忠次旅日記 御用篇 | 俺の命はウルトラ・アイ

忠次旅日記 御用篇

『忠次旅日記 御用篇』

忠次旅日記

映画 無声 

現存版(『忠次旅日記 信州血笑篇』残存

部分と本作を併せたフィルム)111分 

白黒・染色

昭和二年(1927年)十二月二十七日封切

 

製作国 大日本帝国

製作言語・字幕言語 日本語

製作会社 日活太秦

 

原作 伊藤大輔

脚色 伊藤大輔

撮影 唐沢弘光

助監督 曲川正和

 

出演

 

大河内傳次郎(国定忠次こと長岡忠次郎)

 

中村英雄(勘太郎)

磯川元春(沢田屋喜兵衛)

沢蘭子(お粂)

 

 

村上英ニ(銀次郎)

秋月信子(信夫)

尾上華丈(鷲津の音蔵)

中村紅果(清水の岩鉄)

市川百之助(重吉)

浅見勝太郎(穂積の卯之助)

尾上卯多五郎(お釈迦の源次)

 

 

中村吉次(壁安左衛門)

中村梅之助(捕手勇作)

中村時五郎(老僕嘉十)

尾上多摩蔵(横川の勘八)

市川左雁次(乾分野呂松)

岡崎晴天(板割の浅太郎)

本田繁太郎(松井田の喜蔵)

市川正之助(足利の権蔵)

石井貫治(成塚の三代太郎)

市川百之助(高崎の重吉)

浅尾与昇(野々村宗兵衛)

阪本清之助(三ツ木の文蔵)

嵐亀三郎(老人)

嵐璃左衛門(中山精一郎)


 

伏見直江(お品)

 

監督 伊藤大輔 

 

 ◎

 忠次=国定忠次=国定忠治

   =長岡忠次郎

 

 大邊男=正親町勇=西方弥陀六

     =室町次郎=大河内傳二郎

     =大河内傳二郎→大河内傳次郎

     =大河内伝二郎

 

 

 澤靜子=松本静子=松本志づ子

    =泉蘭子=泉らん子=澤らん子

    =澤蘭子

 

 伏見直枝=藤間照子=霧島尚子

     =伏見直江

 

 伊藤大輔=伊藤葭=呉路也

 ◎

 鑑賞日時場所

 

 平成十五年(2003年)十月三十一日 

 京都文化博物館 完全無声版

 

 平成二十四年(2012年)十月七日

 京都文化博物館活弁版上映

 ◎

 感想文では物語の結末に言及します。

 

 本作は十月二十三日・二十八日・二十

九日シネ・ヌ―ヴォで上映されます。

 

 鑑賞御予定の方は本篇ご見聞の後に拙

感想文を御覧頂きますようお願い申し上

げます。

 

 未見の方もご注意下さい。

 ◎

 

 忠次は酒造り問屋沢田屋喜兵衛の好意

で番頭として勤務し、やくざの素性隠し

定吉と名乗って暮らしている。

 

 沢田屋には、息子銀次郎と娘お粂がい

た。銀次郎は大店の放蕩息子で遊びと博

奕に明け暮れ金遣いが荒い。

 

 お粂は美しくて純真な娘で定吉を一途

に愛している。

 

 定吉こと忠次は女性からの封書を貰っ

てびっくりする。身に覚えがないのだ。

父親喜兵衛に叱られることを恐れた銀次

郎が定吉の名を借りて、馴染みの女に宛

名として用いるように工作したことを告

げられ、忠次は更に驚き銀次郎の放蕩に

対する不安が増す。

 

 喜兵衛は、遊びや酒はともかく博奕だ

けはいかんと厳しく叱責するが、銀次郎

が真剣に反省しているとは思えない。

 

 お粂は兄が信夫という女郎と交際して

ることを知る。

 酒樽の前でじっと考え込んでいると父

喜兵衛に呼ばれ驚く。恐らく、愛しい定

吉を思っていたのであろう。

 

 銀次郎は信夫を身請けし二人で所帯を持

ちたいと真剣に考える。定吉は遊びの世界

には深入りしないようにと若旦那に忠告す

る。

 

 ある日の庭。

 

 

 お粂は恋心を思い切って定吉に告白する。

 

 だが、定吉こと忠次は感謝しつつも断る。

やくざはお嬢様を幸せに出来ない存在であ

る。

 

 

 お粂は定吉が長岡に恋人がいたことを知

っていた。しかし、やくざの正体迄はこの

時知らなかった。

 

 確かに忠次には愛人お品がいた。

 

 青春をかけた恋に破れたお粂は笑って

走る。

 

 

 定吉こと忠次は苦悩のあまり顔を覆う。

 

 

 子供達が現れて、定吉こと忠次を囲ん

で「かごめ」を歌いだす。

 

 

 銀次郎は信夫を身請けするが、鷲津の

音蔵の罠に嵌る。音蔵は情婦信夫の手引

きで籠を襲って金を盗んだ。

 

 その後、音蔵は沢田屋の番頭定吉の正体が

国定忠次であることを知る。

 

 

 

 

 音蔵はしゃっくりに悩みながら定吉こ

と忠次と対面する。乾分衆に背後から忠

次を斬るように指示しているが、その暗

殺計画については勿論忠次に見破られて

いる。

 

 定吉こと忠次の貫録に音蔵は圧倒され

る。忠次は銀次郎から奪った金を取り返す。

 

 定吉の活躍で銀次郎は金を奪還できたが、

沢田屋番頭の正体が国定忠治と知られた以上、

音蔵が役人に密告するのは十分に予想され

る事柄なので、沢田屋一家に迷惑がかかるこ

とを恐れて、定吉こと忠次は喜兵衛に挨拶

する。

 

 ところが、お粂は恋の嫉妬からか、忠

次の刀を取り上げて走り去ってしまう。

喜兵衛が娘を追う。

 

 定吉こと忠次は沢田屋に捕手が迫って

きたことを知り、逃げようとするが、裏

口でお粂の簪が落ちていることを知る。

 

 父喜兵衛は忠次への義理から、刀を取

り返す為に、最愛の娘お粂を刺殺してし

まったのだ。

 

 忠次は自身の逃走の為に、無垢の娘お

粂を犠牲にしてしまったことに苦悩煩悶

する。

 

 喜兵衛は最愛の娘を斬ったことに激し

く悩むが、義理ある忠次の逃走を助けよ

うとする。

 

 音蔵一家の手引きで数多の役人が押し

寄せ忠次を追う。

 

 

 忠次は「斬りたくないと 云ッてゐ

るのに 無理にも忠次に 斬らせるのか」

と役人衆・音蔵一家に問うが、斬りかか

ってくる彼らに応戦し、音蔵との決戦で

彼を斬り、捕手の包囲網を突破する。

 

 だが、沢田屋喜兵衛は命を落とす。

 

 

 失意の忠次は逃走の道程で中風に苦しむ。

 

 

 忠次は中風に苦しみながら道中を歩み郷

里上州赤城に到着する。

 

 沼田の壁安分店は国木綿の卸問屋だ。壁

安左衛門が勘太郎の為に暖簾分けしてくれ

た店である。

 

 子供達が「かごめ」をして遊んでいる。

 

 赤ん坊を背負っていた女の子が男の子を

呼ぶ声を忠次は聞く。

 

 「勘ちゃんもおいでよ!」

 

 店内で帳簿を習び学んでいた勘太郎が

出てくる。

 

 忠次は愛しい勘太郎の姿を見て感極ま

るが、やくざの自分が姿を現すことを秘

めて三度傘で顔面を隠す。

 

 勘太郎をはじめ子供達は捕物ごっこの

遊びを始める。

 

 子供達は勘太郎に縄をかける遊びをす

る。

 

 勘太郎は顔を隠しているおじさんが忠

次とは知らずに捕物ごっこの刀として杖

を貸して欲しいと頼む。

 

 愛しい勘太郎に名乗りを挙げ抱きしめ

たいが、やくざの自身が顔を出すことも

名乗ることも控えるべきと思い対面の願

いを堪える。

 

 勘太郎は顔を隠している男が忠次と全

く気が付かに杖を貸して欲しいと重ねて

頼み込む。

 

 杖の上で忠次の手に勘太郎の手が触れる。

 

 杖は忠次の手を離れ勘太郎に握られる。

 

 子供達は遊ぶ。捕方達が現れる。

 

 勘太郎が杖を小松五郎に見立てて遊ぶ

姿を見て、役人達は笑う。

 

 忠次は楽しそうに捕物ごっこに遊ぶ勘

太郎の姿を見て、「勘太郎!達者で暮ら

せよ・・・・・・」の心で立ち去って行

く。

 

 役人が忠次の姿に不審を感じて後を追う。

 

 

 山道で中風に苦しみながら、忠次は「俺

は、なぜ、勘太郎を手放したんだろうな」

と自問する。

 

 捕方につけられるが忠次の心には愛しい

勘太郎が浮かんでは消える。

 

 勘太郎の幻影が現れて、忠次はその姿を

追うが、勘太郎を抱きしめることは成り立

たない。

 

 捕方の一人に「勘太郎を何処へやった?」

と聞き、捕方が咄嗟の判断で「山の上で遊

んでゐましたよ」とでまかせを言うと、忠

次は山上へ行ってしまう。

 

 忠次はかごめの幻影を見てその中に勘太

郎を発見して抱きしめるが、これも勿論幻

影であり、実際に抱きしめることは成り立

たない。

 

 中風の痛苦を耐えながら勘太郎の幻影を

追う忠次の心身は疲労し捕方達に捕縛され

る。

 

 飯屋では忠次の乾分の岩鉄と重吉が料理

を作っている。

 

 

 重吉が調理法を教えるが岩鉄はそれを覚

えるのがいかに難しいかを語る。

 

 客の会話から、二人は「忠次親分が捕え

られたようだ」という情報を察知して十手

を預かっている仲間の穂積の卯之吉に情報

を聞き出そうとする。

 

 子分達は役人達から忠次を奪還する。

 

 

 お釈迦の源次は釈迦堂において役人達か

ら脅かされるがびくともせず大胆に言い返

す。

 

 忠次は印籠を源次に渡す。

 

 

 役人達の襲撃を受けて源次は命を落とす。

 

 

 乾分達は忠次親分を守り戸板に乗せて国定

村を目指して川を渡る。

 

 

 国定村においてお品は忠次を待っていた。

 

 乾分衆に戸板に乗せられて病身の忠次が帰

ってきた。愛しいお品のもとに帰ってこれた

のだ。

 

 お品も恋しい忠次に再会し地面に膝をつき

両手を揃えて挨拶する。

 

 忠次は会話も苦しくなり、指の文字をお品

の手に書いて自身の意志を知らせる。

 

 水ごりの後お品は匿名の男から一通の手紙

を受け取る。

 

 

 蔵の中。

 

 

 お品は、板割の浅太郎・三ツ木の文蔵・成

塚の三代太郎・高崎の重吉・穂積の卯之助・

足利の権蔵・清水の岩鉄を集める。

 

 「この中に裏切者がいる」とお品に指摘さ

れ乾分衆は驚く。

 

 

 お品は忠次の金看板「人は斬っても乾は斬

らぬ」を確かめ、裏切りをしたのかどうか一

人一人の心に厳しく問う。

 

 乾分衆は自分が疑われているのではないか

と思い怯えている。

 

 お品が「裏切り者の 名が知れたよ!」と

語ると、卯之助が立ち上がり、お品の拳銃に

撃たれる。

 

 茶を運びに来た老人は恐怖の余り震えが止

まらない。

 

 

 老人が上がってきたので一芝居思いついた

お品の計略に裏切者の卯之助が引っかかった

のだ。

 

 井戸の底に暮らしていた忠次を乾分衆が

土蔵に身柄を移す。

 

 だが、役人が押し寄せて来る。乾分衆は防

戦するが大勢の捕方に捕えられていく。

 

 遂に忠次とお品が役人中山精一郎率いる捕

方達に囲まれる。

 

 中山は紳士的に落ち着いた態度で忠次に縛

につくことを諭す。

 

 完全に包囲された忠次とお品は承服する。

 

 

 お品は忠次の手に縄を巻き、「お役目、ご

苦労様にございまする」と中山に挨拶する。

 

 忠次は縛につき捕えられた。

 

 ◎苦悶するやくざ 忠次◎

 

 

 伊藤大輔は明治三十一年(1898年)十月十

三日愛媛県に誕生した。

 

 昭和五十六年(1981年)七月十九日時西陣病

院において八十二歳で死去した。

 

 少年時代より文学・演劇に熱中し文章を雑

誌に投稿した。伊藤葭(いとう・よし)は少

年時代のペンネームである。内村鑑三の紹介

で知遇を得た小山内薫に自作の戯曲を送って

添削指導を乞うた。

 

 呉の海軍工廠勤務時代には、マクシム・ゴー

リキーの戯曲『どん底』を上演し、ワシカ・ペ

ペル役を勤めたという。

 小山内薫に招かれ、東京に行き、活動大写真

の脚本を書く事を勧められる。大正十一年(19

20年)十一月二十四日、松竹キネマ蒲田製作、

伊藤大輔原作・脚本、小谷ヘンリー監督の活動

大写真『新生』が公開される。

 

 

 大正十二年(1923年)七月一日公開、松竹

蒲田公開、脚本伊藤大輔、監督野村芳亭の映画

『女と海賊』が公開される。この脚本を大輔は

「新時代劇映画」と名付け、これ以後現代から

見て昔の物語を語る作品は、「時代劇」と呼ば

れるようになっていった。

 

 大正十三年(1924年)五月一日公開、帝国

キネマ演芸芦屋撮影所製作『酒中日記』は、

伊藤大輔にとって最初の監督作品である。

 

 残念なことに、大輔が大正時代に脚本・監

督を勤めた作品のフィルムの殆どは現存して

いない。

 

 伊藤映画製作所を作り、直木三十五の聯合

映画芸術家協会と提携する。この時大輔の指

導を仰いだ少年俳優が稲垣浩である。伊藤映

画製作所・聯合映画芸術家協会の経営は苦し

く、電気代・ガス代の払いも苦しくなり、木

の実を食べていたと大輔は後に語った。

 

 

 大河内傳次郎(おおこうち・でんじろう)

は明治三十一年(1898年)二月五日福岡県

に誕生した。

 

 

 昭和三十七年(1962年)七月十八日、六十四

歳で死去した。

 

 戸籍上は明治三十一年(1898年)三月五

日誕生だが、傳次郎が強く二月五日誕生を語

ったという。

 

 本名は大邊男(おおなべ・ますお)である。

 

 男(ますお)は大邊晋・アキ夫妻の息子で

ある。

 

 九人兄弟姉妹で五番目の男子で、八番目の

子供であった。早くに父を亡くし、大阪商業

学校に学び会社員として暮らし、新民衆劇学

校において演技を学び後に新国劇に入り、沢

田正二郎に教えを受ける。

 

 大輔は日活に入社し、国定忠治の企画を提

出し、無頼漢忠次を描きたいと提案する。「重

役さん」と呼ばれた大スタア尾上松之助が当た

り役にした国定忠治を無頼漢として描く等け

しからんと日活首脳部は叱責する。

 

 新国劇の舞台を鑑賞していた大輔は、室町次

郎という凄い役者が居るので、彼の主演で『月

形半平太』を撮りたいと提案する。当時室町次

郎の名を知らぬ日活首脳部は難色を示す。大輔

は次郎主演で『月形半平太』の内容をひっくり

返す形で『幕末剣史 長恨』を企画する。

 

 

 次郎は大正十五年(1926年)の日活入社に

大河内傳二郎と芸名を改めた。

 伊藤大輔監督、大河内傳二郎主演で幕末の

志士壱岐一馬の生と死を語る活動大写真『幕末

剣史 長恨』が製作された。ところが、傳二郎

の芸名が日活スタッフのミスで、「大河内傳次

郎」と記された。

 傳二郎は以後芸名に大河内傳次郎を名乗った。

 

 十一月十日公開説と十一月二十日公開説があ

る『幕末剣史 長恨』は、ラスト15分の壱岐一

馬の壮絶激烈な死闘の殺陣を映すフィルムが現

存している。

 

 

 『幕末剣史 長恨』における大河内傳次郎の

名演を演出した功により、日活首脳部は遂に大

輔に忠次物語映画化を許可した。

 

  

 昭和二年(1927年)大輔・傅次郎コンビは

『忠次旅日記』三部作を発表する。

 

 

『忠次旅日記 甲州殺陣篇』は三月十日、『忠

次旅日記 信州血笑篇』は八月十四日に公開さ

れた。日活大将軍で製作された。

 

 

『忠次旅日記 甲州殺陣篇』は英雄忠次を描く

ようにとの日活の注文があり、妥協で撮った大

輔は後にフィルムを廃棄してしまった。一分版

の断片のみ現存していると言われている。一分

版を自分は未見なのだが、『ちゃんばらグラフ

ティー 斬る!』で『忠次旅日記』の題で引用

されたものと同一版であると思われる。

 

 

 戦後『信州血風編』『御用篇』のフィルムの大

部分も消失しまい、『忠次旅日記』は昭和戦後

には、「幻の大傑作」と語られるようになった

のである。

 

 

 昭和五十・六十年代、平成元・二年の映画フ

ァンにとっても、『忠次旅日記』は「幻の名画」

であった。

 

 平成三年(一九九一年)、『忠次旅日記』の

「信州笑篇」と「御用篇」の部分映像111分版が

広島で発見され、佐伯知紀の尽力により復元され

た。

 

 平成十五年(二〇〇三年)十月三十一日に京都

文化博物館の「KYIOTO映像フェスタ」において

『忠次旅日記』復元版を鑑賞し大感激した。

 

 平成二十四年(二〇一二年)十月七日、第八

回京都映画祭で、『忠次旅日記』デジタル復元

111分版が井上陽一の活弁で上映され、九年ぶり

に鑑賞し新たな大感激を覚えた。

 

 大河内傳次郎は人間忠次の苦悩を体当たりで

熱演する。仲間の遺児勘太郎少年を堅気に育て

るという課題に燃える忠次は義理を他者に尽く

す。だが、その優しさが裏目に出てしまい、自

他共に傷つき、忠次は激しく苦悩する。

 

 

 「御用篇」の番頭定吉として暮らす忠次の物

語は哀愁がある。

 

 定吉を名乗る忠次の繊細で涼やかな二枚目ぶ

りを大河内傳次郎が豊かな色気で魅せる。意外

と言っては失礼なのだが、逞しい大河内傳次郎

は優美な二枚目役者でもあるのだ。

 

 

 沢田屋番頭としての暮らしは、血生臭いやく

ざの斬り合いの世界からしばらく距離を置き、

堅気の堅実さで落ち着くものとなっていた。

 

 だが、若旦那銀次郎が、「定吉」の名を騙

って手紙の宛名に用いたことから、忠次は再

び「闘争」の世界に巻き込まれていく。

 

 沢田屋の物語は「名」がもたらす悲劇でも

ある。

 

 

 お粂は番頭定吉を慕っていたが、やくざ

国定忠治は美しいお嬢様の告白を受けられ

ない。

 

 

 沢蘭子は明治三六年(1903年)七月二十五

日に宮城県仙台市に誕生した。

 本名を澤靜子・松本静子・松本志づ子、別

芸名を泉蘭子、泉らん子、澤らん子、澤蘭子と

申し上げる。

 無声映画のスタアで満年齢二十四歳のお粂

役の美貌は輝いている。清らかな娘お粂の一途

な恋心を鮮烈に表した。

 平成十五年(2003年)一月十一日、九十九

歳で死去した。

 

 

 

 伊藤大輔の時代劇映画を弟子の加藤泰が研究

・編集した著『時代劇映画の詩と真実』は、伊

藤著・加藤編の書として、昭和五十一年(197

6年)四月十四日にキネマ旬報社から出版され

た。

 

 伊藤・加藤師弟対談が行われ表記では、「先

生」「泰」と記されている。

 昭和四十六年(1971年)八月十八日に行われ

た師弟対談は「新鋭監督時代」で、『忠次旅日

記』の時代が語られる。

 

  泰  それから、この間にあの有名な「忠次

     旅日記」三部作ですかね。この「忠次

     旅日記」は少し見てるんです。戦後です

     けども京極の花月劇場で映したんです。

     それをぼくは見てるんです。

 

  先生  第一部の「甲州殺陣篇」というのはあり

     ませんよ。私が「三部作」の再編集をし

     た時に捨てっちまいましたから。「信州

     血笑篇」と「御用篇」だけです。その前

     に、松之助さんが死ぬ一年前に、忠次を

     やっているんだね。たいへんな仁侠もの。

     だから、大株主の〝重役さん〟、当時、

     日活では尾上松之助丈を屋号の音羽屋と

     も、本姓の中村さんとも呼ばず、上下ひ

     としく〝重役さん〟と呼んでいた。その

     偉い俳優さんが主演した、仁義に富んだ

     忠次映画から、まだ日も浅いのに、無頼

     漢の忠次映画とは何ごとだと横槍が出て、

     仕方なしに「血笑篇」と「御用篇」のテ

     ーマだけは残して、まず最初に「甲州殺

     陣篇」という無意味な立ち回りを撮った

     んです。その立ち回りが当たったんで、松

     之助さんも病没されたことでもあるし、ま

     あ続けてあともやれということで・・・・

     ・・。そんな時代の産物でしたよ、あの忠

     次は・・・・・・。どんなところをご覧に

     なったの?

 

 泰   ちぎれちぎれになって、どこだといっても

     困っちゃうんですが。そうですね、何か伏

     見あたりの大きな酒倉のそばに樽がありま

     して、そこに忠次が立っていて、娘がやっ

     て来る、そんなとこが記憶に残っています。

 

 先生  灘の冨久娘の倉庫です。

 

 

 (『時代劇映画の詩と真実』 80頁)

 

 

 

 加藤泰は、戦後に『忠次旅日記』を見たことを

語る。大輔先生は、大正・昭和の日活において、

尾上松之助丈が〝重役さん〟として尊崇されてい

たことを確かめる。

 

 『忠次旅日記』が無声時代劇映画の革新的表現

を成し遂げたという評価に自分も賛同するけれど

も(現存している一一一分版のみを見た者の意見

であるが)、伊藤先生にとって、尾上松之助丈へ

の敬意も忘れてはいけないと思う。

 

 尾上松之助は歌舞伎役者・映画俳優・映画プロ

デューサー・映画監督であるが、日本芸能の歴史

における巨星でもある。

 

 生涯に千本の映画に主演するという偉業を為し

遂げた。

 

 

 

 その偉大な〝重役さん〟が愛されて主演した忠

次映画を、敬愛をこめて、「無頼漢」として描く

という伊藤の試みに対して日活は厳しい視線を向

けていた。

 

 「甲州殺陣篇」で立ち回りの描写で興行的に

ヒットさせて、ようやく「信州血笑篇」と「御

用篇」の企画が通り、苦悩する存在として忠次

を描く物語が産みだされた。

 

 

 昭和四十六年の加藤泰の記憶に残っている

『忠次旅日記』は「何か伏見あたりの大きな

酒倉のそばに樽がありまして、そこに忠次が

立っていて、娘がやって来る」というシーン

は、この「御用篇」の定吉こと忠次とお粂の

物語だ。

 

 「伊藤先生」はこのシーンを灘で撮ったこ

とを確かめる。灘は酒造りの名所でもある。

 

 

 酒樽を背景に微笑むお粂。

 

 定吉に扮する大河内傳次郎の演技も凄い。

忠次の親分の貫録とは別の顔を見せる。堅

気の真面目な「番頭さん」に見える。

 

 定吉こと忠次が「身を引いて遠慮した」

というこころが、結果的にお粂に悲劇を惹

起せしめる。

 

 伊藤大輔にとって、ウィリアム・シェイ

クスピアの戯曲『ハムレット』は、愛読の

作品であった。

 父王の亡霊から復讐の課題を授けられ、

本心を隠し乱心を装うハムレットは復讐

戦の準備を慎重に進めるがよかれと思って

為した事が自他を傷つける。

 

 やくざ長岡忠次郎という真の顔を秘めて

番頭定吉という堅気の姿を装い周囲の人々

を守ろうとして真面目に勤め気を遣った事

が悲劇を呼ぶ。

 

 煩悶する忠次の人間像と共に善意や努力

が悲しみを惹起してしまう作劇は、大輔が

『ハムレット』から学び取ったものの反映

ではないかと推察する。

 

 

 

 失恋の悲しみからお粂が走り去った後、童

たちが現れて定吉を囲んで「かごめかごめ」

を歌い歩みだす。

 

 切なさの後にくるほのぼのとした光景が

映る。牧歌的な優しさが溢れている。

 

 あどけない児童達の姿に伊藤大輔は自身

の幼年時代を想ったか?

 

 

 

 

 やくざ音蔵を勤めるのは名優尾上華丈で

ある。

 しゃっくりが止まらないことに悩みつつ、

忠次を襲撃しようと狙うが、忠次の風格に

圧倒されてしゃっくりが止まるという構成

にも、伊藤のユーモアのセンスの輝きが光

る。

 

 大河内傳次郎は「御用篇」公開時は満年

齢二十九歳の若さだが凄みと重量感は圧巻

である。

 

 忠次は自身の正体が露見したので、沢田

屋に挨拶して去ろうとするが、嫉妬のあま

りお粂は刀を奪ってしまう。

 

 銀次郎・信夫の恋路を成就する為に尽力

した忠次だが、お粂のこころを傷つけ、沢

田屋一家に大きな悲劇が起こることを止め

られない。

 

 義理から喜兵衛が最愛の娘お粂を斬る場

面は痛ましい。

 

 

 忠次は「わたくしが御厄介になったばっ

かりに、お粂様が命を落としてしまった」

という自責の思いで激しく悩み苦しむ。

 

 恐らく彼のこころには、自己否定の気持

ちが迫ったことであろう。

 

 迫り囲繞してくる捕手と音蔵一家の攻撃

に対して、忠次は闘争への悲しみを述べる。

 

 

   「斬りたくないと 

   云ッてゐるのに 

   無理にも忠次に

   斬らせるのか」

 

 父が娘を斬るという悲劇から刀を経て、再

びわが手に戻した忠次は深い痛みを抱き、「も

う流血は嫌だ」という心を確かめているが、襲

いかかってくる捕手・音蔵達を相手に応戦して

しまい、音蔵を斬る。

 

 「斬りたくない」のに、襲われたので「斬っ

て」しまうという事態にやくざ忠次の悲しみが

ある。

 

 自衛が理由であっても、兇状持ちは、斬り合

いをする存在であり、それ故に社会から厳しく

叱責されている。

 

 平和を願っていてもその心は潰れ、全く逆に

血を流し、他者の生命を奪ってしまう。

 

 ここに、伊藤大輔が見つめていた「悲劇」が

ある。

 

 「斬りたくない」」と願っている存在が、何

故戦わねばならないの

か?

 

 この問いは、伊藤大輔監督にとって重要なテ

ーマであった。

 

 

 そして、恩人の喜兵衛も命を落とし、忠次の

自責の心と罪悪感はますます強くなる。

 

 伊藤大輔は義理・家族愛・喜劇の心を鏤め

ながら、壮大な悲劇を織り成した。

 

 

 罪の痛みで忠次は悩み苦しむ。

 

 その心の激痛に加えて、中風の病がまた起

こった。

 

 大河内傅次郎が中風の苦痛を堪える忠次を

熱く探求する。

 

 奈良時代水道・ガス・電気の料金が払えず

木の実を拾って食べたという大輔の苦闘時代

が忠次苦悶探求に反映している。

 

 心身両面において忠次は悲痛さに苦しんで

いたのだが、その中で彼を支え、生きる事の

支えになっていたのは、勘太郎への愛だった。

 

 罪の意識から可愛がり、立派な堅気の少年

になって欲しいと願っていた勘太郎に対して、

いつしか忠次は深い親子愛を感じるようにな

っていく。

 

 血の繋がりのない子に対して、親子の絆を

確かめていく。

 

 ここに伊藤大輔映画の重要なテーマがある。

 

 主人公が、血の繋がりのないひとに対して、

親子の愛情に覚醒するというテーマは、伊藤

映画においてその後も問われることになる。

 前の段の沢田屋の樽の前の子供達の「かご

め」遊びも情感豊かで可愛らしくて暖かいシ

ーンだが、壁安分店前の子供達の「かごめ」

は優しさが極まりを示す。

 

 やくざの忠次はその子供達を見て名乗るこ

とも、顔を出すこともできない。

 

 愛しい勘太郎を見ても名乗って挨拶するこ

とを抑えなければならない。

 

 ここに愛しさと切なさが大きく迫る。

 

 堅気とやくざは明確に世界が違うというこ

とが厳しく示される。

 

 この描写は、後の戦後の股旅映画・やくざ

映画にも大きな影響を与えていることを思っ

た。

 

 

 勘太郎が、仲間の子供達と捕物ごっこを

することにも、追われる身の忠次には、辛い

ものがあったと思う。

 

 ここにも劇中劇を鮮やかに語ったウィリア

ム・シェイクスピアの作劇術からの学びが

窺える。

 

 小松五郎に見立てるおもちゃとして杖を男

に借りようとする勘太郎。

 

 その顔を隠す男が恩人国定忠次とは知らな

い。

 

 忠次は勘太郎を見つめ勘太郎はそのことに

全く気付かずに遊ぶ。

 

 観客は知っているが勘太郎坊やは知らない。

 

 

 顔を隠す忠次。

 

 無邪気に遊ぶ勘太郎。

 

 

 ふたりの手が杖において触れ合う。

 

 

 伊藤大輔はここで杖に触れ合う忠次の

手と勘太郎の手をアップで映す。

 

 無声フィルムが忠次の万感の父性愛を

語る。

 

 これほど深い切なさと暖かい愛に満ち

た表現を他に知らない。

 

 勘太郎の「捕物ごっこで遊びたい」と

いう気持ちの為に忠次は杖を放す。

 

 忠次が自身の生涯を勘太郎の幸せの為

に捧げる無償の愛が杖に触れ合う手と手

の場面に結実している。

 

 自分の思いや名乗りや気持ちを秘めて

愛する勘太郎に全てを捧げる。

 

 勘太郎が幸福であれば忠次は嬉しいの

だ。

 

 中村英雄が可愛さを見せる。人生の大

先輩に対して失礼な物言いになるが、可

愛さは輝いている。

 

 自身の為したことを、自分の口や文字

で誇ってしまうことを抑え控える気持ち

と通ずるものを思った。

 

 

 とはいえ忠次には勘太郎への親子愛が

熱くある。

 

 その気持ちを抑制することへの切なさ

がない訳ではない。

 

 

 だが、追われている身という厳しい現

状が彼に迫っていた。

 

 

 

 「勘太郎!達者で暮らせよ・・・・・・」

の言葉に、忠次の主題がこめられ凝縮され

集約されている。

 

 『忠次旅日記』における長岡忠治郎は

この一語の為に自己の生涯の情熱を燃や

したのだ。

 

 映画ではこのシーンが、忠次にとって

勘太郎と出会う最後の機会となる。

 

 

 身を隠しながら相手の幸を祈る。

 

 伊藤大輔の愛の表現は海のように深く

大きく広い。

 

 

 

 大河内傳次郎の渾身の熱演が忠次の無償の

愛を鮮やかに明かす。

 

 

 忠次が愛しい勘太郎を求めて、その幻影を

見るシーンに切ない。

 

 

 心身の苦悩・苦痛が迫ると共に勘太郎に会

いたい気持ちも強くなる。

 

 その心身の痛みに悩む忠次に役人・捕方の

手が迫る。

 

 

 このあたりから大河内傳次郎は表情と視線

で忠次の苦渋と苦悩を深く表現する。

 

 

 

 重いドラマが続いているところへ、重吉

と岩鉄の会話が笑いの場となり、ほっと一

息つかせてくれる。

 

 重吉と岩鉄は卯太郎の協力で役人達から、

忠次の身柄を奪還し、親分をその愛妾お品

が待つ国定村へ向かおうとする。

 

 乾分源次が忠次を守ろうとして、役人達

と戦って斬られてしまう。

 

 

 後半は戸板に乗って暮らす忠次が乾分

に支えられる姿を映す。

 

 

 心身共に苦しむ忠次だが仲間達の励まし

によって、郷里に帰ろうとする。

 

 子分達が身の危険を顧みず、親分忠次を

救い守り抜く物語に感動した。

 

 忠次がいかに乾分衆から深く愛されて

いるかを示している。

 

 

 伊藤大輔の忠次に対する敬愛が、脚本・

演出の根底にある。

 

 

 

 伏見直江(ふしみ・なおえ)は明治四十

一年(1908年)十一月十日に生まれた。

 本名は伏見直枝で、別名義に藤間照子・

霧島直子がある。

 昭和五十七年(1972年)五月十六日に

七十三歳で死去した。

 

 満年齢十九歳・数え年二十歳でお品役

を勤めた。

 

 お品の愛が病身で戸板に乗って暮らす

忠次を支える。

 

 裏切り者の探索は、ミステリーのムー

ドが溢れている。

 

 

 『忠次旅日記』は様々なシチュえーシ

ョンのドラマが鏤められている。

 

 大輔は推理ドラマの名手でもある。

 

 

 

 お品が鋭い眼力で乾分衆の忠誠を問

う場面に緊張感が溢れる。

 

 

 

 観客の心には、「一誰が裏切ったの

か?」という問いが起こる。

 

 伏見直江の迫力は凄まじい。

 

 

 怖さも凄まじいが美貌の妖艶さも

強烈である。

 

 

  美しく姐さんの探索・捜索である。

 

 

 「裏切り者がわかった」と聞いて卯之助

が逃げて品の作戦にひっかかり墓穴を掘る。

 

 

 お品は拳銃で卯之助を粛清する。

 

 

 かつて、忠次の為に尽力していた卯之助

が忠次を裏切っていたということに怖さを

感じる。

 

 大輔は人間の心の移り変わりの速さを

見つめる。

 

 忠次は逃走先を井戸の底に位置付けて暮

らす。

 

 大輔は幼年時代預けられた叔母の家で生

活に必要な水量を決められ井戸から水を汲

んで運んだ。

 

  炊事・飲料・清掃・入浴などの用とし

  て最初は手桶三杯と定められた。

  その井戸の深いこと、釣瓶の重いこと。

  綱をたぐる腕がなえて途中で一休み、二

  休みしなければくみ上げられない。厳冬

  には綱が氷の棒になってツルツルすべり

  手は凍傷に破れた。つらさに泣いた日も

  あろうが、不平不満に思ったことはない。

  子ども心に当然の日課と受け入れていた

  のだと思う。

 (『時代劇映画の詩と真実』 12頁)

 

 幼年期より鶴瓶を引いて井戸から水を汲み

生活用水を運んだ事は映画監督時代に井戸を

鋭く映す演出に結実した。

 

 大輔映画には井戸が印象的に映っている。

 

 

 

 井戸の底で暮らす忠次は中風に悩み身体を

思うように動かせず刀を持つことさえ厳しく

なった。

 

 大河内傳次郎が鬼気迫る名演を見せる。

 

 お品と乾分衆は忠次を守るが役人に囲まれ

た。

 

 中山の情ある言葉に触れて忠次とお品は遂

に捕らわれる事を決める。

 

 

 

 戸板に乗り心身は疲労し病に苦しむ忠次は、

逃走を続けられない。

 

 忠次は捕らわれた後に処刑される。

 

 

 観客はそのことを知っている。

 

 

 映画では、役人達に捕らえられ全ての裁

きを甘受する忠次の心を静かに見つめる。

 

 大いなる愛の心を以て熱く人生を生きき

った男。

 

 

 それが『忠次旅日記』の国定忠次こと長

岡忠治郎・長岡忠次郎であった。

 

 

 伊藤大輔の国定忠次への敬愛の心が源

となって、人物像が描かれ、大河内傳次

郎が渾身の熱演で、演出の指導に応えた。

 

 

 大河内傳次郎は忠次の名演により日本

無声映画のトップスタア・大名優として

の地位を極めた。

 

 時に数え年三十歳、満年齢二十九歳

の若さであった。

 

 

 だが、大河内傳次郎は明治三十二年(一

八九九年)生まれと自身のプロフィールを

一年若くして発表した。

 

 これは、自身を抜擢し指導した伊藤大輔

に敬意を表し、彼より一年年少の者として

自身を位置付けた。

 

 

 

 時代劇役者が監督の知遇の恩に応える為

に同年であっても自身を一歳年少の身とし

て兄事する。

 

 こうした絆が時代劇の根底にあること

を思った。

 

 義を貫こうとして選んだ行為は全て裏目

に出て自他を傷つけ心身共に苦悩しつつ愛

する童の幸福を祈り歩んで逃走先で戦いを

終える。

 

 敗北の美学を尋ねた熱眼熱手の人伊藤大

輔の情熱に大河内傳次郎が応えた。

 

 伊藤大輔の演出と大河内傳次郎の至芸がフ

ィルムにおいて呼応し、忠次の生き方を明

かした。

 

 

 『忠次旅日記』の生命は永遠である。

                

                

 伊藤大輔生誕百二十四年・百二十四歳誕生日

 

 令和四年(2022年)十月十三日

 

 

                  合掌

  

 

               南無阿弥陀仏

 

 

  十月十三日二十三時追記

 

 
 
 

 本日出勤前に蓮華寺にお参りし

 伊藤大輔監督の墓に合掌し、

 『忠次旅日記』を命の映像と

 頂く事を報告した。

                 セブン