原一男七十八歳誕生日 | 俺の命はウルトラ・アイ

原一男七十八歳誕生日

原一男(はら・かずお)

昭和二十年(1945年)六月八日生まれ。

映画監督

 

 

奥崎謙三(おくざき・けんぞう)

 大正九年(1920年)二月一日兵庫県に

誕生。

 平成十七年(2005年)六月十六日死去。

八十五歳。

 バッテリー商・平和運動家・政治家・神

軍平等兵。

 

 

 昭和十六年(1941年)中支九江工兵隊に

入隊、後に独立工兵第三十六連隊に転属とな

り、ニューギニア戦場に派遣され、その苛酷

な戦闘地域で生き残り、昭和二十一年(1946

年)に復員し、故郷兵庫でサン電池工業所を

自営する。

 

 ニューギニアの戦場で餓死・戦死した戦友

達の無念を悲しみ、戦争の最高責任者であ

り、大日本帝国を統治していた元首であった

裕仁の戦争責任を追求した。

 

 

 昭和三十一年(1956年)四月四日奥崎は不

動産業者延原一夫を刺し、五日延原は死去

した。奥崎は延原一夫を刺殺してしまった事

を深く悔やみ、「天皇に対して力の及ぶことを

して、もっと重い刑罰を受けた方がよかった」

(『ヤマザキ、天皇を撃て』156頁 1987年8月

15日発行 新泉社)と天皇と天皇的なものを

作り出す社会構造を糾弾することを考える。

 

 獄中で謙三は沢山の書籍を読んだが、宗教書は

彼の心を満たさず、ノートに沢山の論文・歌・詩

を書き、「天皇や天皇的なものが多く存在する、

ピラミッド型の構造の現在の社会」(『ヤマザキ、

天皇を撃て』171頁)の変革こそ課題で、それが

戦場で戦死・餓死した戦友達への供養になると

確かめた。

 出所した謙三は自身の課題に向かって進む。

 

   私は、多くの戦友を餓死させ、無数の敵

   味方の人間を殺戮した太平洋戦争は、天

   皇の名を使わなかったならば絶対に行え

   なかったと思いました。いまでさえ、日本人

   には天皇が大きな影響力を持っております

   が、天皇の名は敗戦までの日本人にとっ

   て、神以上の恐ろしい強制力を持っていた

   からであります。

   (『ヤマザキ、天皇を撃て』156‐157頁 

    1987年8月15日発行 新泉社)

 

 昭和四十四年(1969年)一月二日東京のホテル

に宿泊していた奥崎謙三はホテル食堂で朝食を

取り、タクシーで東京駅に向かい、駅から徒歩で

皇居に到着した。

 

   九時半ごろにバルコニー前に着いてから

   三十分程経って、数年間考えつづけた天

   皇の姿が、バルコニーに現れました。天皇

   をはじめて近くで見た私は、舞台の役者の

   ように思いました。

   (『ヤマザキ、天皇を撃て』205頁 

    1987年8月15日発行 新泉社)

 

 奥崎謙三が初めて昭和天皇を見た時の感想は

強烈である。

 「舞台の役者のよう」な存在感があったことを確

かめている。

  

   天皇の姿がバルコニーに現れると、群衆の

   視線と関心は、一斉に天皇に集中しました。

   私は、オーバーのポケットの中で右手で握

   っていたパチンコとパチンコ玉を取り出し、

   群衆の頭越しに、二十数メートル離れた天皇

   に向けて、パチンコ玉を一回に三個発射し

   ました。やっぱり思っていたとおり、天皇に

   パチンコ玉が当たらず、天皇は素知らぬ顔

   をしていました。私がパチンコ玉を一回発射

   しても、私の行為を知って騒ぐ人は誰もなく、

   私は肩すかしを食ったようなもの足りない気

   がしました。私は筋向かいのモーター屋さん

   の主人に予言していたとおり、周囲の人を騒

   がす為に、大声をはりあげて、「おい、山崎!

   天皇をピストルで撃て!」と四、五回繰り返し

   叫びました。

   (『ヤマザキ、天皇を撃て』206頁 

    1987年8月15日発行 新泉社)

 

 奥崎謙三は初めて会った裕仁に向かい、パチンコ

玉を投げたが、玉は当たらず、その狙撃行為も人々

の耳目を引かず、肩透かしの気持ちを覚えた。

 戦死した戦友の名を呼び、「山崎、ピストルで天皇

を撃て!」と叫び、群衆の注目を浴びて、自ら警官に

「行きましょう」と連行してもらうように頼んだ。

 

 裕仁は明治三十四年(1901年)に誕生し、昭和

六十四年(1989年)一月七日に死亡した。八十七年

の彼の生涯において、彼が侵した戦争の責任を面と

向かって直接叱り糾弾した人は奥崎謙三唯一人であ

ろう。

 

 出所後バッテリーの仕事と平和運動をしていた

奥崎謙三に、昭和五十六年(1981年)疾走プロダ

クションの原一男監督と小林佐智子プロデューサー

がドキュメンタリー映画を撮りたいと申し出て、五

十七年(1982年)謙三が同意し撮影が始まった。

 

 この撮影記録は昭和六十二年(1987年)八月一日

映画『ゆきゆきて、神軍』として発表された。

 

 昭和六十二年(1987年)原は奥崎主演作品

『ゆきゆきて、神軍』を発表する。

 

『ゆきゆきて、神軍』

 

映画  122分 トーキー カラー

昭和六十二年(1987年)八月一日公開

製作国    日本

製作    疾走プロダクション

製作    小林佐智子

撮影    原一男

録音    栗林豊彦

 

出演    奥崎謙三

 

       山田吉太郎

       大島英三郎

       原一男

 

       奥崎シズミ

    

監督   原一男

 

昭和六十三年(1988年)二月二十日

ルネサンスホールにてフィルム版鑑賞

 

平成十五年(2003年)七月十二日

シネ・ヌーヴォにてフィルム版鑑賞

 

令和元年(2019年)八月三十一日

京都シネマにてデジタルリマスター版鑑賞

 

 

 昭和五十七年(1982年)神戸の奥崎謙三・シズミ夫妻が営むバッテ

リー商店看板には、謙三自身の達筆の文字で時の天皇裕仁の戦争責

任を問い質し、全人類が平和に生きる道を希求する道が大書されてい

る。

 

  謙三・シズミ夫妻は平和運動家太田垣敏和の結婚式の媒酌人を

勤める。

 媒酌人奥崎謙三の挨拶は凄まじい。謙三・シズミ夫妻の媒酌に

より行われた太田垣敏和夫妻の結婚式は暖かいムードに包まれ、

新郎新婦の門出は出席者により祝福される。

 

 奥崎謙三は独立工兵隊第三十六連隊で生き残った人物だが、

同じ生存者である山田吉太郎元軍曹を見舞う。入院されたこと

は「天罰」という謙三の冷たい言葉にスタッフはショックを受けた。

 

 

 この年の四月二十九日丸の内交差点において派手な文字を大書

した愛車から謙三は裕仁の戦争で亡くなった人々の慰霊祭を行った。

 

   

   奥崎「奥崎謙三は此処において、天皇誕生日の

     この日、天皇裕仁を八十一歳まで在位せ

     しめてきたこの天皇裕仁及びその一味の

     為に犠牲になった無数の人々の霊を慰

     める為に。今日ここにおいて私の所属し

     ておりました独立工兵第三十六連隊は、

      ニューギニアにおいて連隊長以下百パ

      -セント近く飢え死に致しました。

      私にとって立派な人間とは神の法に

       従って人間が作った法律を恐れず、

       刑罰を恐れず、本当に正しいことを

       永遠に正しいことを、実行することを

       最高の人間だと思っているんであり

       ます。」

 

 警官が近づき、謙三は警察官がメモらしきものを

見せ、私を人間が作った法律に従わせようとして

いますと聴衆に伝え、警官に求められるまま車から

出て歩みだした。

 

 遠藤誠弁護士を囲む会が法曹会館で開催され、謙三は

スピーチを為した。

 

    

   奥崎「わたくしは一般庶民よりも法律の被害

      多く受けてきましたので、日本人の中

      では法律の恩恵を最も多く受けてきま

      した、無知・無理・無責任のシンボルで

      あります天皇裕仁に対して、先程丸山

      先生が仰って頂きましたように、四個の

      パチンコ玉をパチンコで発射致しまして、

      続いて、天皇ポルノビラを、銀座・渋谷・

      新宿のデパート屋上からばらまき、その

      二つの刑事事件に関わった法律家であ

      るところの、二名の判事と八名の検事の

      顔に、小便と唾をかけて思いきり罵倒致

      しました。例えばこの法曹会館の横に並

      んでおります東京高等裁判所の刑事法

      廷におきましては、裁判長に向かって手

      錠をはめられたまま、『貴様は、俺の前

      で、そんな高い所に立っている資格は

      ない。降りてきて土下座をさらせ!』と怒

      鳴りました。そして、退廷を命じられまし

      て、今度は引き続いて、午後に監置裁判

      が行われましたが、今度はわたくしは、『俺

      の前で土下座をするのは勿体無い。穴

      を掘って入れ!』と申しました。そういう

      ことは独房生活を十年九か月送ってきま

      したわたくしには屁の河童であります。」

 

 

 

  神戸拘置所において謙三は自宅に独居房を建てたい

ので寸法を測らせてくれと頼み拒絶され、職員に激怒す

る。「ロボットみたいな面しやがって、それが人間の顔か」

と問う謙三は職員達に「人間の面」をしていないと糾し、

「天皇裕仁と一緒だ」と叱り飛ばす。

 

 独立工兵隊の戦友島本政行はニューギニアで戦病死

した。謙三は政行を埋葬した土饅頭にパパイヤの実を

供えた。

 

 政行の母イセコを江田島に尋ねた謙三は、戦病死した

戦友を思い、男泣きに涙を流す。

 

 謙三はイセコと共に政行の墓にお参りし、『岸壁の母』

を歌ってもらう。

 

 独立工兵隊第三十六連隊ウェワク残留隊において隊長

による部下銃殺事件があった。

 奥崎謙三はかつて分隊長であった高見実を尋ねる。高

見は涙を流す。

 関係者であった妹尾幸男は奥崎の事件に対する質問

を受け、詳しく語らず出かけようとして、謙三に殴られる。

 

 謙三は妹尾家の人々に取り押さえられ、原一男監督が

カメラを回し続けたことに不満を語る。

 

 吉沢徹之助元一等兵と野村甚平元上等兵は処刑事件

で犠牲になった。吉沢の妹崎本倫子と野村の弟野村寿

也は謙三と共に事件を調査する。

 

 会川利一元伍長は処刑事件の関係者について語る。

 

 原利夫元軍曹は三人の来訪を受けて、中々事件に

ついて語らなかったが、遺族と謙三の問いを受け、二

人は敵前逃亡の罪を着せられて銃殺されたことを語る。

 

 謙三と崎本と野村は神戸に浜口政一元衛生兵を尋

ねた。

 

 浜口は処刑事件で引金を引いていないと証言し、

人肉食問題については「食べました」と落ち着いて

語り、「白豚、黒豚」とニューギニアの犠牲者達を

呼んだことを語る。

 

  奥崎謙三は、元軍曹小島七郎に電話し、処刑事

件を命令したのは残留隊長古清水政雄(村本政雄)

だと確認する。

  崎本・野村と感覚が合わなかった奥崎は先生と尊

敬する桑田博に野村役、妻シズミに崎本役の「代役」

を立てて、広島県の村本邸を尋ねた。

 原一男は代役に反発を感じたが、小林佐智プロデ

ューサーはそこに奥崎の演出を感じた。いよいよ謙

三と村本政雄の対話だ。   

 

 奥崎は村本政雄に、遠藤誠弁護士に相談し 「あな

た」が「なさった処置」は「軍法会議に基づかないもの

であり」、当時の法に照らしても「殺人罪に該当」する

と厳しく述べ、刑事上・ 民事上の責任を追求すること

は無理だが、天の法に照らすならば時効はないと宣

言する。奥崎の言葉に村本は、彼なりの立場や状況

を説明しながら答える。

 

 

 奥崎から「あなたも拳銃を持って」と問われ と村本は

「とらなかった」と言い、その場にいなかったと答える。

謙三は「好きで人間の肉を喰う者 はいないし、そうした

極限状況の下に置かれていた」ことを指摘し、外国の

軍隊ならば、投降したの ではないかと問う。村本政雄

は「本当に軽率な事ですね」と誤りを認める。  

 

    奥崎「私は、人を刺して殺してもね、天皇にパチ

       ンコを撃っても、警察、逃げも隠れもしませ

       ん。」   

 

 延原一夫を殺害し服役し、裕仁にパチンコ玉を撃って

服役した事を確認し た奥崎は村本の腕を掴む。   

 

 

    奥崎「私は無責任な人間が最も嫌なんです。貴

        方はご自分のなさったこと少しも責任とっ

       ておられないんです。」

 

   村本「あんたの考え方と私の考え方は違うんだな」  

 

   奥崎「そういう無責任な人間で最高の象徴がね、

      天皇裕仁だと思うんですね。それから貴方は

      その忠実な部下の将校の一人だと」  

 

  奥崎は大日本帝国の統治者であった裕仁が戦争責

任を取っていないことを糾弾する。 謙三は妻シズミと共

に村本政雄を糺した日の翌日早朝五時に妹尾幸男を再

び訪ねた。妹尾は前回の訪問で 奥崎に冷たい態度を取

って殴られたが、この日の証言では打って変わって処刑

事件の惨たらしさを語った。

 

  原住民を殺害してその肉を食ったことの口封じで吉沢 

徹之助と野村甚平の処刑が行われた。吉沢徹之助と野村 

甚平を、古清水政雄(村本政雄)の命令で、妹尾幸男・妹

尾(高見)実・原利夫・会川利一ら五名に五挺の銃が渡さ

れ、事件が古清水の命令でなされたことを認めた。デジ

タルリマスター版で鑑賞すると妹尾幸男が証言において

熱い涙を流ていることがはっきりと映っていた。奥崎は再

び高見実(妹尾実)を尋ねる。高見も処刑事件が古清水

の命令でなされたことを 認めた。 

 

  高見「上からそう言われりゃ、必然的にそうなってし

      まったんです。」

 

 高見の証言によると五メートル離れた距離撃たされた

という。

 

   高見「非人間的な人間で、ご遺族に対して、その、

       施しをすることもせず、私、お詫び申し上げ

       るほかないんでございます。」

 

 奥崎は敗戦後それぞれが相応の生き方をしたと語って

早朝の訪問を詫びる。 謙三は妻シズミと共にくじ引き謀

殺事件の調査をなしアナーキスト大島英三郎に協力を依

頼する。大島は昭和四十四年(1969年)一月二日に皇居

で発煙筒をたいた。 映像ではこの日奥崎が裕仁にパチ

ンコ玉を撃った事件と大島の発煙筒 騒動の新聞報道を

伝える。    

 

   奥崎「その大島先生と私と同じ日に、午前にです

       ね、天皇裕仁にパチンコを撃った訳でそう

       いうご縁で今日は、橋本、大島先生にね、橋

       本義一というわたしの部隊に居りました軍曹

      が、連隊長以下最後の五名になるまでですね、

       生きておった時点で、同僚の軍曹 の為に、謀

       殺されました事件のですね、真相を究明する

       為に、大島先生を、橋本義一軍曹の御兄さ

       ん役になってもらう為に来て頂いた訳です。」  

 

 奥崎は平和運動仲間の大島英三郎にくじ引き謀殺事

件の被害者橋本義一の兄を演じて貰うという試みを為す。

尋ねる人物は戦友であり、協力者の元軍曹山田吉太郎

である。 山田吉太郎の家を尋ねた奥崎は、新年の挨拶

ヲ為し、山田も新年を祝った。

 ニューギニアの戦場から生還し『独立工兵第三十六連

隊行動記録』をまとめた山田吉太郎。 

  原一男は、ニューギニア戦線を生き残り、全く違う方法

で平和希求の道を歩んだ二人の男 奥崎謙三・山田吉太

郎に注目する。

 

 

    奥崎「山田さんは、その、まあ、下士官の中では尊

        敬してましてですね、あのう、橋本義一さんで

        すね、三人で草の葉を引いてですね、それで、

        殺されたいうことを聞きましてですね、山田さ

        んから、で、片方のね、ウエワク残留隊の殺人

       事件だけね、真相を究明してですね、山田さん

        と私達、行動したね、連隊主力の方の殺人事

        件にも該当する訳です。山田さんは、くじを引

        かれたとおっしゃいますけど、それは、あの、刑

        法上共同正犯になるわけですね。」  

 

 

   山田「いいや」    

 

 

   奥崎「それでね、そのね、まあ、あのう。」   

 

 

   山田「沢山だい!」  

 

 

  山田吉太郎は怒る。    

 

 

   奥崎「はい、え」    

 

 

   山田「今更そんなこと。おら、奥崎さんと何かやって

       きたけど、そんなものは堀り下げたってどうに

      もなんねえだよ!」 

 

 奥崎は「そういう事実」を指摘する。山田は残務整理し

たことを確かめる。   

 

   山田「実際、奥崎さんも知ってるけど、ニューギニアで

       亡くなった人は、家族に聞かせられないような

       死に方してるんだよ。」   

 

    奥崎「だから、その、そのことをね、寧ろ聞かしてあ

       げる事がね、戦争で亡くなった事、これから戦争。

       だから、そのう実際は銃殺しとりながらね、それ

       を戦病死なんか言ってますとね、また再び戦争

       がね、その戦争てものの実態がわからない訳な

       んですよ。」  

 

 山田吉太郎はくじびき謀殺事件への証言を奥崎謙三に

求め られ、「なるべく実態を知らせるように」記録を書いた

と述べる。  奥崎は橋本義一の兄役の大島英三郎を指し

て、「お兄さん でございまして」と称し、山田が立っている事

について、立た されていることに触れ、妹尾幸男を殴った事

を語った。 

 

 

    山田「俺は腹を切ってあるから、あんまり座れない

       んだよ」   

 

 山田吉太郎は術後の身体であることを告げた。   

 

   奥崎「ああ。そうですか、じゃあ、じゃあ、あそこにね、

      座られてね。」   

 

  山田は腰かけた。奥崎はこれまで証言を求めてきた人々

 に事実を語ってもらったことを報告し、山田さんにも言いにく

い でしょうが語って頂きたいと頼む。「言いにくいどころか、そ

れだ けは記録に書けなかったことがある」と山田は語り、余

りにも哀 れだからだと根拠を示した。 奥崎は「言って頂くこと」

を強調し、山田は「俺の生活」は 理解できるものじゃないと強く

述べる。    

 

    奥崎「貴男がね、貴男があのあれでしょ、病気になった

        いうときね、私は東京拘置所の中からね天罰だ

        言ったでしょ、貴男にね。」   

 

 

    山田「聞いた、あの時」 

 

 山田は腹の中で怒ったことを告げる。奥崎は驚く。山田は自

分の場合は天罰じゃないと確かめる。奥崎は、山田だけが天罰

なのではなくて、彼がニューギニ アで餓死しそうになったことや

延原一夫を殺害してしま った事も天罰であり、妻シズミが交通

事故に遭ったことも天罰なんだと語る。 山田は「俺がしていな

い場合は先祖がしてる」と問う。   

 

  奥崎「あなた自身がしてるじゃないですか、ニューギニアで」  

 

  山田「みんなしてるよ。」   

 

 

   奥崎「だからみんな天罰受けてる訳で、貴男だけじゃない

       ですよ。」  

 

   山田「だけど天罰と思ってないよ。」   

 

 

 奥崎が「だからそこに」と問うと、山田はできるだけのことをや

ってきたと人生を確かめる。「そこに貴男なりの問題がある」 と

奥崎は指摘し、山田は「天罰だと思ったらきりがないよ」と苦悩 

を語った。    

 

   奥崎「貴男はあれだけ悲惨な戦争体験をし、そしてまた戦

      争帰ってからね、何故こう何回も何回もね、腹を切っ

      たりはったりするようなね、そういう病気になる、それ

      は貴男が天罰じゃないと思ったら、それは思い上が

       りだと思うんですね。」   

 

 

   山田「思い上がりなんて、それはあんあたが・・・・・・個人

       個人の考えは色々有るよ。」  

 

   奥崎「貴男がね、全然そしたら人間としてん、恥ずかしく

       ない事罪にならないことしてきた言うんですか?今

       迄。」   

 

   山田「みんな罪犯してる誰だって。」 

 

 奥崎謙三は全ての存在が天罰を受けていると主張する。これ 

に対し山田吉太郎は天罰を受けたとは思っていないと生き方を 

確かめる。奥崎に「貴方は?」と問われた山田は、「奥崎さんに 

奥崎さんの人生があったろうし、俺には俺の人生があった、ひと

りひとり違うんだよ。一緒に生まれて一緒に死ぬことは出来な 

いんだよ」と答える。  

 

  奥崎は過去に「貴方も私」も語れないことをしてきたと追求

す る。山田は語ればかえって害になる場合もあり、自身が書

いた 記録を読んでもわかるが草の根っこ、木の根を食べた事

も記されていると確認する。 奥崎は戦争から帰ってきた人は皆

言っているという。山田は ニューギニアは別で生きていられる

場ではないと戦場の苦 しさを語る。奥崎は虫を食ったという事

は誰もが言って いるが、今日聞きにきたことは、貴男が体験

したことだと告げる。 山田は「これ以上のことは言えない」と心

に決め、氏神様に戦友を祀っていると自身の在り方を強く語る。  

 山田家の庭には祠がある。   

 

   山田「結局これはね、その時の指導者だとか、ああ、そい

       つの流れに流されただけだよ。」 

 

 

   奥崎「そうでしょう。だから」  

 

 

    山田「だからこれからを心配して、今の世の中をね、俺は

       心配してる訳なんだよ。」  

 

    奥崎「心配する、するならばね、何故貴方の体験したこと

        をね、その語るべきじゃないですか!そういう連中

        に又再びそう言う事をさせない為に貴方は地獄を

        見てきたわけでしょ!?」  

 

    山田「そうだよ!」  

 

 

   奥崎「その地獄を語らなくってね、戦友の慰霊になんかなる

       筈ないですよ。貴男はね結局ね、現在のね、現在の 

       家族とか女房とだとか子供だとか孫だとかを考えて 

      言わないんでしょ。」     

 

 奥崎は大島英三郎扮する橋本義一を指して、橋本義一さんの

兄さんが話を聞きたいとお見えになっているから話すべきだと強

調する。 山田は「何で俺にすいませんと言えってんだ」と問う。  

 奥崎は過去に事件について語ったじゃないかと問い、山田は 

知るかいと否定する。一昨年の正月に言ったと奥崎が言うと、 

山田は何を言っても「俺らの生活」は理解を絶していると告げ、 

奥崎は「理解なんかはしようとは」と語り、山田は「理解できるよ

うな生活だったら、俺だけ生きて帰ってくるはずはない、みんな

生きて帰る」と意見を語った。 奥崎は「事実を話して下さい」と

迫り、そのことが「最高の供養になる」と自身の心を述べた。   

 

  

 謙三は協力者山田吉太郎にくじ引き謀殺事件に

ついて聞くが、解答を拒否され、靖国神社をめぐる

意見で激怒する。

 山田は参拝して戦死者を追悼するという自らの姿勢

を表明した。この意見に靖国神社を否定する奥崎は

殴る蹴るの暴行を犯した。

  

 

  「やめなさい!」と叫んで奥崎シズミは身を挺して

夫謙三の暴力から山田吉太郎を守り庇って足に負傷

する。山田の妻も懸命に「それだけは止めて下さい」

と懇願する。

  山田吉太郎は何故自分にくじ引き謀殺事件を問

うのかと尋ねる。

 

   奥崎「それはね、やっぱりあなたの為じゃない。亡くな

      った方とか多くの人をね、やっぱりその、これから

      戦争にあなたが仰ることによって、それは大分違

      いますよ。貴方が本当にそういう地獄を体験なさ

      ったことをね、仰って頂くのは。それから独立工兵

      三十六連隊のね、主力の中で、本部と二中隊と三

      中隊の中から貴方と私だけが生きて帰ってくたで

      しょ。一中隊が先行してね、六人程帰ってきた訳

      でしょ。そういうね、貴方は勿論貴方のほうが地獄

      を多く見てきとられる訳です。私は幸い人の肉を

      喰わずに生きて帰れた訳ですからね、ところがウ

      エワク残留隊は人の肉をさ五人で喰って、あの喰

      わなきゃ生きていけなかったし、それを喰った人を

      責めるんじゃなく、寧ろ喰わした人をね、問題があ

      ると思うんです。ところが喰わした人言うのは、喰

      わした連中は、ちっとも咎められて無い訳ですね。

      その最高責任者が裕、あの厚顔無恥の、私、裕仁

      だと思ってる訳ですね。ところが、彼生まれてから

      一回も『すいません』なんて言ってない訳でしょ。と

      ころが貴方の戦後の生活を見てますとね、専ら御

      家族をね、子供さんを学校へね、やられる事に」

 

 

  山田は親の責任だよと答える。奥崎は親の責任と仰るが、

貴方はニューギニアから生きて帰れなかったら、親になられ

なかったでしょと問い、山田も年中思ってるよと常に生還した

ことへの感謝を確かめる。奥崎はお子さんも大事だし、お孫

さんも大事だが、まず原点に返って、ニューギニア戦線から

帰って来られなかったら、奥さん・お子さん・お孫さんとも会え

なかったのではないかと強調する。山田は、それは年中思

ってると述べる。

 

 ウェワクに残留した大日本帝国兵士達は人間の肉を食っ

て生きた。その残酷な罪の最大の責任者は、厚顔無恥の

裕仁である。裕仁は日中太平洋戦争で沢山の日本人・外

国人を殺した。その罪を裁かれず許され、一度も「すいませ

ん」とも語っていない。その裕仁の傲慢不遜を謙三は糾弾

する。

 

   謙三は「世間一般の戦争体験」をなさらなかった山田

吉太郎さんが「家庭だけをやっておられた」ならば、天は「戦

争体験のない、あまり戦争行っても苦労しなかったような人

間のような生き様をさせる為に日本に生きて帰らしたんで

はない」と言うのではないかと問うて証言を語ることには、特

別な使命なのではないかと探る。

 

 

 更に奥崎は過去に自身が犯してしまった延原一夫殺害事

件を確かめその痛みと悲しみを語る。赤線に行って妻シズミ

を裏切ったことへの痛みも告白する。戦争から帰ってきて生

かされた身でありながら妻の心を傷つけたことを、謙三は深

く恥じ入る。奥崎謙三は戦争の地獄を生き抜き帰ってこれた

ことは生かされた身であり、戦死・餓死した戦友の無念を思

い、戦争の残酷さを伝えることが、自分だけのことを考えない

営みであり、天から与えられた課題だと感じた。独房生活で

天罰を感じた謙三は自分だけのことを考えず、全人類の幸

と平和を願って行動する課題に目覚めたという。

  山田は生きる為に色んな事があったと述べる。奥崎は貴

方が生きて帰られ、他の方は亡くなったと確かめ、山田さんに

は語るという課題があるのだと強く求める。

     

 原一男監督が夫謙三に足を蹴られた妻シズミに痛みを聞く。

 

   一男「痛いですか?」

 

   シズミ「そりゃ、痛いですよ。靴履いているでしょう。私が

        受けたんやもの、足を。あの人が蹴飛ばすの」  

 

  警官が山田家の人々に謙三の暴行について質問する。

 

  アメリカが再軍備をしている時代である時を確かめ、

誰も体験していない、「貴重な人類の財産」とも言うべき山

田氏の戦争体験を語って頂きたいと懇願し、沢山の人々

な死を遂げたことを述べ、「千万の命」の一つとして生きて

残って帰ったこられた山田さんが沈黙するのは、「宝の

持ち腐れだ」と嘆く。

 

 山田は沈黙と言うより、生きてる人間には話せることと

話せないことがあると自身の悲しみを語る。

 

 警官が来て、奥崎に何故暴力を振るわれのかという山

田に質問する。

 

 奥崎謙三は戦争中の橋本義一軍曹の殺害事件を聞こう

としたと事情を語った。山田は嘘言わねえ答える。

 

 山田は重ねて言えることと言えないことがあると確かめ

語るのは無理だと自身の立場を明かす。

 奥崎が橋本義一軍曹殺害事件の真相を話して頂きたい

と重ねて問うと、山田は「殺害事件と言われたら困る」と

答える。部隊長だけは今日の言葉では自殺になっている

と告げた。

 

 奥崎と山田の問答によると、橋本義一軍曹は野道(や

どう)三十六連隊の食糧を盗んだかもしれないという疑惑

をかけられ、野道三十六連隊から圧力が加わり、山田は

圧力のもとに「実行」しなきゃこっちの身が危なかったと

確かめる。奥崎は白豚・黒豚と呼び、原住民の人肉を

喰ったのかと問い、山田は原住民はすばしっこくてこっ

ちが負けると語る。奥崎は日本兵の中で、憎まれてる人

が犠牲になったのかと問う。山田はみんな自分一人だけ

生き残ろうと考えると告げた。奥崎は、山田さんも、殺され

るって耳打ちされたことはと問うと、山田は「いくらでもある

よ」と報告した。俺を殺したら三十六連隊にとって不自由に

なると庇ってくれた人が居たんだと事情を話した。奥崎は

貴方が結局野道三十六連隊の生き残りの人達に役に立

つ人物であった為に助かったんですねと確かめる。

 

   謙三「それで、貴方は喰われなくて済んだ訳です

       ね。戦争の犠牲になられた方をですね、喜

       ばれるだろうと思うことならばね、幾らでも

       やろうと、だから現在も、今年も、それ、考え

       てる訳です。今迄独房生活十三年九カ月し

       てきましたけど、又十年やるって決心した訳

       です、今年は。私にとって、暴力しか取り得

       がありませんでね。」

    

   山田「自分が考えてる事がまっとう出来なくなっち

       ゃう場合もあるから。」

 

 自身の心の中で決している事柄を確かめつつ、奥崎は

土下座して謝罪する。

 

   奥崎「暴力を振るった事勘弁して下さい。」

 

 山田は「そんな事ねえです」と優しく許す。山田夫人が

ご主人の排泄について聞く。山田は神経が無くて、自身で

排泄することが困難であると確かめる。足の痛みを語り、

奥崎は「傷害罪でも責任を持ちます」と述べ、救急車を呼ぶ。

 

 山田は深谷の赤十字病院で治療を受けた。

 

 奥崎謙三・シズミ夫妻がカメラの前に立つ。

 

   奥崎「山田さんの怪我はね、別に赤くもなってません

       し、寧ろ家内の怪我がですね、酷いんですけど、

       見た目はね、レントゲン撮ってみなきゃ分かり

       ませんけど、見た目は家内のほうが酷くって、

       家内が山田さんを、傷つけ、庇う為に」

 

   シズミ「私がこういうふうにしたんですからね。」

 

   奥崎「ですから、家内は、我ながら、私の女房ながら、

       天晴であると思います。もし、山田さんにね、

       あれだけ、怪我見た目ですけど、怪我させと

       ったら、やっぱり私も心痛みますし、責任も感

       じますから。今、その、山田さんの娘さんのご

       主人さんがですね、『暴力振るっちゃいけない』

       って仰ったんですけども、その『暴力振るって

       許される、良い結果が出る暴力だったら、私は

       許される』と。だから私は大いに『今後生きてい

       る限り、私の判断と責任によって、自分と、それ

       から人類に良い結果を齎す暴力ならばね、大

       いに使う』と。こう言って、山田吉太郎さんの娘

       さんの御主人に申し上げた訳です。」

       

 シズミは心配そうに夫謙三を見つめる。

 

 島本イセコの訃報が字幕で伝えられる。『岸壁の母』の

歌声が銀幕に響く。「政行さんがニューギニア戦線で亡く

なり、ニューギニアを母上イセコせんに御覧頂く」という

課題に、政行の戦友謙三は全てを賭けていた。島本家の

墓に線香をあげる謙三の姿が映る。

 

 昭和五十八年(1983年)三月二十二日、謙三・原一男・

撮影隊はニューギニアに行き、撮影を行った。

 三月三十日インドネシア情報局の役人が現れ、原一

男監督に「フィルムを出せ」と命じ、謙三は「俺は天皇に

パチンコ玉を撃った男だぞ」と語ったがフィルムは没収

されてしまった。

 

 成田空港に帰ってきた謙三はリムジンバズに原一男監督

共に乗り、警察に尾行されてますと告げ、俄かに同意でき

なかった原監督は後方の車の男性が一礼し警察と気付く。

 

 

 昭和五十八年(1983年)十二月十五日、奥崎謙三はニュ

ーギニア戦線人肉食事件と兵士銃殺事件の黒幕とみた

村本政雄を襲撃したが不在で息子和憲を狙撃し逃走した。

 

 神戸で謙三は逮捕され、村本政雄の他、田中角栄派の

国会議員や南京大虐殺関係者やインドネシア領事館員も

襲撃しようとしたことを語った。

 食堂で奥崎謙三襲撃のニュースを聞き吃驚仰天した原

一男監督だが、主演逮捕により主役を撮るラストは不成立

になり、ニューギニア篇もなく、残存している日本篇でフィルム

を編集し公開することを決める。

 

 昭和五十九年(1984年)奥崎シズミは村本和憲が助かった

ことに夫謙三が涙を流して感謝し、父上政雄さんには、ニュ

ーギニア戦線の事を語って頂きたいと凱旋の車で訴えた。

 

 夫謙三は神軍の派手な車で恒久平和と天皇制否定と戦

争責任追求を訴えたが、その志は妻シズミに継承された。

 

 「忌まわしい戦争を二度と発生させない為にも」村本政雄

さんのご発言は大切とシズミは強調した。広島拘置所の夫

謙三に面会したシズミは、その様子を原一男監督に語った。

 

   シズミ「物凄く元気でね。」

 

   原「元気ですか?」

 

   シズミ「はい、元気で。」

 

 原一男は寒さについて聞き、シズミはあったかいそう

ですと伝え、監督は食事について聞く。

 

 

  シズミ「食事はね、物凄くね、うちより宜しいんだって。

       何もかも神の思し召しでね、あんだけの事

       出来ただけで満ち足りてますて。」

 

   

 

 

 字幕   昭和六十一年九月十八日

      奥崎シズミ死去(68歳)

 

 字幕   昭和六十二年一月二十八日

       奥崎謙三は懲役十二年の実刑判決

       を受ける

 

 エンディングにスタッフの名前が紹介され、最後に

 

      監督 原一男

 

 と映る。

 

 

  ☆☆☆奥崎謙三を撮った監督☆☆☆

 

 

 

 

 原一男は東京綜合写真専門学校を経て、光明擁護学校

介助員の勤務を為し、田原総一朗のドキュメンタリ

ーに学び、昭和四十七年(1972年)に青い芝のメン

ーを描く『さようならCP』を第一回ドキュメンタリー

作品として発表する。

 かつての恋人武田美由紀を尋ねた『極私的エロ

ス 恋歌1974』を演出した。

 

 今村昌平から「奥崎謙三の記録映画を撮らな

いか」というオファーを貰って、奥崎のバッテリー

店を昭和五十六年(1981年)十二月に「長年の

相棒」である小林佐智子と共に尋ねた。

 映画冒頭に映るシャッター・店正面に大書さ

れた文字群は壮絶だ。

 これが本作『ゆきゆきて、神軍』の原点となる

出来事である。約七時間、立て板に水どころか

滝の激流のような勢いの話術で謙三はしゃべ

りまくり、原・小林に笑顔を見せ、二人の心を打

ったようである。

 

 製作費について質問があり、原・小林がなんと

かしますと答え、謙三自身も出資すると述べた。

 

 撮影が始まり、奥崎謙三の神軍平和運動を

記録する道を歩む原だが、主演者謙三の暴言を

何度も何度も浴びせられ激怒をぶつけられたこ

を『製作ノート』に書き記している。映画で見ても

怖いのだから、実際にあの大声で怒鳴りつけ

られれば、震え怯え苦しくなることは十分に窺い

知れる。

 

 昭和五十七年(1982年)四月二十九日丸ノ内

交差点において、裕仁八十一歳誕生日に、彼が

統帥していた大日本帝国兵士の戦死を悼み、慰

霊祭を開催し裕仁の戦争責任を謙三がマイクで

糾弾するシーンは迫力豊かである。

 

 裕仁の戦争責任を命がけで糾弾してきた人々

は確かに多い。

 だが、彼裕仁に戦死餓死した戦友達の怨念を

こめて、「ヤマザキ、ピストルで天を撃て!」と

叫んで天皇にパチンコ玉撃った存在は、奥崎謙

三だけである。

 

 本作公開当時、「天皇裕仁」は今上天皇として

健在で、彼の戦争責任を厳しく糾弾する奥崎謙

三の記録映画が公開されると聞き、近畿上映を

じっと待っていたことを覚えている。

 昭和六十二年(1987年)八月一日、自分は二

十歳だったのだが、奥崎謙三の名は勿論鑑賞

前から知っていた。

 昭和五十二年(1977年)の参議院選挙に立候

補した奥崎謙三が書いた裕仁戦争責任糾弾と

天皇制廃止の文章を読み、小学生ながら衝撃を

受け感動した。

 『製作ノート』によると奥崎謙三は村本政雄(古

清水政雄)襲撃の計画を打ち明け、犯行のシーン

を原さんに撮影して欲しいと頼んだ。原一男は震え

「奥崎さん、私怖いです」と恐怖を語り撮影を拒絶

する。「原さんは駄目な方ですね」と奥崎は怒った。

 主演者が最も重い犯行を犯してしまうその光景

を監督・撮影者である自分は撮るべきなのか?

 ドキュメンタリー演出家として原一男は強く悩む。

 

 小林佐智子は「私は嫌だわ!考えるだけでもお

ぞましい。奥崎さんはおかしいよ。何かに取りつ

かれてるよ。私は原さんが撮るかもしれないと悩

んでいるのが信じられないわ」と悲憤の気持を語

った。

 神戸に原と共に奥崎を尋ねた小林は、「私は奥

崎さんに人なんか殺してほしくありません」と泣いて

頼んだ。シズミにも「奥さんはどうして止めないん

ですか」と激しく問うた。

 

 シズミは何をやっても、罪を犯したとしても夫謙三

を支え抜くとこの時から覚悟を決めていたのだろうか?

 

 小林佐智子の涙の諌止は尊い。その通りだと思う。

だが、原一男の胸には「ひょっとしてその犯行の時

が来たら?」の問いがあり、「俺はカメラを回すかも

しれない」という衝動を覚えつつ、それは人としてや

ってもいいことなのかという自責も迫り、内面に煩悶

が溢れていたのである。

 

 山田吉太郎邸における彼と謙三の問答を聞き、

戦争の怖さを想像した。

 

 奥崎は殴る蹴るの暴力を振るい、シズミ夫人が

身を挺して山田氏を守る。シズミさんは、聖母マリ

アや阿弥陀如来の化身だとわたくしは思った。ま

さに「神軍の母」だと自分は確言する。

 「奥崎は平和運動と言いながら戦友で病気の

山田吉太郎氏に暴力を振るう。なんだこれは!」

と怒る方々の気持は察する。勿論暴力はよくな

い。

 奥崎謙三が山田吉太郎氏・村本和憲氏に為し

た暴力・狙撃に悲しみを覚える。改めて抗議し

たい。

 同時に彼が何故暴力を振るってしまったのかを

考えたいのである。

 

 奥崎は暴力を反省しながら、山田にニューギニ

ア戦線の凄惨さとくじ引き謀殺事件を語って欲し

いと頼む。

 

   

    ウエワク残留隊は人の肉をさ五人で喰って、あの喰

    わなきゃ生きていけなかったし、それを喰った人を責

    めるんじゃなく、寧ろ喰わした人をね、問題があると

    思うんです。ところが喰わした人言うのは、喰わした

    連中は、ちっとも咎められて無い訳ですね。その最

    高責任者が裕、あの厚顔無恥の、私、裕仁だと思

    ってる訳ですね。ところが、彼生まれてから一回も

    『すいません』なんて言ってない訳でしょ。

 

 この言葉は日中太平洋十五年戦争の核心を鋭く尋ね

明らかにしている。

 大日本帝国兵士がニューギニア戦線で原住民たちを

狙い、人肉食事件が起こったことは痛ましいが、人肉を

喰った兵士達よりも喰わした戦争指導者にこそ責任が

ある。

 最高責任者である天皇裕仁は全く責任を取らず、戦没

者・犠牲者・外国人・日本国民に、生まれてから一度も

「すいません」の一言も語っていない

 まさに歴史事実の本質の開顕である。現代において

「昭和天皇は戦争に反対していた」等と言う観念がマス

コミによって喧伝・捏造されているが、全くの出鱈目で

あり、大嘘である。

 

 奥崎謙三は、戦後自分の事ばかり考え、商売をして

きて、延原一夫の命を奪ったことを深く悲しみ、天から

の罰ではなかったかと自問し、山田さんが地獄の戦場

から生きて帰ってきたという戦争体験を語ることは、「人

類の宝」だと力説する。罪の痛みをこめて奥崎は二度と

戦争しない世界を開く為に、山田さんの貴重な戦争体験

を話して頂きたいと強く希望する。

 

 山田吉太郎は迷い悩みながら言葉を慎重に選び、

軍隊では人肉食事件があり、土地勘があった自分

を殺してしまったら、上官たちは不自由するから命

が助かったと確かめる。

 

 奥崎は暴力を振るってしまったことを土下座して

謝罪する。

 

 山田吉太郎は寛大に許す。術後の自己に殴る蹴る

の暴力を振るった謙三を暖かく許す心に感動した。

 

 奥崎謙三はお詫びしつつ、もう十年独居房生活を

する決心をしたと語る。古清水政雄(村本政雄)を襲

撃する計画を立てていた事は、この時の言葉からも

窺える。

 

 原一男が静かな声で奥崎シズミに怪我の痛さを

聞く。

 「痛いですよ」と語りつつ、シズミさんは暴れる夫

謙三を見守る。

 

 ニューギニア戦線について語った山田が日赤病

院で治療を受けるが、奥崎は彼の怪我は重くない

が妻の怪我が心配であり、自分の蹴りから山田

さんを守った妻は天晴と讃嘆する。

 

 「暴力はいけない」と注意した山田氏の娘さんの

配偶者に、「暴力振るって許される、良い結果が

出る暴力だったら、私は許される」と返答したことを

語る。

 

 このシーンで奥崎は力強く喋った。シズミさんは

心配そうに夫を見ている。

 

 「人類に良い結果を齎す」暴力は無い。奥崎謙三

の開き直りに反対である。

 

 山田吉太郎氏に殴る蹴るの暴行を為し、古清水

政雄氏宅を襲撃しご子息を狙撃した奥崎謙三の

暴力・テロには憤りを覚える。平和運動は非暴力

で行われるべきだ。

 

 奥崎謙三のテロ暴力はいけないが、人類の宝

である戦争経験者の体験に学び、戦争の残酷さ

に学び、平和の有難さを確かめるという彼の道

は深い。

 『ゆきゆきて、神軍』鑑賞者・奥崎謙三著書読者

は、戦争の悲惨さを学習し、非暴力で平和を求め

て行く。これが現代人類の学びの道であろう。

 

 平成十五年(2003年)七月十二日シネ・ヌーヴォ

で原一男特集が開催され、『さようならCP』『ゆきゆ

きて、神軍』『全身小説家』の上映と原一男トークシ

ョーがあった。

 

   「ドキュメンタリーは虚構なんです。」

 

 原一男監督は強調する。『ゆきゆきて、神軍』を支

え続けていたのも、この「虚構」の精神なのであろう

か?虚構・フィクションにこそ、ドキュメンタリーの根

本があると原一男は熱く力説していた。

  『ゆきゆきて、神軍』において奥崎謙三が証言を

聞く営みで代役を立てる演出も思い起こした。その

虚構は巨大なものであり、この虚構に惹かれて、原

一男監督は情熱を燃やしていると拝察した。

 

 全ての上映・トークショーが終わった後、わたくしは

原一男監督に「今戦争の危機が迫っているから、この

映画を広めて平和の尊さを学びたいです」と申し上げ

た。

 

 原一男監督は「おう、頼むわ」と仰った。

 

 

 ダボス会議によるmRNA致死猛毒の地球人

への接種強制。

 

 岸田文雄内閣の全口座紐付けマイナンバー

カード強制・健康保険証廃止・外国人抑圧の

入管法改変。

 

 命を痛めつけ殺す政策が世界の内外で起こって

いる。

 

 ウクライナ・ロシア戦争の背後にはダボス会議

がいる。

 

 今こそ永遠平和・絶対平等のゴッドワールドを

地球に建設したいと夢見た奥崎謙三の教えに学ぶ

時である。

 

 原一男監督

 

 七十八歳御誕生日

 

 おめでとうございます

 

 

                  文中一部敬称略

 

 

                         合掌

 

 

 okuzaki