ある映画監督の生涯 溝口健二の記録 書籍版 | 俺の命はウルトラ・アイ

ある映画監督の生涯 溝口健二の記録 書籍版

『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』

新藤兼人著

昭和五十年(1975年)四月二十日 初版発行

株式会社映人社

 

みぞぐち

 溝口健二は明治三十一年(1898年)五月

十六日に東京市に誕生した。

 昭和三十一年(1956年)八月二十四日、京

都市において死去した。

 映画監督として数々の作品を発表した。演出

や脚本については厳しかった。ハラスメントや

虐めは強烈であったと伝えられている。

 傲慢さや臆病さを一切隠さなかったこともよく

知られている。

 完全主義で非妥協の撮影を貫いた。映画が尊い

藝術であることを明かした。その道の最大の功労

者であることは間違いない。

 

 

 新藤兼人は明治四十五年(1912年)四月

二十二日広島県佐伯郡石内村に誕生した。

 本名は新藤兼登である。昭和九年(1934年)

新興キネマに入った。後に溝口健二に学んだ。

 映画監督・脚本家として日本映画・日本テレ

ビドラマの歴史を支えた。

 平成二十四年(2012年)五月二十九日、百

歳で死去した。

 

 新藤兼人が師匠溝口健二の生涯を尋ねる。溝

口健二映画のスタア俳優と裏方のスタッフ計三

十九に取材し証言を聞いた。

 「溝口健二の青春は、遊郭と売春婦と酒であった

ようだ」(3頁)と兼人は推測する。女性問題に関

しては遊びまくったことを数々の記録が語ってい

る。

 この青春のお遊びの道が、『西鶴一代女』のお

春に代表される女性の悲の探求に繋がったのでは

ないか?

 

 新藤が溝口健二記録製作で取材し対談した芸能

人は次の三十九人である。

 

 

田中絹代

依田義賢

成沢昌成

浦辺粂子

林美一

川口松太郎

中野英治

絲屋寿雄

酒井辰雄

荒川大

森赫子

入江たか子

永田雅一

渾大防五郎

内川清一郎

大洞元吾

香川京子

木暮実千代

山田五十鈴

三木茂

牛原虚彦

山路ふみ子

津村秀夫

京マチ子

伊藤大輔

宮川一夫

岡本健一

甲斐荘楠音

坂根田鶴子

乙羽信子

中村鴈治郎

進藤英太郎

柳永二郎

小沢栄太郎

増村保造

若尾文子

高津嘉之

安東元久

大野松治

 

 日本映画の歴史を支えた大巨星達である。証言

を記録したテープはほぼ五十時間に及んだ。

 150分版に編集し纏められた映像証言は『ある

映画監督の生涯 溝口健二の記録』(スクリーン

上映タイトル『ある映画監督の生涯私家版 溝口

健二の記録』)として昭和五十年(1975年)五月

二十四日に封切られた。

 平成十六年(2004年)十二月二十六日京都文化

博物館映像ホールにおいて、わたくしは映画版を

鑑賞した。

 

 書籍版は映画版においてカットされた証言記録

のテープを起こしたものである。

 

  最初に田中絹代さんからはじめた。もし、田

  中さんで手ごたえがあればつづけよう、不発

  におわればこの企画はやめようと思ってとり

  かかった。(4頁)

 

 新藤兼人は溝口健二記録映画を探求するに当た

って、映画のスタア女優であった田中絹代に学ぶ

ことから始めた。

 

  この女優に打ち込んだ溝口健二の情熱は激し

  く、燃えるばかりであった。「浪花女」には

  じまって「西鶴一代女」「雨月物語」を見れ

  ばわかる。中でも「西鶴一代女」は、溝口健

  二の命がけの作品であった。(4頁)

 

 溝口健二の道を尋ねるにはまず、田中絹代への

取材から。これは察せられる。『西鶴一代女』に

漲る気迫は凄まじいものがあり、観客の心身に強

烈な緊張感を与える。

 

 映画版出演者紹介のクレジット序列は取材順

で田中絹代が書き出しである。インタビュー日

は昭和四十八年(1973年)十月二十三日である。

 

 書籍版は、依田義賢・成沢昌成・川口松太郎・

大洞元吾・牛原虚彦・伊藤大輔・中野英治・浦辺

粂子・永田雅一・進藤英太郎・入江たか子・三木

茂・坂根田鶴子・揮大防五郎・山田五十鈴・山路

ふみ子・森赫子・荒川大・大野松治・高津嘉之・

甲斐荘楠音・酒井辰雄・絲屋寿雄・中村鴈治郎・

柳永二郎・木暮実千代・京マチ子・乙羽信子・

若尾文子・香川京子・林美一・岡本健一・宮川

一夫・小沢栄太郎・内川清一郎・安東元久・津村

秀夫・増村保造・田中絹代の順で紹介されている。

先生がた

 後列左端溝口健二、隣は伊藤大輔、その隣は小津安

二郎。

 前列左端荒井良平、中泉雄光、稲垣浩。一人おいて

滝沢英輔、八尋不二、岸松雄。

 

   

 依田「山田君の役はね、実はないわけです。あんな

    もんおったらえらいことです。」(24頁)

 

 依田義賢が語った役とは『祇園の姉妹』のおもちゃ

のことである。おもちゃ(山田五十鈴)の闘魂と梅

吉(梅村蓉子)の古風なおとなしさ。妹と姉の対比

は強烈だった。

 

 

 新藤兼人は、明治三十一年(1898年)五月十六日に

溝口健二が誕生したことを確かめ、成沢昌成と共に、

健二の生家の辺りを尋ねる。

 

 健二映画で父親は良いイメージで描かれないが、

彼と実父との関係が影響を及ぼしたのではないか

と新藤は想像する。

 

 

 小学校からの同級生の脚本家川口松太郎は、

二人で通った石浜小学校の昔を思い出すものは

何もないと語る。

 

 

 伊藤大輔は明治三十一年(1898年)十月十三日

愛媛県に誕生した。

 昭和五十六年(1981年)七月十九日、京都市に

おいて八十一歳で死去した。

 昭和四十九年(1974年)九月二十七日京都御室

の自宅において新藤兼人のインタビューを受けた。

   新藤「僕はあの「忠治旅日記」のね、「甲州殺陣

      篇」の最後に、勘太郎を忠治が背負って赤

      城を下ると、御用提灯が下からおし寄せる、

      そん時に「ちゃん、あれは何だ」って勘太郎

      がいうとですね、「あれは狐の嫁入りだ」っ

      ってタイトル」(108頁 原文ママ)

 

   伊藤「はあ、はあ、はあ」(108頁)

 

 

 現存していない『忠次旅日記』「甲州殺陣篇」の大詰

について新藤兼人が熱く語っている。

 

  伊藤「溝口さんの話はせずに、映画の話し

     て・・・・・・」

 

  伊藤、新藤「(笑い)」(110頁)

  

 

 

   伊藤「小山内先生が蒲田で一党を率いてね、

      映画の道を言うて集められて、全員俳優、

      老いも若きも、全員俳優、全員誰でもシナ

      リオを書く。誰でもいいし、レフを持つとい

      う。そういうシステムでいたんです。

      私はだいたい新劇のシナリオ・戯曲に没頭

      していた時分ですからね。しょうことないもん

      書いてはね、小山内先生が映画の世界に

      入られる前から一幕物書いては、今のシナ

      リオライターがシナリオ持ってくる具合に、

      親切に補導をしてもらったんです。」(115頁)

 

  

 

  伊藤 「日活で向島でやるのは、監督がカメラ

       さんの横で台本を読み上げるでしょ。そ

       れに従って、女形は女形の台詞とカット

       でやってるという様式のものなんです。

       映画劇のシナリオというと帰山教正さん

       あたりかもしれませんけど、それは知ら

       ないもんですから、クラッシックの映画ね、

       『モオションピクチャアマガジン』なんかに

       あるシナリオの手引書みたいなんかがある

       んです。『ハウ・トゥー・ライト・シナリオ』なん

       ていう。それを丸善で取り寄せてもらってね。

       これが参考にならないんだ。帰ってイタリイ

       映画のほうが参考になる。」(116頁)

 

 

 

 

   伊藤「ですから、大河内君との出会いといいね、

      小山内先生との出会いといいね、青山さん・

      山本の嘉次さん・友田君達との出会いとい

      うのは、なんか、因縁の如きものを感じます

      ですね。」

 

 

  青山さんは俳優青山杉作、山本の嘉次さんは山本嘉

次郎監督、友田君は俳優友田恭助である。

 

  新藤「その時溝口さんも大将軍に来ていたんです

     か?」

 

  伊藤「地震でね。向島の撮影所が全部駄目に

     なって、ほいで全部大将軍へ来て、新派

     と旧劇と両方あの中でやってた。」

 

 大輔は関東大震災直後の健二との交流を新藤兼人に

語る。

 

  伊藤「わたくしと溝さんの関係はですね、酔いどれ

     仲間ですね。上田秋成の話をしたり、鷗外

     さんの話をしてみたり。」

 

 昭和三十一年、溝口健二が入院していた病院から、関

係が深そうという事で、伊藤大輔に知らせがあった。溝

口健二が余命旦夕であることが知らされた大輔は面会に

行った。

 

  「あん時は辛かったですよ、病院に見舞いに行き

   ましたらね、もう注射のあとだらけになってい

   るんですよ。赤く斑点が残ってね、もう針の刺

   す場所がなくなったんだよ伊藤君っていってい

   たのをよく覚えています。」(118頁)

 

 無声映画時代からのキャメラマン大洞元吾は、

「良い男」と溝口健二の人柄を讃える。

 

 溝口映画のスタア中野英治は、溝口健二が愛人

の一条百合子に剃刀で背中を斬られた事件が三面

記事になったことを語る。

 

 助監督であった内川清一郎は、逃げまどい痛みを

語ったことに人間溝口を感じると述べる。

 

 永田雅一は大正十三年見習いで日活に入り、溝口

と知り合ったことを確かめる。

 

 溝口健二はダンサーの嵯峨千枝子と結婚したが、

浦辺粂子は自身の旧芸名が遠山ちどりで、千枝子

夫人と「とおち」「さがち」と呼び合った事を証

言している。

 

 『滝の白糸』主演女優入江たか子は、「厳しいで

すね」と溝口演出を語りつつ、「ユーモアもあるん

です」と証言する。『楊貴妃』において出演者に選

ばれたが降板した。溝口健二からパワハラを受けた

と伝えられているが、入江たか子は一言も恨み言を

言わない。「わたしのほうからやめさせていただき

たいっていったほうがおだやかに物事がすむんじゃ

ないかと思って」(167頁)と語っている。

 

 プロデューサー渾大防五郎は、入江の兄東坊城

恭長が、たか子人気スタア第二席であった事が不

満だったと述べる。

 

 山田五十鈴は傑作中の傑作『浪華悲歌』に主演

したが、演出で溝口健二の厳しい指導を受け、待ち

時間に健二からオーバーを着せてもらう優しさに触

れ感動したことを証言している。『祗園の姉妹』で

毎日台詞が変えられたが、関西人なので苦労はしな

かったと上方女優の底力を宣言した。

 

 

 

 山路ふみ子は芸に命を賭けておられると溝口への

敬意を語る。

 

 

  二代目中村鴈治郎(にだいめ・なかむら・がん

じろう)は明治三十五年(1902年)二月十七日に

生まれた。

 本名は林好雄である。芸名歴は初代中村扇雀・

四代目中村翫雀・二代目中村鴈治郎である。

 昭和五十八年(1983年)四月十三日に八十一

歳で死去した。

 

 『芸道一代男』における厳しい溝口健二指導は、

扇雀(当時の二代目鴈治郎の芸名)に「眼の球が芝

居しとる」と注意した。

 

 「あなたが役になろうとしたら、その歌舞伎の

こしらえた二枚目になるやないか。それではいか

んねや、扇雀へもってくるんだと、役を。こりゃ

いい言葉です。」(262頁)と二代目鴈治郎は溝

口健二の指導を確かめている。

 「大変小津先生には可愛がっていただきました。

溝口先生にはしかられっぱなしやったけど」(258

頁)と二代目鴈治郎は述べている。

 

 

 

 『残菊物語』でヒロインおとくを勤めた森赫子は、

「役の心持せちゃんとすれば」という指導を溝口に

受けたことを伝える。

 

 

 溝口健二の妻千枝子は精神の病に苦しみ、健二自

身も悲しんだ。

 

 

 香川京子は『近松物語』の撮影で浪花千栄子の指

導を受けたことを語る。

 

 津村秀夫は明治四十年(1907年)八月十五日に

誕生した。昭和六十年(1985年)八月十二日に七

十七歳で死去した。

 映画批評家Qこと秀夫は自責の念を健二が抱いて

いたことを証言する。

 昭和四十七年(1972年)の『キネマ旬報』の主

演女優賞にポルノ映画の出演者が選ばれたというこ

とでベストテン選者を津村秀夫は降板した。

 ポルノ映画を蔑視した者ということで現代にお

いて津村秀夫に対する風当たりが強い。確かにポ

ルノ映画に対する偏見があったことは間違いない

だろう。

 しかし、映画を学問研究として明かそうとした

津村Qの功績も大いに語りたい。俳優津村鷹志の

父である。

 

  

 

 プロデューサー絲屋寿雄は「本は足で書く」と

いう溝口の言葉を紹介する。

 

 木暮実千代は、溝口から「普段も雪夫人になったつ

もりで」という言葉を、『雪夫人絵図』の撮影でかけて

もらったことを証言する。

 

 柳永二郎は『雪夫人絵図』の撮影で「任せてくれた

んじゃないですか」と溝口の心遣いを想像する。

 

 新藤兼人・乙羽信子の夫婦問答がある。乙羽信子

は溝口健二先生は田中絹代さんがお好きだったと語

る。

 

 甲斐荘楠音は、着付はほとんどやったと証言する。

 

 京マチ子は、『雨月物語』において、「森さんや絹代

先生は素晴らしい」と共演者を讃える。

 

   小沢「雨月の場合でしたら、森君と田中絹代さん

      と」(327頁)

 

   小沢「それにプラス宮ちゃんの」(327頁)

 

 小沢栄太郎は「研究して下さい」と溝口健二に言わ

れたことを証言している。「森君」は森雅之、「宮ち

やん」は宮川一夫である。小沢栄太郎・田中絹代・宮

川一夫・森雅之の四人で話し合って「こういう動きに

しましょうと打ち合わせをしたという。

 

 

 

 田中絹代は明治四十四年(1909年)十一月二十九

日、山口県に誕生した。

 無声映画時代から日本映画を支え牽引した大スタア

女優である。

 昭和五十二年(1977年)三月二十一日、東京都に

おいて死去した。六十七歳。

 昭和五十一年(1976年)のNHKのテレビドラマ『雲

のじゅうたん』を視聴したわたくしは、田中絹代の声を

リアルタイムで聞いた。

 

 田中絹代は、『浪花女』撮影で、助監督坂根田鶴子

から風呂敷包み一式に入った文楽の書物を渡され、

読むようにという溝口の伝言を聞かされた。読み切れ

る量でない程大量の書籍であったが、芸の道では私も

文楽も同じとして役作りを為した。

 

 

 『雨月物語』の撮影で疲労した森雅之が珍しく煙

草を欲し、溝口健二自らライターをつけた事を証言

する。

 

 

 

 新藤兼人は、溝口健二さんから「僕は田中君の事

が好きです」と言われたことを伝える。

 

 田中絹代は、「先生と私はスクリーンの上の夫婦

だったんです」と語る。

『西鶴一代女』 一

 この問答は本書の山場・クライマックスであろう。

 

  「わたしは第一、先生のあんなおっかない先生の

   ね、妻としてね、勤めはできる自信はもちろん

   ございません。」(421頁)

 

 田中絹代にとって溝口健二は尊敬する先生監督であ

った。

 

 新藤兼人は田中絹代取材より始め、その証言を書籍

版の最後に位置付けた。

 

 映画版で割愛された部分を読める。映画を藝術か娯

楽かの二元二極でどちらかに類別し、好悪感情で是非

や上下を決めつけることの愚を溝口写真は教えてくれ

る。

 上にあるものや高いものを讃え、下にあるものや低

いものを蔑視すると言う在り方そのものを問い直す力

が溝さんの写真にある。

 見聞する者を感嘆させ興奮・緊張させ終映後にただ

一つの命への感謝を痛感せしめる。溝口健二活動大真

は尊い藝術ということに止まらず、生命力が溢れてい

る。本来ベストテン等は不要である。ただひとたびの

命を生きていることの尊さを溝口健二映画から学んだ。

 

 本書の証言者で建材の香川京子は現役女優として活

動している。敬意を表する。若尾文子も健在である。

 

 

 

 溝口健二の活動屋魂は映画版・書籍版に燃えている。

 

                      合掌