輪島大士 北の湖敏満との千秋楽優勝決戦 | 俺の命はウルトラ・アイ

輪島大士 北の湖敏満との千秋楽優勝決戦

 輪島大士(わじま・ひろし)

 

 大相撲第四十五代横綱

 本名 輪島博(わじま・ひろし)

 

 昭和二十三年(1948年)一月十一日石川県七尾

市生まれ。

 金澤高等学校・日本大学で相撲に励み、学生横

綱に輝く。

 昭和四十五年(1970年) 大相撲花籠部屋に入

門し、初場所幕下付け出し力士として初土俵を踏

む。最初の四股名は、本名そのままに輪島博で

あった。

 昭和四十六年(1971年)初場所新入幕を果たし

九勝六敗の成績で勝ち越す。

 昭和四十七年(1972年)夏場所十二勝三敗で

初の幕内最高優勝を成し遂げる。

 

 昭和四十八年(1973年)夏場所 

 十五戦全勝 二回目の幕内最高優勝。

 

 場所後五十四代横綱に推挙される。

 

 昭和四十八年(1973年)秋場所 

 十五戦全勝 三回目の優勝

 

 

 昭和四十八年(1973年)九州場所

 十二勝二敗一休  四回目の幕内最高優勝

 

 

 昭和四十九年(1974年)春場所

 十二勝三敗 五回目の幕内最高優勝

 

 昭和四十九年(1974年)名古屋場所

 十三勝二敗 六回目の幕内最高優勝

 

 昭和四十九年(1974年)秋場所

 十四勝一敗 七回目の幕内最高優勝

 

 昭和五十年(1975年)春・夏・名古屋を

休場した輪島大士は進退をかけて秋場所

に臨み、黄金のまわしで登場し二桁十番

の白星を挙げ、横綱の課題を為して引退

・限界説の危機を突破する。しかし、この

年一度も優勝できなかった。

 

 昭和五十一年(1976年)春場所

 十三勝二敗 八回目の幕内最高優勝

 

 わたくしは、この場所七日目母・祖父、十

三日目祖父と共に大阪府立体育館で春場所

を観戦した。

 七日目輪島は長谷川戡洋を寄り切って勝

ち、十三日目は初代貴ノ花健士に寄り切られ

た。

 千秋楽優勝決定戦で十三勝二敗で関脇

旭國斗雄をはたきこみで倒しV8を達成した

輪島大士は男泣きに泣いた。

 

 昭和五十一年(1976年)名古屋場所

 十四勝一敗 九回目の幕内最高優勝

 

 昭和五十二年(1977年)初場所

 十三勝二敗 十回目の幕内最高優勝

 V10の二桁優勝回数を初場所初優勝で達成

した。

 

 昭和五十二年(1977年)名古屋場所

 十五戦全勝 十一回目の幕内最高優勝

 三回目で最後の全勝優勝となった。

 

 

 昭和五十二年(1977年九州場所)

 十四勝一敗 十二回目の幕内最高優勝

 大横綱双葉山定次と優勝回数が並ぶ。

 

 

 昭和五十四年(1979年)名古屋場所

 十四勝一敗 十三回目の幕内最高優勝

 昭和五十三年(1978年)一度も優勝すること

が成り立たなかった輪島は決定戦で苦手の

キラーであった三重ノ海剛司を寄り切って、

V13を達成した。優勝回数では双葉山を越え

た。

 

 昭和五十五年(1980年)九州場所

 十四勝一敗 十四回目の幕内最高優勝

 

 昭和五十六年(1981年)春場所二日目

関脇琴風豪規に寄り切られた輪島は翌日

(1981年3月10日)に引退を表明する。この

日対戦相手だった巨砲丈士は不戦勝とな

った。

 

 輪島大士

 生涯通算成績 

 六百七十三勝二百三十四敗八十五休

 

 幕内成績

 六百二十勝二百十三敗八十五休

 

 年寄花籠昶光(はなかご・ひさみつ)・花籠

大嗣(はなかご・ひろし)・花籠大士(はなかご・

ひろし)を名乗り、親方として活動したが、昭和

五十七年(1982年)十二月に廃業した。

 

 昭和六十一年(1986年)から六十三年(1988

年)までプロレスラーとして活動し、その後相撲

評論家・タレントとして歩んだ。

 

 平成三十年(2018年)十月八日東京都内の

自宅で死去した。七十歳。

 

 本日は輪島大士の優勝争いの道を学ぶに

当たって生涯のライバル第五十五代横綱北

の海敏満との戦いを管見したい。

 

 北の湖敏満(きたのうみ・としみつ)は昭和

二十八年(1953年)五月十六日に誕生した。

 本名を小畑敏満と申し上げる。

 昭和四十二年(1967年)初場所初土俵、四

十七年(1972年)初場所新入幕、昭和四十九

年(1974年)初場所十九歳で幕内最高初優勝

を達成し、同年秋場所に二十一歳で横綱昇進

を果たした。

 幕内最高優勝二十四回、十五戦全勝七回の

大記録を達成した。

 昭和六十年(1985年)初場所に引退。

 

 年寄北の湖敏満となり、第九・十二代日本相

撲協会理事長を勤め、在任中の平成二十七年

(2015年)十一月二十日に六十二歳で死去した。

 

 輪島と北の湖の優勝回数では、十四回対二十

四回で、北の湖が圧倒している。

 だが、対戦成績では輪島の二十三勝二十一敗

で輪島が勝ち越した。

 最初の対決は昭和四十七年(1972年)名古屋

場所十三日目で輪島が左上手投げで北の湖を

投げた。

 最後の対決は昭和五十六年(1981年)初場所

十四日目で北の湖が寄り切りで輪島を倒した。

 輪湖優勝決定戦は昭和四十九年(1974年)名

古屋場所、昭和五十一年(1976年)夏場所の二

度あり、前者は輪島が左下手投げ、後者は北の

湖が寄り切りでそれぞれ勝ち、通算成績は一勝

一敗で五分である。

 輪湖の対決は互角で実力は拮抗していた。共

に左の相四つだが、輪島は左を差して右から絞

りおっつけ、北の湖は右上手を引いて寄り投げ

るという取り口で毎回白熱の激闘が土俵に展開

した。

 

 輪島の十四度の幕内最高優勝で本割対北の

湖戦は十三回あったが、十二勝一敗である。

 つまり、北の湖戦は優勝への道において大

きな関門であり、北の湖戦の白星無くして輪島

の優勝は無かったと言えるだろう。

 

 輪湖(りんこ)の千秋楽優勝決戦を尋ねたい。

 

  昭和四十九年名古屋場所千秋楽(1974年7月

21日於愛知県体育館)において、十二勝二敗の

横綱輪島と十三勝一敗の大関北の湖が千秋

楽結びの一番で激突した。

 

 

 輪島は緑まわし、北の湖は紫まわしである。

前場所優勝している北の湖はこの一番に勝て

ば連覇となり、横綱は決定する。それだけに

緊張感も強かったようで待ったをした。

 立ち合い、両者当たると輪島は張って左を

差し、右から強烈におつける。北の湖は輪島

が巻きかえに来るところで一気に寄って外掛け

を打つが、輪島は掛け投げ気味に下手投げを

打ち豪快にきまった。

 共に十三勝二敗となった。

 

 優勝決定戦

 立ち合い当たって輪島は左差で北の湖の左を鋭く

おっつけて両差しになって寄る。北の湖は堪えて左

を差して寄って攻めるが、その出足に注目する輪島

は土俵際近くで豪快に左下手投げを打った。

 輪島は北の湖の怒涛の寄りの馬力に

追い込まれつつ逆境で下手投げを打って

連破し、V6を逆転優勝で達成した。

 本割・優勝決定戦二番続けて左下手投げ

による連勝である。

 

 

 準優勝で横綱昇進を果たすが、打倒輪島

が新横綱北の湖の課題となっていく。

 

 輪湖は横綱大関の地位で、最初の千秋楽

結びの一番の優勝争いを戦い、初の優勝決定

戦の激突を為したが、輪島が下手投げ連覇で

逆転優勝を達成した。 

 

 

 秋場所千秋楽(1974年9月22日於蔵前国技館)。

 

 輪島は十四日目に十三勝を挙げ優勝を決めた。

 

 新横綱北の湖は十一勝三敗であった。

 

 立ち合い輪島は当たって右上手を引き、北の湖

は左差しで右からおっつける。

 北の湖は輪島の上手を切り、右上手を一枚まわ

しで引く。輪島は右からおっつけ、右上手を引いて

より、外掛けを打って崩して寄り切った。

 

 七回目の優勝は十四勝一敗で飾った。

 

 これは既に優勝が決まった後の戦いでは

あるが、輪島が先輩横綱の貫禄を示したと

言えよう。

 

 名古屋場所千秋楽(1976年7月18日於愛知県

体育館)十三勝一敗の輪島と十二勝二敗の北の

湖は、千秋楽結びに一差優勝決戦をなした。

 

 

  輪島は張って左を差して右から強烈に北の湖

の左をおっつける。北の湖は右上手を引いて寄る

が輪島は左下投げを打って残す。

 

 北の湖は怒涛の寄りを見せるが輪島は土俵際

で残し粘りを見せ、右上手を引く。

 輪島は一枚まわしの右上手を引き、寄り立て

て寄り切った。 

 大熱戦を制してV9・名古屋場所二度目の優勝

を達成した。

 

  昭和五十二年(1977年)初場所は蔵前国技館

で開催された。

 千秋楽(1月23日)結びの一番。十二勝二敗の

相星で両横綱が激突した。 

 立ち合い当たって左四つがっぷりとなった。

北の湖は吊りよりで攻めるが輪島は堪える。

 輪島は北の湖が腰砕けになった状態に素早

く浴びせ倒した。

輪湖

 

 名古屋場所千秋楽(1977年7月17日於愛知県

体育館)。輪島は十四勝、北の湖は十三勝一敗

の一差で、千秋楽結びの一番に対決した。

 

  

 立ち合い両者当たって、輪島は左下手、北の

湖は右上手・左下手両まわしを引く形になった。

北の湖の左手を抑えつつ、輪島は一度右上手

を引き離ししぼるかと見せて抱える。

 

 北の湖が攻めるが、輪島は一度頭をつけよ

うとする。

 

 上手投げから寄り立てる北の海だが、輪島は

残す。

 

 北の湖の外掛けを堪えた輪島は巻きかえて一度

右四つになり頭をつける。

 

 大熱戦となり輪島は北の湖をすくい投げで倒すと

土俵に俯せになって倒れてしばらく起き上がれなか

った。

  

 

 九州場所千秋楽(1977年11月27日 於福岡

九電記念体育館)輪島と北の湖は十三勝一敗

の戦績で千秋楽結びの一番に相星決戦を為

した。

 

 

 

 立ち合い、両者共に左を差した。北の湖は右

上手、輪島は左下手を十分に引く。北の湖が左

下手もぐっと引くのに対して、輪島は右上手を取

れない。輪島が右上手を引くと、北の湖は吊る。

 輪島は堪え、右手を宙において拳を握り攻め

る機会を待つ。

 北の湖が寄ると、輪島は堪えて、北の湖の左手

を右からかかえた。

 北の湖が怒涛の寄りで攻めると、輪島は左から強烈な

下手投げを打って残した。右おっつけを経て上手を引く

輪島。

 北の湖の左手を右から絞る輪島は、再び左下手投げ

を打つ。北の湖も懸命に堪えて、左差し右上手の体勢

を取る。

 

 輪島は右上手を引き、両者胸を合わした。

 

 北の湖は腰を割って吊ろうとするが、輪島も堪え

る。

 

 

 ぐっとまわしを引く北の湖。再び腰を降ろし、渾

身の力で吊りに行く。腰が入り過ぎていたようだ

った。

 

 輪島の左足は、北の湖の右足を切り返すと、北

の湖は仰向けに倒れた。

 

 

 

 輪島V12達成の瞬間であった。

 

 輪湖優勝決定千秋楽結びの一番での

対決はこの戦いが最後で輪島が勝った。

 

 二人の千秋楽相星優勝決定戦は完全

に互角であった。

 

 昭和五十一年(1976年)初場所

 十二勝二敗対決 北の湖勝利

 

 昭和五十一年(1976年)九州場所

 十三勝一敗対決 北の湖勝利

 

 昭和五十二年(1977年)初場所

 十二勝二敗対決 輪島勝利

 

 昭和五十二年(1977年)九州場所

 十三勝一敗対決 輪島勝利

 

 偶然にも二年連続で初場所十二勝

二敗決戦、九州場所十三勝一敗決戦

となり、北の湖連勝、輪島連勝で五分の

戦績となった。

 

 昭和五十二年(1977年)九州場所千秋

楽の十三勝一敗の相星対決が輪湖最後の

千秋楽優勝決戦となった。

 

 黄金の左の下手投げで本割・決定戦連破を

達成し、すくい投げで最後の全勝優勝を決めた。

 

 北の湖敏満という最強のライバルがいたこと

が輪島の闘志を燃やしたことは間違いないだ

ろう。

 

 輪湖はライバル対決の代名詞になっている。

 

 自分は輪島のDVDを見聞する営みにお

て、北の湖に勝った相撲になると今でも拍

手をしている。

 北の湖ファンの方は「無礼だ」とお考えに

なるかもしれないが、北の湖の破壊力と強さ

は凄まじかったのだ。

 大横綱の中でも特に強かった存在は北の

湖である。

 

 今も輪島ファンから脅威に思われる事自体

北の湖の強大さを証し示していると言えるだ

ろう。

 

 北の湖敏満に深い敬意を表したい。

 

 輪島大士は十四回の幕内最高優勝を成し

遂げたが、北の湖敏満に千秋楽決戦で勝っ

て決めた優勝に強く感動した。

 

 

 

 

 輪島大士

 

 

 七十四歳お誕生日

 

 おめでとうございます。

 

                        文中敬称略

 

                            合掌

 

 

                       南無阿弥陀仏

 

 

                            セブン