丹下左膳餘話 百萬両の壺 | 俺の命はウルトラ・アイ

丹下左膳餘話 百萬両の壺

『丹下左膳話 百萬両の壺』

(『丹下左膳余話 百萬両の壺』)

 

 

映画 トーキー 90分 白黒

ウェスタン・レトリック Sound System

昭和十年(1935年)六月十五日封切

製作国 大日本帝国

製作言語 日本語

製作会社 日活京都

 

原作 林不忘

脚色 三村伸太郎

潤色 三村伸太郎

構成 山中貞雄

 

音楽  西悟郎

主題歌 『丹下左膳の唄』 

     ポリドール専属 

    東海林太郎

    『お藤の唄』

     ポリドール専属

    喜代三

 

字幕 岡本一鳳

録音 中村敏夫

音響 池内泰三

衣裳 稲次招

美粧 三浦源次郎

結髪・新橋 川端ソヨ

 

剣導 尾上緑郎

監督補 萩原遼

記録 安田公義

撮影  安本淳

編集  福田利三郎

装置  島康平

照明  井上栄太郎

背景 角井喜一郎

 

撮影助手 近藤憲昭  

     福島宏

     中西公宏

     西原英一郎

     竹村三郎

装置助手 織田金蔵

     吉田儀一

録音助手 福島威

 

 

 

出演

 

大河内傳次郎(丹下左膳)

 

喜代三(櫛巻お藤)

 

宗春太郎(ちょび安)

深水藤子(お久)

 

山本礼三郎(與吉)

高勢実勢(茂十)

 

鳥羽陽之助(当八)

花井蘭子(萩乃)

阪東勝太郎(柳生対馬守)

磯川勝彦(峰丹波)

鬼頭善一郎(高大之進)

清川荘司(七兵衛)

高松文麿(おしゃかの文吉)

伊村利江子(矢場の女)

達美心子(矢場の女)

 

沢村国太郎(柳生源三郎)

 

監督 山中貞雄

 

大邊男=正親町勇=西方弥陀六

     =室町次郎=大河内傳二郎

     =大河内傳二郎→大河内傳次郎

     =大河内伝二郎

鑑賞日時 場所

昭和六十三年(1988年)十月四日

京都文化博物館

 伊賀柳生の城主対馬守は資金問題が悩みの

種だ。この国にはこけ猿の壺が伝えられてい

る。対馬守はこの古ぼけた壺の価値が分からず

弟源三郎に与えた。源三郎は司馬道場に婿入り

するので引出物とすればよいと考えた。

 

 老いた家臣一風宗匠は主人対馬守にそのこけ

猿の壺に百萬両を埋めた地図が塗りこめられて

いるという事柄を話した。対馬守は慌てて源三

郎に壺を返して欲しいと頼む。源三郎は使者高

大之進の頼みを断る。源三郎の妻萩乃は壺を屑

屋に売った。

 

 壺はちょび安少年の金魚鉢になっている。ち

ょび安の父七兵衛は矢場の女に惚れて矢場に通

うがやくざと争って命を落とす。

 

 孤児となったちょび安を矢場の用心棒をして

いる隻眼隻腕の剣士丹下左膳とその恋人お藤が

養育する。壺を求める源三郎は矢場で左膳・ち

ょび安と出会った。

 

 ◎陽気で爽やかな喜劇◎

 

 大河内傳次郎(おおこうち・でんじろう)

は明治三十一年(1898年)二月五日福岡県

に誕生した。 

 昭和三十七年(1962年)七月十八日、六十四

歳で死去した。

 

 戸籍上は明治三十一年(1898年)三月五

日誕生だが、傳次郎が強く二月五日誕生を語

ったという。

 

 本名は大邊男(おおなべ・ますお)である。

 

 男(ますお)は大邊晋・アキ夫妻の息子で

ある。

 

 九人兄弟姉妹で五番目の男子で、八番目の

子供であった。早くに父を亡くし、大阪商業

学校に学び会社員として暮らし、新民衆劇学

校において演技を学び後に新国劇に入り、沢

田正二郎に教えを受ける。室町次郎の芸名を

名乗った。

 

 次郎は大正十五年(1926年)の日活入社に

大河内傳二郎と芸名を改めた。

 伊藤大輔監督作品『幕末剣史 長恨』に主演

し主人公壱岐一馬を体当たりで演じた。現存十五

分のフィルムがありブルーレイ化されている。

 

 日活スタッフのミスで、「大河内傳次郎」と

芸名が記された。

 傳二郎は以後芸名に大河内傳次郎を名乗った。

 

 昭和三年(1928年)、原作林不忘・監督伊藤

大輔の映画『新版大岡政談』三篇において隻眼隻

腕の剣士丹下左膳を勤めた。

 

 

『新版大岡政談 第一篇』

昭和三年(1928年)五月三十一日公開

 

『新版大岡政談 第二篇』

昭和三年(1928年)六月八日公開

 

『新版大岡政談 解決篇』

昭和三年(1928年)八月十七日公開

 

 主人公丹下左膳の名を題にする映画『丹

下左膳』が製作され、この企画においても

大河内傅次郎は左膳を演じた。

 

 

 山中貞雄(やまなか・さだお)は明治四十

二年(1909年)十一月八日京都府に生まれ

た。実家は扇子職人で貞雄は六男であった。

京都第一商業高校の一年先輩にマキノ正博

がいた。活動大写真の大ファンだった貞雄

はマキノ映画に入り、嵐寛寿郎プロ、東亜

キネマに移る昭和七年(1932年)二月四日、

嵐寛寿郎プロ製作により監督第一作『磯の源

太 抱寝の長脇差』が封切となる。

 日活は貞雄を招聘する。

 

 前述の通り大河内傅次郎主演の『丹下左膳』

(昭和八年十一月十五日公開)と『丹下左膳 

剣戟篇』 (『丹下左膳 剣戟の巻』昭和九年

三月二十九日公開)が伊藤大輔によって演出

された。

 

 大河内傳次郎主演『丹下左膳』第三作が日活

で企図されたが、伊藤大輔が第一映画に移った。

 日活は代打の監督を山中貞雄に頼んだ。

 

 隻眼隻手の剣士の風貌・設定はそのまま大輔

映画版から継承しつつ、恋人お藤に頭が上がらず

陽気でちょび安少年に優しいおじさんとして丹下

左膳は描かれた。

 

 山中貞雄は陽気で爽やかで楽しい人情喜劇を語

った。

 

 大河内傳次郎の丹下左膳には優しさと暖かさが

光っている。

 

 強烈な眼光を輝かせて走り刀を巡って敵を斬って

斬って斬りまくる剣客暗殺者丹下左膳を見聞してき

た昭和初期・前期の観客が、人の好いおじさんの左

膳に吃驚したことは想像し得る。

 

 原作者の林不忘は丹下左膳のイメージの違いに抗議

したという。これはこれで分かる。林不忘に怒られた

ことは避けられないことでもあった。

 

 大河内傳次郎の優しい左膳は大好評で作品も興行

的にヒットした。

 

 左膳とお藤とちょび安は血縁関係の無い父母・息

子のような関係でその情感がフィルムを暖めた。

 

 山中貞雄の演出に詩がある。

 

 監督作品でほぼ完全な形で現存しているのは三本

で本作は最古の写真である。

 

 明るくて軽やかで詩的で瑞々しい。

 

 昭和十二年(1937年)八月二十五日、監督作品

『人情紙風船』が封切となる。この年山中貞雄は

召集され、帝国軍人として中華民国の戦地に従軍し

た。

 

 

 昭和十三年(1938年)九月十七日中華民国河南

省開封市において死去。数え年三十歳、満年齢二十

九歳。

 

 ノートには「『人情紙風船』が山中貞雄の遺作で

はチトサビシイ。負け惜しみにあらず」と記されて

いた。わたくしは山中貞雄自筆のノートを京都文化

博物館展示で見た。一字一字に力を感じた。

 

 『人情紙風船』は永遠不滅の大傑作と自分は頂い

ている。

 

 だが、山中貞雄自身はこれを自分の遺作にはしない

という闘魂で映画作りに燃えていた。

 

 戦争によって山中貞雄の命が奪われた事に悲しみ

を覚える。

 

 同時に大日本帝国が中華民国を侵略し中華民国の

人々を虐殺し苦しめたことにも深い悲しみを感じる。

 

 

 『河内山宗俊』には切なさ、『人情紙風船』には

悲痛さがある。

 

 『丹下左膳余話 百萬両の壺』は明朗で爽快であ

る。

 

 山中貞雄と大河内傳次郎が組んだ陽気な剣士の

優しさの物語に拍手を送りたい。

 

 

                    合掌