ある映画監督の生涯 溝口健二の記録 伊藤大輔出演作品 | 俺の命はウルトラ・アイ

ある映画監督の生涯 溝口健二の記録 伊藤大輔出演作品

『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』

 

スクリーン上映タイトル

『ある映画監督の生涯私家版

溝口健二の記録』

(銀幕に二重鍵括弧無し)

映画 トーキー 150分 カラー・白黒

昭和五十年(1975年)五月二十四日公開

製作国 日本

製作言語 日本語

製作 近代映画協会

配給 ATG

 

 

資料

キネマ旬報 キネマ旬報社

日本映画発達史 田中純一郎著

溝口健二というおのこ 津村秀夫著

溝口健二の人と芸術 依田義賢著

映画時代 文芸春秋社

映画脚本京屋襟店 田中栄三著

近代映画劇脚本選集 聚芳閣版

日活向島時代 田中栄三著

溝口健二の女 佐藤忠男著

地唄       宮崎富美代

永島一郎コレクション

依田義賢コレクション

酒井辰夫コレクション

松竹株式会社

大映株式会社

東京国立近代美術館フィルムセンター

ビクターレコード

 

引用映像出演・音声出演

溝口健二

 

取材協力者(取材順)

 

田中絹代

依田義賢

成沢昌成

浦辺粂子

林美一

川口松太郎

 

中野英治

絲屋寿雄

酒井辰雄

荒川大

森赫子

入江たか子

 

永田雅一

渾大防五郎

内川清一郎

大洞元吾

香川京子

木暮実千代

 

山田五十鈴

三木茂

牛原虚彦

山路ふみ子

津村秀夫

京マチ子

 

伊藤大輔

 

宮川一夫

岡本健一

甲斐荘楠音

坂根田鶴子

乙羽信子

 

中村鴈治郎

進藤英太郎

柳永二郎

小沢栄太郎

増村保造

若尾文子

 

高津嘉之

安東元久

大野松治

溝口会

 

インタビューアー・解説 新藤兼人

 

撮影 三宅義行

応援撮影 黒田清己

       下田久

録音 菊池雄平

編集 近藤光雄 

    藤田敬子

製作主任 山本文太

 

宣伝 花安静香

経理 吉野三保子

タイトル 本多タイトル

現像所 東京現像所

録音所 東京テレビセンター

 

製作 監督 新藤兼人

 

☆平成十六年(2004年)十二月二十六日

 京都文化博物館映像ホールにて鑑賞☆

みぞぐち

 溝口健二の生涯を尋ねた記録映画である。

製作・インタビューアー・解説音声・監督は、

溝口健二の弟子新藤兼人が勤めた。

 

 映画監督溝口健二の映像・音声・記録、監督

作品現存フィルム、関連資料・研究書籍を見聞

し、関係者三十九人にインタビューした記録で

ある。

 

 インタビューに要した時間は一人一時間から

二時間をかけて撮影・録音したという。残念ながら

ノーカットインタビューではなくて、部分的な版を

集めたもので作品の上映時間は150分である。だ

が、その150分は映像芸術に生涯を賭けた巨匠と

関係者の尊い歴史資料集の至宝を凝縮したもの

である。

先生がた

     後列左端溝口健二 

     隣は伊藤大輔 

     その隣は小津安二郎

 

 映画はタイトルの後に溝口健二のデスマスクが映る。

白字の字幕が映写される。

 

 昭和三十一年八月二十四日

 溝口健二 永眠

 五十八歳

 

  溝口健二終焉の地京都府立病院後の京都府立

医科大学付属病院に新藤は取材撮影を申し込むが

スタッフから拒絶される。

 

 満願寺の溝口健二墓が映る。猛暑の蝉の鳴き声が

響く。

 『赤線地帯』の撮影風景の映像・写真に、溝口健二

の音声記録が響く。

 昭和二十五年十一月二日 NHK『朝の訪問』の音源

である。ラジオ番組と思われる。

 

 女性の生態を描くことを聞かれた健二は、「これは

ね、知らず知らずのうちにそういうことになっていった

んじゃないのかな」と問い直している。兄のように敬っ

ていた村田実監督は男性を描くのが巧く、会社側の

興行的な政策で自分は女性を描くようになったのでは

ないかと解説している。「自然発生的ですな」と溝口健

二は語る。

 

 新藤兼人は、明治三十一年(1898年)五月十六日に

溝口健二が誕生したことを確かめ、成沢昌成と共に、

健二の生家の辺りを尋ねる。

 

 健二映画で父親は良いイメージで描かれないが、

彼と実父との関係が影響を及ぼしたのではないか

と新藤は想像する。

 

 健二の幼年時代・少年時代から新藤は丹念に探

求する。映画界に入った健二は、数々の作品を演出

し、後に映画に命を賭けて完全主義で大傑作を生

みだす。その完全主義・芸術絶対主義の姿勢で題

材の追求に全ての情熱を燃やした。その演出の非

妥協の姿勢や冷厳な注意はスタッフ・キャストを悩

ませ苦しめ傷つけることも度々あった。

 

 小学校からの同級生の脚本家川口松太郎は、

二人で通った石浜小学校の昔を思い出すものは

何もないと語る。

 

 無声映画時代からのキャメラマン大洞元吾は、

「良い男」と溝口健二の人柄を讃える。

 

 溝口映画のスタア中野英治は、溝口健二が愛人

の一条百合子に剃刀で背中を斬られた事件が三面

記事になったことを語る。

 

 助監督であった内川清一郎は、逃げまどい痛みを

語ったことに人間溝口を感じると述べる。

 

 永田雅一は大正十三年見習いで日活に入り、溝口

と知り合ったことを確かめる。

 

 溝口健二はダンサーの嵯峨千枝子と結婚したが、

浦辺粂子は自身の旧芸名が遠山ちどりで、千枝子

夫人と「とおち」「さがち」と呼び合った事を証言して

いる。

 

  『滝の白糸』主演女優入江たか子は、「厳しいで

すね」と溝口演出を語りつつ、「ユーモアもあるんで

す」と証言する。

 

 プロデューサー渾大防五郎は、入江の兄東坊城

恭長が、たか子人気スタア第二席であった事が不

満だったと述べる。

 

 山田五十鈴は傑作中の傑作『浪華悲歌』に主演

したが、演出で溝口健二の厳しい指導を受け、待ち

時間に健二からオーバーを着せてもらう優しさに触

れ感動したことを証言している。『祗園の姉妹』で毎日

台詞が変えられたが、関西人なので苦労はしなか

ったと上方女優の底力を宣言した。

 

 新藤兼人は依田義賢の案内で祗園を歩む。

 

 山路ふみ子は芸に命を賭けておられると溝口への

敬意を語る。

 

 二代目中村鴈治郎は、映画俳優になりたいよって、

成駒屋と呼ばんといとくなはれと述べ、「林君」と呼ん

でおくれやすと頼んだことを語った。厳しい溝口指導

に「眼の球が芝居しとる」と糺され困ったことを証言し

た。

 

 『残菊物語』でヒロインおとくを勤めた森赫子は、「役

の心持せちゃんとすれば」という指導を溝口に受けた

ことを伝える。

 

 田中絹代は、『浪花女』撮影で、助監督坂根田鶴子

から風呂敷包み一式に入った文楽の書物を渡され、

読むようにという溝口の伝言を聞かされた。読み切れ

る量でない程大量の書籍であったが、芸の道では私も

文楽も同じとして役作りを為した。

 

 溝口健二の妻千枝子は精神の病に苦しみ、健二自

身も悲しんだ。

 

 映画批評家Qこと津村秀夫は自責の念を健二が抱

いていたことを証言する。

 

 プロデューサー絲屋寿雄は「本は足で書く」という溝

口の言葉を紹介する。

 

 木暮実千代は、溝口から「普段も雪夫人になったつ

もりで」という言葉を、『雪夫人絵図』の撮影でかけて

もらったことを証言する。

 

 柳永二郎は『雪夫人絵図』の撮影で「任せてくれた

んじゃないですか」と溝口の心遣いを想像する。

 

 新藤兼人・乙羽信子の夫婦問答がある。乙羽信子

は溝口健二先生は田中絹代さんがお好きだったと語

る。

 

 甲斐荘楠音は、着付はほとんどやったと証言する。

 

 京マチ子は、『雨月物語』において、「森さんや絹代

先生は素晴らしい」と共演者を讃える。

 

 田中絹代は、『雨月物語』の撮影で疲労した森雅之

が珍しく煙草を欲し、溝口が自らライターをつけた事を

証言する。

 

  宮川一夫は、溝口健二の気持ちの大変優しい時

にぶつかったと感謝を述べる。

 

 新藤兼人は、溝口健二さんから「僕は田中君の事

が好きです」と言われたことを伝える。

 

 田中絹代は、「先生と私はスクリーンの上の夫婦

だったんです」と語る。

『西鶴一代女』 一

 この問答は当記録映画の山場・クライマックスであ

ろう。

 

 香川京子は『近松物語』の撮影で浪花千栄子の指

導を受けたことを語る。

 

 入江たか子は『楊貴妃』降板問題は自分から辞め

ましたと語った。

 浦辺粂子は、俳優が役を降ろされることはどれほど

辛いかと悲しみ、「先生をお叱りした」ことを証言する。

 

 伊藤大輔は、溝口健二との交友関係を語る。

 

 新藤兼人は、溝口健二と同年であり、友人であった

伊藤大輔へのインタビューで日活向島の苦闘の日々

を聞く。

 

 伊藤大輔は明治三十一年(1898年)十月十三日愛媛

県に誕生した。

 大正三年九月十日発行の『保育会雑誌』に掲載

された文章『夏休の一と日』が、伊藤大輔最初の

文筆活字記録と言われている。

伊藤家

 少年時代より文学・演劇に熱中し、文章を雑誌に投稿

し、自作の戯曲を小山内薫に送り添削指導を乞うた。

 呉の海軍工廠の勤務を経て、小山内薫に招かれ、東京

に行き、活動大写真の脚本を書く事を勧められ、脚本家

になり、後に映画監督となった。大正十一年(1920年)十

一月二十四日、松竹キネマ蒲田製作、伊藤大輔原作・脚

本、小谷ヘンリー監督の活動大写真『新生』が公開される。

 

 

 大正十二年(1923年)七月一日公開、松竹

蒲田公開、脚本伊藤大輔、監督野村芳亭の

映画『女と海賊』が公開される。この脚本を大

輔は「新時代劇映画」と名付け、これ以後現代

から見て昔の物語を語る作品は、「時代劇」

と呼ばれる。

 

 大正十三年(1924年)五月一日公開、帝国

キネマ演芸芦屋撮影所製作『酒中日記』は、

伊藤大輔にとって最初の監督作品である。

 

 残念なことに、大輔が大正時代に脚本・監

督を勤めた作品のフィルムの殆どは現存して

いない。

 

 大正十五年(1926年)十一月二十日公開(十

日公開説あり)の日活大将軍製作の映画『幕

末剣史 長恨』 は、伊藤大輔にとって初の時

代劇監督作品である。時代劇映画の父と呼ばれ

た大輔は、時代劇に命を吹き込んだ。

 無声・トーキー白黒・トーキーカラーの三時代

に渡り、日本映画を支え、六十代以後は舞台

演出の仕事に取り組んだ。

 

 インタビュー出演した本作が公開された時代

大輔は七十六歳であった。師小山内薫のもとで

学んだ青春の日々を熱く新藤に語っている。

 

 

   伊藤「小山内先生が蒲田で一党を率いてね、

      映画の道を言うて集められて、全員俳優、

      老いも若きも、全員俳優、全員誰でもシナ

      リオを書く。誰でもいいし、レフを持つとい

      う。そういうシステムでいたんです。

      私はだいたい新劇のシナリオ・戯曲に没頭

      していた時分ですからね。しょうことないもん

      書いてはね、小山内先生が映画の世界に

      入られる前から一幕物書いては、今のシナ

      リオライターがシナリオ持ってくる具合に、親

      切に補導をしてもらったんです。」

 

  新藤 「当時の脚本とはどういうものですか?」

 

  伊藤 「日活で向島でやるのは、監督がカメラ

       さんの横で台本を読み上げるでしょ。そ

       れに従って、女形は女形の台詞とカット

       でやってるという様式のものなんです。

       映画劇のシナリオというと帰山教正さん

       あたりかもしれませんけど、それは知ら

       ないもんですから、クラッシックの映画ね、

       『モオションピクチャアマガジン』なんかに

       あるシナリオの手引書みたいなんかがある

       んです。『ハウ・トゥー・ライト・シナリオ』なん

       ていう。それを丸善で取り寄せてもらってね。

       これが参考にならないんだ。帰ってイタリイ

       映画のほうが参考になる。」

 

  大正十二年九月一日関東大震災が起こった。日活

向島のスタジオは壊滅し、撮影所は京都の大将軍に引

っ越した。

 

  伊藤大輔は日活大将軍時代に室町次郎後の大河内

傳次郎と出会い、『幕末剣史 長恨』の主演に抜擢した。

伊藤 大河内 唐沢

   伊藤「ですから、大河内君との出会いといいね、

      小山内先生との出会いといいね、青山さん・

      山本の嘉次さん・友田君達との出会いとい

      うのは、なんか、因縁の如きものを感じます

      ですね。」

 

 

  青山さんは俳優青山杉作、山本の嘉次さんは山本

嘉次郎監督、友田君は俳優友田恭助である。

 

  新藤「その時溝口さんも大将軍に来ていたんです

     か?」

 

  伊藤「地震でね。向島の撮影所が全部駄目に

      なって、ほいで全部大将軍へ来て、新派

      と旧劇と両方あの中でやってた。」

 

 大輔は親友健二との交流を新藤監督に語った。

 

  伊藤「わたくしと溝さんの関係はですね、酔いどれ

     仲間ですね。上田秋成の話をしたり、鷗外さん

     の話をしてみたり。」

 

 大輔は「酒の肴にぴったり」の会話と讃える。

 

 新藤兼人は溝口先生は伊藤先生を頼りにされたんじゃ

ないですか?と想像を語る。

 

   伊藤「何か煙たがってましたよ。私は丁髷物が

       多いから。あちらは現代劇ですから。」

 

 新藤兼人は『山椒太夫』について聞く。

 

   伊藤「あれは此処から出たんです。あんまり鴎外を

       知らなかったらしいんだ。」

 

 伊藤大輔の最後の監督作品は、昭和四十五年(1970年)

二月十四日公開、製作中村プロダクション・配給東宝の『幕

末』である。

 

  昭和四十六年(1971年)二月二十一日公開、製作・配給

『真剣勝負』が最後の脚本作品である。

 

 本作は伊藤大輔の映像・肉声を伝えてくれている。貴重な

出演作品である。

 文章・戯曲・映画・舞台演出・テレビドラマ脚本・ラジオドラマ

スタッフと伊藤大輔の仕事は広大である。

 

 少年時代に投稿した『夏休の一と日』に始まる伊藤大輔の

芸道は、昭和五十五年(1980年)六月歌舞伎座公演夜の

部『反逆児』演出が最後の仕事と考えられる。

 

 文章・演劇・映画・テレビ・ラジオと広がる大輔の長き活動

だが、映画はその歴史の基幹であろう。

 

 大輔の映画の遺作は、本作『ある映画監督の生涯 私家

版 溝口健二の記録』であると自分は考えている。

 

 昭和五十一年(1976年)四月十四日、伊藤大輔著・加藤泰

編『時代劇映画の詩と真実』がキネマ旬報社より出版される。

jidaigeki

 

 昭和五十二年(1977年)四月二日公開『悪魔の手毬唄』(市

川崑監督版)に『新版大岡政談』、昭和五十六年(1981年)四月

十一日公開『ちゃんばらグラフティー斬る!』(浦谷年良監督)

に『反逆児』が引用されている。

 

 昭和五十三年(1978年)一月二十一日公開『柳生一族の陰

謀』では、出演オファーを受けた初代萬屋錦之介より企画相談

を受けている。

 自分はこの映画を公開当時、大宮東映であったと思うのだ

が、銀幕鑑賞しており、ギリギリリアルタイムで伊藤大輔関連

作品鑑賞が成り立った。

 

 本作以後も伊藤大輔関連映画は公開されている訳だが、

大輔自身が参加した作品は、新藤兼人のインタビューが最後

である。

 

伊藤先生 65年

 昭和五十六年(1981年)七月十九日。

 

 伊藤大輔は西陣病院において八十二歳で死去した。

伊藤大輔 昭和戦後

 墓は蓮華寺にある。

 

 『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』において

青春を語った伊藤大輔の視線の輝きは、文字通り熱

眼であった。

 

 22時39分追記

 

 本日蓮華寺に参拝した。

 伊藤大輔墓に一礼し、心の中において、

「伊藤大輔映画は『俺の命』です」と申し上

げた。

                           

 

                      合掌

 

                 南無阿弥陀仏

 

 

                     セブン