額田女王 くれないの恋 むらさきの歌 1980年3月13・14日放送 | 俺の命はウルトラ・アイ

額田女王 くれないの恋 むらさきの歌 1980年3月13・14日放送

『額田女王』(ぬかたのおおきみ)

「くれないの恋」

「あじさいの歌」

テレビドラマ 

トーキー カラー 2話総計5時間枠

昭和五十五年(1980年)

 

「くれないの恋」三月十三日21:05→23:21

「むらさきの歌」三月十四日21:02→23:21

 

放送局 テレビ朝日

 

制作 山内久司

   仲川利久

   櫻井洋三

原作 井上靖

脚本 中島丈博

 

出演

 

(イロハ順)

 

岩下志麻(額田女王)

 

伊吹吾郎

河原崎長一郎

川崎麻世(有間皇子)

吉沢京子

吉行和子

宝田明(阿倍比羅夫)

津川雅彦(蘇我入鹿)

中村富十郎(孝徳天皇)

樋口可南子(鸕野讚良皇女)

 

松平健(大海人皇子後に天武天皇)

藤田まこと(蘇我赤兄)

近藤正臣(中大兄皇子後に天智天皇)

 

秋吉久美子(間人皇女)

鮎川いずみ(太田皇女)

斉藤とも子(十市皇女)

木村功(蘇我石川麻呂)

三田村邦彦(大友皇子)

江藤潤(定恵)

 

特別出演

三國連太郎(中臣鎌足)

京マチ子(皇極天皇後に斉明天皇)

 

語り 中村吉右衛門

 

監修 野村芳太郎

 

演出 大熊邦也

 

沢村マサヒコ→津川雅彦=マキノ雅彦

 

四代目坂東鶴之助→六代目市村竹之丞

        →五代目中村富十郎

        =慶舟=一鳳

        =吾妻徳隆

 

藤田まこと=はぐれ亭馬之助

 

中村萬之助→二代目中村吉右衛門=松貫四

画像はインターネットより拝借引用

している

 

 井上靖が昭和四十三年(1968年)から四

十四年(1969年)に『サンデー毎日』に連載

し四十四年十二月に毎日新聞社から刊行した

小説『額田女王』は名作である。額田女王の

愛と神秘性を澄明な文体で書いている。

 

 テレビ朝日は朝日放送開局三十年でこの小説

のテレビドラマ化を昭和五十五年三月十三・十四

日に「くれないの恋」「あじさいの歌」の副題で

全二話前後編で当時としては異例の五時間枠で

放送した。

 

 製作は前述の通り山内久司・仲川利久・櫻井

洋三、脚本は中島丈博、演出は大熊邦也、監修

は野村芳太郎が担当した。

 

 主演は大スタア岩下志麻が張った。昭和十六

年(1941年)一月三日東京府生まれで当時三十

九歳である。

 

 中大兄皇子役は二枚目近藤正臣が演じた。昭和

十七年(1942年)二月十五日京都府生まれで当時

三十八歳である。

 

 大海人皇子は新進気鋭の美男スタア松平健が颯爽

と勤めた。昭和二十八年(1953年)十一月二十八日

生まれで当時二十七歳である。

 

 歌人の美女額田女王を巡って兄弟皇子中大兄と大

海人は恋の鞘当てを為す。優しい額田は二人を共に

包み取る。大化の改新から壬申の乱まで壮絶な争い

の時代を額田は歩む。

 

 十二歳だった自分は本放送に視聴した。その後ほ

とんど再放送はされずソフト化されていない。映像

は失われたのか?

 

 この番組に関心をお持ちでどんなドラマかという

ご意見をインターネットでよく見る。烏滸がましい

事であり、酷評になってしまうがリアルタイム一視

聴者の意見を書くのも強ち無駄ではないかもしれな

いと思いネットの筆を取った次第である。

 

 前編 くれないの恋

 

 中大兄皇子が刀を見つめる。

 

 皇極天皇と蘇我入鹿の情事。京マチ子と津川雅彦

が大人の男女関係を粘り強く演じる。

 

 乙巳の変(いっしのへん)蘇我石川麻呂が文を読

む。木村功はこの僅かな出番のみの登場。中大兄

皇子・中臣鎌足が入鹿を暗殺する。津川雅彦の顔・

首に似た人形で首飛びシーンが撮られた。

 

 大化の改新 中大兄の政治は冷酷である。孝謙

天皇は若く綺麗な妻間人皇女を得るが虐められる。

中村富十郎が繊細で気の弱い孝徳天皇を演じた。

これは印象的で意外性配役が決まった。

 

 赤兄は策士で有間皇子に同情的に見えて冷たい。

アイドル時代の川崎麻世が悲劇の人有間皇子を繊

細に演じる。

 

 「くれないの恋」は有間皇子の悲劇が山場であ

る。

 

 後編 むらさきの歌

 

 冒頭に額田女王が映る。

 

 次々と政敵を葬る中大兄の野望は進む。白村江

の戦いの厳しさもあり外交問題で苦悩する。

 母斉明天皇から「天皇の位に就かないのは人殺

しを重ねたのは位に就きたかったとばれるからだ

ろ」と野心を指摘される。中大兄は忠臣鎌足に彼

の息子の僧定恵を殺すように命じ、定恵は哀れ実父

の罠にはまり殺される。

 江藤潤はこの時代若手スタアだった。

 

 大海人の妻鸕野讚良皇女は中大兄の娘である。飛

鳥時代当時は親戚どうしの恋愛結婚は禁止されていな

かった。鸕野讚良は夫が愛する人は額田と直感し恋

と情念の戦が繰り広げられる。

 

 若く綺麗な樋口可南子と女王的存在感のある岩下

志麻の激突競演が静かな流れにあった。

 

 中大兄は天智天皇となるが、自身の死後愛息大友

皇子が弟大海人に狙われるのではないかと案じなが

ら亡くなる。

 

 武人の役を伊吹吾郎が演じ和歌を嘲笑されるシーン

があった。

 

 赤兄/藤田まことと共に大友皇子/三田村邦彦を

守り、三人が馬に乗って並ぶ。視聴率的大ヒットを

していた『必殺仕事人』の主役が勢揃いした。

 

 壬申の乱で大海人は甥大友を叩き潰す。赤兄は

強かに裏切る。藤田まことが久々に老獪な演技を

見せる。

 大友皇子は敗れ自殺する。

 

 天武天皇として即位した大海人は「兄上。私は

大友皇子に勝ったのではない。貴方に勝ったのだ」

と勝利宣言を豪快に語る。二十七歳のマツケンが

凄みと色悪の魅力を咲かせる。

 

 額田女王は激動の時代を歩んだ。中大兄の愛を

受けた雪の夜の感動を思った。

 

 中大兄が寒い夜に詠んだ和歌が回想で映る。

 

 ラストカットを飾ったのは近藤正臣だった。

 

 当時の新聞紹介で「井上靖原作の透明な文体を

映像化しているかというとそれは無理だった」と

鋭く指摘している記者がいた。1980年当時は新

聞記者が読書していたのだ。全くその通りである。

 

 自分が井上靖の原作小説を読んだのは大人にな

ってからなのだが、清らかで繊細な文章に心の底

から感嘆した。これほど澄み切った文があるのか

と驚嘆した。

 

 確かに美女額田女王を巡る中大兄・大海人兄弟

の争いが描かれるのだが原作はその三角関係を綺麗

な文で澄み切った口調で語り、流血事件の道であっ

ても読者に陶酔感を届けている。

 

 ドラマ版において中島丈博はNHK大河ドラマ『草

燃える』の現代語口調を継続した。えげつない争い

は描かれるが描写に品がない。

 

 山内久司は前述の通り『必殺仕事人』の単純軽薄

説明調子で乱暴なドラマ作りに暴走する。

 

 とろどころに緊張感があったが全体的には粗い作

りで到底井上靖透明文学の映像版とは言えない。

 

 はっきり言うと駄作である。ソフト化して欲しい

と自分は考えないし再放送があっても時間の浪費は

避けたいので二回目視聴をするつもりはない。

 

 豪華配役だが出演者の名優達が気の毒だった。

 

 

 後に南座や歌舞伎座や大阪松竹座の歌舞伎公演

で中村富十郎の豪快な芸や中村吉右衛門の深い芸

に出会った。

 京都映画祭で津川雅彦のトークを見聞し、演劇

公演で江藤潤や斉藤とも子の演技を見た。

 

 大熊邦也は『必殺仕掛人』『必殺仕置人』で傑作

を発表した名監督だが、本作『額田女王』は演出エ

ネルギーの熱気・迫力が感じられなかった。

 

 井上靖の清澄文章の名作時代小説『額田女王』の

映像化は難しい。この課題の重さを痛感した。

 

 1980年ならば安倍徹郎脚本という道があったの

ではないか?

 

 川本喜八郎による人形劇ならば原作小説の繊細さ

を映像化することは成り立ったかもしれない。

 

 山内久司・中島丈博が生臭いドラマを探る試みを

感じたが、井上靖原作小説映像版でやることではな

いし、その主旨の乖離はドラマ版の弱体性となって

惹起しているのだ。

 

 原作小説と全く違ったドラマで名前のみ井上靖の

名を借りるという挑戦を為した2007年の映画『茶々

天涯の貴妃』のほうが、1980年の駄作ドラマ『額田

女王』よりましである。

 両作品とも井上靖の透明な文体を映像化する試み

は為せていないのだが。

 

 文学と映像は違う。違うからこそ文学を映像化

する際スタッフは敬虔感情を抱くことが必須の課題

になる。小説や戯曲と同じ物を作ってくれと言っ

ているのではない。舞台・ラジオ・映像で文学と

同じものは絶対に作れません。作者と同じものが

作れると思い込むこと自体傲慢である。文字である

小説や戯曲と人間や人形が演技を為す舞台公演・映

像や声優が語るラジオドラマと違うに決まってるや

ん!

 

 おんなじやったら大事ですがな。本を読まない

人は凄い発想をするね。文学を読まず映像化作品

見聞に拘る人は自身の文学拒否を絶対化し執着し

映像鑑賞のみが全てで文学・映像関係の学びに怒り

を覚えることがあるようだが、自己自身の映像好き

の心に恋している執着への絶対化からの文学憎悪

の露呈なんだろうね。自己愛の殻の中に閉じこもっ

て文学に出会うことを想像するのが怖いんだろうね。

 

 文学・音楽・美術・演劇・ラジオ・映画・テレ

ビは密接に関わり合っている。一つの作品は一つ

のものであるう。これはそうだ。だが唯一性を明

らかにするためには、宇宙の歴史においてあらゆる

ことととの関連性を想像することにおいて明かさ

れていくことを忘れてはいけない。まして文学の

映像化作品一本営みでは直近の根である原作文学

との関係は当然問われるのである。

 

 「小説から映像になった」という道においては

小説を種として映像版の花が咲いたということで

ある。その道のりは出会った者は尋ねる。本作のよ

うに枯れ果てて萎んで腐っているドラマ作品の場合、

種である原作小説の清らかさが一層強く心に染み渡

る。

 

 どうすれば清らかな原作小説をこんなつまらない

ドラマに改悪改竄出来るの?

 

 この問いが42年11か月の時を経て心に迫ってく

る。

 

 山内久司は現代に固執し拘り現代に媚び過ぎ

時代を見誤った。

 

 文楽は現代において毎公演尊い日本浄瑠璃を

尊い技芸で偉大な舞台を現出している。古典文学

を聞き古典に学び古典を尊重する演劇を明かされ

ている演劇人の集いが文楽である。

 

 古典文学から逃げて勝手に改竄する卑劣な

暴挙を為すのは「読み替え」等という詭弁で

許される事ではない。

 

 昭和四十三年・四十四年井上靖文学は昭和五

十五年テレビスタッフにとって大昔の作品では

ないし学ぶ気概があれば学べた筈だ。

 

 文楽に学んでいた川本喜八郎ならば、原作の

透き通った文を映像化したかもしれないと前述し

たが改めて感ずる。

 

 井上靖の文章は繊細で綺麗で物語にも美がある。

 

 1980年のドラマ版は安易な作りで失敗作なのだ

が、映像化の困難性を痛感したことは、逆説的に

小説の清らかな個性を学ぶ契機になった。

 

 

                    合掌