六年(1981年)七月十九日西陣病院にお

いて伊藤大輔は死去した。八十二歳。日本時代劇映

画を生み出し支えた脚本家・監督であった。

 八十二年の生涯において自作に厳しく深い反省を

述べる伊藤大輔だが、本作に関しては、「この数年

間で一番好きな写真」と確かめ愛を語る。

 

 伊藤大輔が自作への愛情を率直に述べることは

稀有である。それだけに監督に編集権が無い状態

で、右衛門七抗議の台詞をカットされた無念は絶大

なものであったことが窺える。

 

 昭和三十年に伊藤大輔は四本の映画を撮った。

充実感いっぱいの年末だったのかなと思いきや、

お怒りの師走だったようだ。

 『キネマ旬報』に『下郎の首』を貶した批評が

掲載された。

 伊藤大輔は『喧嘩を買う』という反論を書き、

酷評批評の勘違いや誤解を凄まじい勢いで糾弾

している。この文を昭和三十年大晦日に書いた

ようだ。『時代劇映画の詩と真実』に「喧嘩を

買う」は収録されている。

 

 敗北の美学を主題にする源になった祖父の

佐幕精神への追想が、大輔自身によって綴ら

れている。

 

 大輔の悲憤は様々な原因があったと思うが

『元禄美少年記』右衛門七の赤穂浪士階級差別

糾弾台詞カット問題が無関係であったとは考え

難い。

 

 『下郎の首』『元禄美少年記』共に永遠不滅の

大傑作である。

 

 

 

 『元禄美少年記』現存版は、監督伊藤大輔にと 

って無念の「骨抜き」となったものの、現存版は 

観客の心に愛の暖かさを伝えてくれるフィルムと

なっている。

 

 令和四年(2022年)十二月二十日、京都文化

博物館において三度目の銀幕鑑賞を為し心は熱く

燃えている。

 

 十七歳の美少年名優中村賀津雄が、矢頭右衛

門七の愛への覚醒を表した。

 

 伊藤大輔と中村賀津雄後の中村嘉葎雄の出会

いは、死の直前に生の喜びを感じる矢頭右衛門

七の物語に生命を吹き込んだ。

 

 

 

 

  

                   合掌

 

                南無阿弥陀仏

 

 

                  セブン