奥崎謙三 裕仁パチンコ玉狙撃事件五十四年五日 | 俺の命はウルトラ・アイ

奥崎謙三 裕仁パチンコ玉狙撃事件五十四年五日

 昭和四十四年(1969年)一月二日皇居に

おいて奥崎謙三は裕仁にパチンコ玉を狙撃

し、「山崎、ピストルで天皇を撃て!」と叫びま

した。

 

 謙三は、大正九年(1920年)二月一日に

兵庫県に生まれました。

 昭和十六年(1941年)中支九江工兵隊に

入隊、後に独立工兵第三十六連隊に転属

となり、ニューギニア戦場に派遣され、その

苛酷な戦闘地域で生き残り、昭和二十一年

(1946年)に復員し、故郷兵庫でサン電池工

業所を自営します。

 

 ニューギニアの戦場で餓死・戦死した戦友

達の無念を悲しみ、戦争の最高責任者であ

り、大日本帝国を統治していた元首であった

天皇裕仁後の昭和天皇の戦争責任を追求

していました。

 

 昭和三十一年(1956年)四月四日奥崎は不

動産業者延原一夫を刺し、五日延原は死去

します。奥崎は延原氏を刺殺してしまった事

を深く悔やみ、「天皇に対して力の及ぶことを

して、もっと重い刑罰を受けた方がよかった」

(『ヤマザキ、天皇を撃て』156頁 1987年8月

15日発行 新泉社)と天皇と天皇的なものを

作り出す社会構造を糾弾することを考えます。

 

 獄中で謙三は沢山の書籍を読みますが、宗

教書は彼の心を満たさず、ノートに沢山の論文

・歌・詩を書き、「天皇や天皇的なものが多く存

在する、ピラミッド型の構造の現在の社会」(『ヤ

マザキ、天皇を撃て』171頁)の変革こそ課題で、

それが戦場で戦死・餓死した戦友達への供養

になると考えます。

 出所した謙三は自身の課題に向かって進み

ます。

 

   私は、多くの戦友を餓死させ、無数の敵

   味方の人間を殺戮した太平洋戦争は、天

   皇の名を使わなかったならば絶対に行え

   なかったと思いました。いまでさえ、日本人

   には天皇が大きな影響力を持っております

   が、天皇の名は敗戦までの日本人にとっ

   て、神以上の恐ろしい強制力を持っていた

   からであります。

   (『ヤマザキ、天皇を撃て』156‐157頁 

    1987年8月15日発行 新泉社)

 

 昭和四十四年(1969年)一月二日東京のホテル

に宿泊していた奥崎謙三はホテル食堂で朝食を

取り、タクシーで東京駅に向かい、駅から徒歩で

皇居に行きました。

 

   九時半ごろにバルコニー前に着いてから

   三十分程経って、数年間考えつづけた天

   皇の姿が、バルコニーに現れました。天皇

   をはじめて近くで見た私は、舞台の役者の

   ように思いました。

   (『ヤマザキ、天皇を撃て』205頁 

    1987年8月15日発行 新泉社)

 

 奥崎謙三が初めて昭和天皇を見た時の感想は

強烈です。

 「舞台の役者のよう」な存在感があったことを確

かめています。

  

   天皇の姿がバルコニーに現れると、群衆の

   視線と関心は、一斉に天皇に集中しました。

   私は、オーバーのポケットの中で右手で握

   っていたパチンコとパチンコ玉を取り出し、群

   衆の頭越しに、二十数メートル離れた天皇

   に向けて、パチンコ玉を一回に三個発射し

   ました。やっぱり思っていたとおり、天皇に

   パチンコ玉が当たらず、天皇は素知らぬ顔

   をしていました。私がパチンコ玉を一回発射

   しても、私の行為を知って騒ぐ人は誰もなく、

   私は肩すかしを食ったようなもの足りない気

   がしました。私は筋向かいのモーター屋さん

   の主人に予言していたとおり、周囲の人を騒

   がす為に、大声をはりあげて、「おい、山崎!

   天皇をピストルで撃て!」と四、五回繰り返し

   叫びました。

   (『ヤマザキ、天皇を撃て』206頁 

    1987年8月15日発行 新泉社)

 

 奥崎謙三は初めて会った裕仁に向かい、パチンコ

玉を投げましたが、玉は当たらず、その狙撃行為も

人々の耳目を引かず、肩透かしの気持ちを覚えてし

まいます。そして、戦死した戦友の名を呼び、「山崎、

ピストルで天皇を撃て!」と叫び、群衆の注目を浴

びて、自ら警官に「行きましょう」と連行してもらうよ

うに頼みます。

 

 裕仁は明治三十四年(1901年)に誕生し、昭和

六十四年(1989年)一月七日に死亡しました。八

十七年の彼の生涯において、彼が侵した戦争の

責任を面と向かって直接叱り糾弾した人は奥崎

謙三唯一人でしょう。

 

 謙三は懲役一年六か月の判決を受けます。

 

 宗教を嫌いながらも、彼自身の言う、「宇宙、

自然、神を敬う宗教」(『ゆきゆきて、神軍 製作

ノート』)に謙三は深く帰依していました。

 

 出所後、バッテリーの仕事と平和運動をしていた

奥崎に、昭和五十六年(1981年)疾走プロダクション

の原一男監督と小林佐智子プロデューサーがドキ

ュメンタリー映画を撮りたいと申し出て、五十七年

(1982年)謙三が同意し撮影が始まります。

 

 そもそも謙三のほうから今村昌平監督に自身の

ドキュメンタリー映画を撮ってくれないかと企画が

出され、今平監督は後輩の原一男監督を紹介し

たという経緯がありました。

 

 この奥崎謙三平和運動の記録は、後に『ゆき

ゆきて、神軍』と題して公開されました。

 

 同年四月二十九日裕仁八十一歳誕生日に祝

田橋で神軍のテーマを大書した自家用車内から、

「天皇裕仁の為に犠牲になった無数の犠牲者の

霊を慰める為にここで

慰霊祭を執行する次第であります」と宣言し、警察

官に囲まれ車を出て刑事たちと話し合いを行いま

す。

 

 奥崎謙三の絶対平和主義の探求は過激で時に

は戦争事実の証言を拒む協力者に暴行を加えると

言う凄惨なものでした。

 

 

 その一方で広島県江田市に戦死した友島本政行

一等兵の母イセコを尋ねた時は、戦友としてその気

持ちを真摯に語ります。

 

    「あのう穴をですね、あのう、あのう、島本

     さんのね、亡くなられた、あのう遺体をで 

     すね、穴に土をかけさせて頂いてですね、

     そいで青いパパイアとかですね、ええ、そ

     ういうものをお供えしてですね、で水筒の

     水をおかけしてそれでまあ御弔いをしたん

     ですけどね、ところがね、島本さんだけな

     んです、そういう方は、あとのお方、あとの

     お方はみんなあのう、穴に埋めてもらえず

     ですね、まあ一番、まあ幸せ言うてはおか

     しいですけど、まあ他の方はね」

    (『ゆきゆきて、神軍』)

 

 奥崎謙三はこの時思わず涙を堪えなくなり、男泣

きに泣きます。イセコさんは「有り難いですね」と感

謝します。

 謙三はイセコさんに政行さんのお墓に案内しお参

りし、イセコさんに『岸壁の母』を歌ってもらいます。

謙三 いせこさん

 ニューギニア戦場で人肉食事件があり、兵士が口封じ

で殺害されたようだという事実を、遺族から聞いた奥崎

は徹底的に調査をします。

 

 ヤマザキ、天皇を撃て! 1 2

 『ゆきゆきて、神軍』では、謙三が、ニューギニアで餓死

した戦友山崎豊上等兵の墓を弔うシーンも映ります。

奥崎謙三

 奥崎が元軍曹山田吉太郎にくじ引き謀殺事件

を尋ね、証言に迷う山田に殴る蹴るの暴行を犯

しますが、妻シズミは「止めなさい」と山田を守っ

て夫から蹴られ負傷します。

 

 

 

 昭和五十八年(1983年)十二月十五日、ニューギ

ニア戦線の元中隊長村本政雄(古清水政雄)の戦

争責任を追求する奥崎謙三は、村本宅を襲撃し、

長男村本和憲を銃で狙撃します。

 和憲さんは命を取り留めます。

 

 

思想

 

原一男氏

 昭和六十一年(1986年)九月十八日、謙三を献身

的に支えてきた妻シズミが死去します。

 

 昭和六十二年(1987年)謙三は懲役十二年の刑を

受けます。この年の八月一日『ゆきゆきて、神軍』が

公開され、大ヒットを記録します。

 管理人は翌六十三年(1988年)二月二十日ルネサ

ンスホール後のセレマビルで鑑賞し衝撃を受け、戦争

への悲しみに言葉を失い息を呑みました。

 

 

 

 

 昭和天皇が統治していた大日本帝国は、滿洲

事変を起こして中華民国を侵略しました。

 七三一部隊は人体実験・拷問を犯し、日中戦争

で数多の中華民国人を殺し、南京では三十万の

中華民国市民を虐殺しました。日本軍の犠牲者

も数多いです。

 大日本帝国と連合軍が戦った太平洋戦争にお

いても戦争の責任は大元帥であった昭和天皇に

あります。ニューギニアでは沢山の兵士が戦死・

餓死し、日本軍兵士によってニューギニアの人々

が殺害し、その人肉が食べられるという事件が起

こりました。

 従軍慰安婦問題は、昭和天皇が統帥していた

軍の兵士が朝鮮人女性を辱めた事件です。

 昭和十九年頃、大日本帝国の敗戦は避けがた

かったと言われています。昭和天皇は敗戦を認め

降伏した場合、自身の生命の安泰が分からず終

戦を躊躇逡巡した。その為東京大空襲・沖縄戦・

広島・長崎への原子爆弾投下という痛ましい事態

が起こり、沢山の国民が犠牲になった。昭和天皇

は降伏しても自身の延命が許されることが分かっ

たので、昭和二十年(1945年)八月十五日に終戦

の詔書を読み上げ、終戦を決定したのです。

 九月二十七日のマッカーサー元帥との会談で、

「私は、国民が戦争遂行にあたって行ったすべて

の決定と行動に対する全責任を負う者」と述べた

事は死刑にならない事が分かっていたので明言

できた言葉だったのです。

 

 昭和天皇の戦争責任を追求・糾弾する事は危険

を伴うし、脅迫にも遭います。そうした危険をくぐっ

て、命を捨てる覚悟で、平和運動家・研究者・ジャ

ーナリスト・芸術家で戦争責任を問うた人々はいま

すし、現在も居られます。

 

 本多勝一著『中国の旅』は南京大虐殺を研

究・調査した書です。事件で生き残った人々や

遺族に取材した書で、日中戦争の残酷さを伝

えています。

 

 奥崎謙三は、昭和天皇自身に対して、「ヤマ

ザキ、天皇をピストルで撃て!」と叫んで戦争

責任を追求し、ニューギニア戦線における人肉

食事件及び兵士銃殺事件を調査し、その諸事

件の最高責任者裕仁の責任を糾弾します。

  謙三が延原一夫氏を刺殺し、山田吉太郎氏

に暴力を振るい、村本和憲氏を狙撃したことに

は深い悲しみを覚えます。

 パチンコ玉狙撃事件はガラス越しに投げたこ

とであり、当たってもガラスに玉が当たったと思

われますので、非暴力平和運動です。

 

 原一男監督が語ったように、「暴力を振るうの

も奥崎さんだし、島本イセコさんに涙を流して共

に墓参をするのも奥崎さん」なのだと思います。

 

 奥崎謙三昭和天皇パチンコ玉狙撃事件から五

十二年五日が経ちました。昭和天皇没後三十三

年の命日でもあります。

 

 朝日新聞は平成三十一年(2019年)元日と七日

に昭和天皇が戦争を悲しんだ歌を詠んだという記

事を載せ、天皇崇拝者の半藤一利の談話を載せ

て美化・神格化報道の暴流を流しています。

 

 

 憲法第九条改変に執念を燃やす安倍晋三総理

(当時)が、櫻井よしこ氏・バイオリニスト五嶋龍氏

と鼎談をしました。平成三十一年(2019年)元旦の

産経新聞の記事です。

 朝日新聞と産経新聞は、鏡のように照らし合って

安倍晋三議員への忖度と媚態を示し迎合していま

す。

 

  『中国の旅』を連載していた頃の気概は、今の朝

日新聞にはありません。産経以上に自民党機関誌

と成り果てたと言うべきでしょう。

日本のいちばん長い日

 2015年の松竹製作、半藤一利原作、原田眞人脚本・

監督の映画『日本のいちばん長い日』における「昭和

天皇が国民の幸福を思って戦争を終えて下さった」と

いう捏造や、現代朝日新聞の昭和天皇美化には、恐

ろしい物を感じます。

 憲法第一条の天皇元首化の動きは、国民投票前に、

朝日や半藤一利グループの贋平和主義者の画策によ

って進められているのではないかとも思います。

 

 

 奥崎謙三は、平成十七年(2005年)六月十六日

兵庫県で死去しました。波瀾に満ちた八十五年で

あったと思います。

 

 原一男監督は、奥崎から『ゆきゆきて、神軍2』の

演出オファーを受けたが断ったと『ゆきゆきて、神

軍 ノート』新版の解説で書いておられます。

 

 

 

 奥崎謙三が生前撮影したビデオの中から、原一男

監督が再編し、『亜人間 奥崎謙三』として製作した

そうです。自分は未見で是非鑑賞したいです。

 

 昭和天皇を平和の守り神であったとする朝日新聞・

日本会議・原田眞人監督・半藤一利の作戦は、安倍

晋三議員の大日本帝国再建に迎合するものとして抗

議します。

 

 天皇元首化・昭和天皇絶対化・国民隷属・基本的

人権剥奪・憲法第九条破壊・戦争主義が軍靴の音

と共に迫っています。

 

 このような現代だからこそ、五十四年五日前にパ

チンコ玉を皇居で投げた奥崎謙三の勇気に学び、非

暴力で反戦を探求して、平和さの尊さを語りたいで

す。

 

    数百万人の無辜の民衆が死んだ、あの悲

    惨な太平洋戦争が、裕仁の詔勅で始まり終

    わったというまぎれもない事実は、日本人

    の中で裕仁の戦争責任が最も重く且つ大

    であることを、何よりも如実に証明するもの

    である。

    (『ヤマザキ、天皇を撃て』299頁)

 

 奥崎謙三の言葉は重く深いです。

 

 裕仁は日中太平洋戦争で、中華民国市民を虐殺

し、沢山の日本人・外国人を戦死させました。戦後

は輔弼の臣と民に戦争責任を擦りつけて、アメリカ

政府に媚び諂って、部下・民を裏切り、「戦争は悲し

かった」と態度を豹変し、税金で贅沢暮らしをしまし

た。

 南京大虐殺事件犠牲者・731部隊実験犠牲者・

被害者・従軍慰安婦問題被害者・太平洋戦争戦

死者・東京大空襲犠牲者・沖縄戦戦没者・広島原

爆犠牲者・長崎原爆被害者・特攻隊犠牲者・ニュ

ーギニア戦線戦没者・人肉食事件被害者に、裕仁

は一言の謝罪もしていません。

 

 

 昭和五十年(1975年)十月三十一日、皇居宮殿

石橋の間において、天皇裕仁・皇后良子後の香

淳皇后の記者会見が開催されました。日本記者

クラブ代表五十人が出席しました。

  

 この月天皇はアメリカホワイトハウスを訪問し、

ジェネラル・R・フォード大統領は晩餐会を開いて

迎えました。

  

    記者「陛下は、ホワイトハウスの晩さん会の

        席上、私が深く悲しみとするあの不幸

        な戦争というご発言をなさいましたが、

        このことは陛下が、開戦を含めて、戦

        争そのものに対して責任を感じておら

        れるということですか。また、陛下はい

        わゆる戦争責任について、どのように

        お考えになっておられますか?」

 

    昭和天皇「そういう言葉のアヤについては、私

           はそういう文学方面はあまり研究し

           ていないので、よく分かりませんから、

           そういう問題についてはお答えがで

           きかねます。」

 

 

    記者「陛下は、これまでに三度広島へお越しになり、

       広島市民に親しくお見舞いの言葉をかけてお

       られる訳ですが、戦争終結に当たって、原子

       爆弾投下の事実を、どうお受け止めになりま

       したでしょうか?」

 

    昭和天皇「原子爆弾が投下されたことに対しては

           遺憾に思っていますが、こういう戦争中

           である事ですから、どうも、広島市民に

           対しては気の毒であるが、やむを得ない

           ことと私は思っております。」

  太平洋戦争の責任について、「言葉の綾」と

ふざけた表現を使い、「研究していないから答え

られません」と無責任な言葉を語りました。

 昭和二十年(1945年)広島で原子爆弾に投下

され殺害され被害に遭った市民に、「やむを得な

かった」と愚弄する暴言を語っています。

 裕仁の卑怯卑劣な態度に怒りを覚えます。

 

 虐殺と裏切りを犯した責任を取らなった裕仁の

罪を糾弾し、天皇制・皇室・皇室典範・君が代・

日の丸・靖国神社は廃止すべきです。

 

 裕仁の虐殺責任・戦争責任・責任逃走の大罪

は彼一代の者で、息子明仁・孫徳仁・孫文仁・

曽孫悠仁に世襲するものではありません。しか

し、それは明仁・徳仁・文仁・悠仁と皇位継承者・

継承予定者達が戦争被害者に謝罪し、自ら皇室

であることを止め、皇室戦争責任追求に尽力して

初めて立証されて行くことです。

 

 「皇室は民の幸を祈り寄り添っておられる」と大手

新聞・大手テレビは語り皇室美化を喧伝しています

が、本当に民の幸を祈っているならば、民が汗水垂

らして働き納めた税金で贅沢暮らしを為すような卑劣

な暴挙を犯すでしょうか?

 

  国民・定住外国人は、このコロナ危機において

も労働し税金を納めていかねばならない。

 皇室は無職・怠惰で税金による贅沢暮らしをして

いる。病に罹っても最強の医療が受けられる。

 皇室を守り贅沢暮らしを許す税金を、コロナ患者支

援に当てるべきです。

 裕仁の戦争犯罪を皇室は謝罪しなければならない。

 

 前述の通り、1989年1月7日裕仁は87歳で死亡しま

したが、一言も戦争犠牲者・戦死者に謝罪していませ

ん。

 

 戦争を侵し、沢山の地球人を殺した犯罪者です。

 

 本当に戦争責任を痛感していたならば、民が納めた

血税で贅沢暮らしが犯せるでしょうか?

 

 犯罪者を神格化する天皇制は廃止すべきです。

 

 

 

 

   

 神軍平等兵奥崎謙三の言葉は、歴史事実を語っ

ています。

 

 奥崎謙三の勇気に学びます。

 

                      合掌

 

 

                       南無阿弥陀仏

 

 

                            セブン

 奥崎夫妻