川中島合戦  | 俺の命はウルトラ・アイ

川中島合戦 

『川中島合戦』

川中島合戦 二

映画 トーキー 120分 白黒

昭和十六年(1941年)十一月二十九日 公開

製作国  日本

製作   東宝東京

製作   森田信義

      清川峰輔

原作   棟田博

脚色   棟田博

      衣笠貞之助

撮影   三浦光雄

音楽指揮 山田耕筰

主題歌  『女の旅唄』『千曲の朝霧』

作詞    西條八十

作曲    山田耕筰

美術    松山宗

舞台効果 稲垣円四郎

録音    安恵重遠

照明    藤林甲

編集    岩下広一

現像    西川悦二

時代考証 鳥居清言

按舞    花柳寿太郎

琵琶    吉村岳城

 

出演

 

市川猿之助(上杉謙信 貝賀孫九郎)

大河内傳次郎(武田信玄)

 

長谷川一夫(小者百蔵)

入江たか子(千代野)

山田五十鈴(お篠)

 

黒川弥太郎(穴山伊豆守)

徳川夢声(市兵衛)

丸山定夫(寺崎為信)

横山運平(仁吉)

小杉義男(山本勘助)

清川荘司(半兵衛)

鳥羽陽之助(九郎助)

高堂国典(鳥羽日龍寺)

進藤英太郎(辛崎左馬之助)

市川猿十郎(野宅小四郎)

永井柳筰(武右衛門)

鬼頭善一郎(小松原惣太郎)

瀬川路三郎(荒倉重兵衛)

真木順(奈良本玄蕃)

深見泰三(今里五郎)

生方賢一郎(柏崎日向守)

小島洋々(新沢丹後守)

鉄一郎(鬼小島弥太郎)

大倉文雄(野宮小四郎)

沢村昌之助(貝賀五郎丸)

沢井三郎(小畑三之丞)

柳谷寛(作蔵)

佐山亮(小堀重之進)

石川冷(甚助)

中川弁公(吾平)

三田国夫(浦野大三郎)

片桐六朗(玉尾末吉)

岬洋二(伊藤正造)

坂内永三郎(千坂明義)

江頭勇(大堀三蔵)

寺島新(寺尾九十郎)

松井良輔(篠井三郎)

今成平九郎(尾形景三郎)

高松文麿(望月信吾)

中村福松(氏家左門)

冬木正三(成島正人)

正宗新九郎(石山五郎)

田中謙三(沢田欣之介)

谷山光(関準太)

河合英二郎(大杉孝蔵)

山本礼三郎(権九郎)

石黒達也(芝沢八右衛門)

松本要二郎(直江山城守)

殿山泰司(大熊六蔵)

音羽久米子(おまき)

一の宮敦子(おつぎ)

戸川弓子(およし)

三谷幸子(おのぶ)

伊藤智子(子供を失った女)

月形龍之介(足守小平太)

 

演出 衣笠貞之助

 

☆☆☆

市川猿之助=初代市川團子=二代目市川猿之助

       =初代市川猿翁=笑猿

 

大河内傳次郎=室町次郎=大河内傳二郎

         =正親町勇=西方弥陀六

 

長谷川一夫=林長丸=林長二郎

 

沢村昌之助=伊藤寿章=沢村昌之弼

 

一の宮敦子=一の宮あつ子=一ノ宮敦子

 

月形龍之介=月形陽候=月形竜之介

         =月形龍之助=中村東鬼蔵

                   =門田東鬼蔵

 

衣笠貞之助=鈴村耕=藤沢守

        =小井上春之輔=泉治郎吉
 ☆☆☆

 平成二十二年(2010年)十月十日 祇園会館 第七回

京都映画祭にて鑑賞

 ☆☆☆

 

 冒頭

 戦合島中川

 

 と題名が映る。昭和十六年横書き表記は右から左であっ

たのだ。

 永禄四年九月九日・九月十日(1561年10月27日・28日)に

起こった、上杉政虎(謙信・輝虎)と武田信玄の第四次川中

島合戦を見つめ問い尋ね語る映画である。

  衣笠貞之助は明治二十九年(1896年)一月一日三重県

に誕生した。本名を小亀貞之助と申し上げる。女形役者と

して、舞台・無声映画において活動され、後に監督・脚本家

として日本映画界を牽引された大巨匠である。

 川中島は後の長野県に在る地だが、衣笠監督は敢えて

東北山形県で撮影した。

 

 川中島合戦に関わる武田・上杉両軍の武将・家臣は勿論

のこと、合戦に関係する合戦に関わる足軽・雑兵・兵士・芸

人・庶民の物語が描かれる。

 

 戦いによって、武将達は命を落とし、庶民は犠牲になって

行く。

 

 その戦いに全てを賭け尽くし、生命を燃焼させるひとびと

の生き様・死に様を重厚で深い演出で、衣笠監督は探求す

る。

 

 合戦の物資を運ぶ小者たちのドラマが丁寧に描かれる。

美男の小者百蔵と女芸人の美人お篠の愛の物語が、重要

な柱になっている。

 百蔵に長谷川一夫。明治四十一年(1908年)二月二十七

日生まれ。日本映画を代表する二枚目スタアである。

 お篠に山田五十鈴。大正六年(1917年)二月五日生まれ。

本名山田美津と申し上げる。デビュー当時伊藤大輔にその

美貌を「ベルですなあ」(フランス語で「ベル」は「美しい」の

意味)と讃えられ、「ベルさん」の愛称で呼ばれた。深い芸

により、日本映画を代表する大スタアとなられたが、本作

公開時は既に美人スタア・大名優としての地位を揺るぎな

いものにしておられたことを察した。

 

 長谷川一夫・山田五十鈴が上杉家合戦の為に尽くし、関

わる庶民の真心を鮮やかに現す。

 

 行軍のシーンの巨大さと壮大さに息を呑んだ。製作当時は

日中戦争によって、侵略している大日本帝国も又、傷つき疲

弊し、アメリカとの太平洋戦争を前に緊迫している時代である。

 製作公開当時の時代状況が反映していることは確かであろ

う。この超大作には、戦争によって沢山の命が失われ、武将

も民も共に苦しむという事柄が確かめられている。

 

 衣笠貞之助は、記録映画の演出と思われる程丹念な映し方

で小者達の行軍の在り方を追い撮っている。CG・SFX等全く

ない時代である。昭和十六年、戦国期の物資運送のシーンは

力感が溢れ、大変な事だったんだなあと感嘆する。

 

 時代考証と資料精読・調査の緻密さを感じた。

 

 月形龍之介は、主君を変えながら生きる武士足守小平太の苦

悩を、渋く尋ね、重い存在感を示す。自分には、小平太が男性

同性愛者ではないかと思われるシーンがあった。ガタさんの凄み

が凄まじい。

 

 若き日の殿山泰司が大熊六蔵役で渋さを見せる。

 

 石黒達也が芝沢八右衛門役を迫力豊かに演じる。

 

 小杉義男の山本勘助は凄みが効きまくり、怖かった。

 

 進藤英太郎の辛崎左馬之助に、芸の重みがあった。

 

 入江たか子が未亡人千代野を熱演する。夫に代わって戦に従

軍する千代野は命を戦場に捧げる。

 

 東宝としては総力戦で挑んだ超大作歴史映画であったことが

窺える。

 

 「品作加参画映民國局報情」(情報局国民映画参加作品)と

なった訳だが、表面は国主の為に尽くす庶民を描きつつ、実質

は戦いで武将も民も疲弊し苦しむという壮大なドラマを撮ったと

ころに、衣笠監督の時局を読む活眼がある。

 

 琵琶法師が一の谷の合戦を語り、平敦盛の最期を聞かせる。

 

 日本時代劇の深い世界に息を呑み、背筋から震え、身心共に

緊張感で一杯になった。

 

 衣笠貞之助の世界は何故これほどに深いのか?

 

 祈る上杉輝虎。

 

 毘沙門天を崇敬する謙信輝虎は戦いに自己の全てを賭け尽くす。

宿敵武田信玄との合戦に全ての情熱が燃え上がる。

 

 謙信を勤める役者は二代目市川猿之助である。明治二十一年

(1988年)五月十日東京生まれ。本名を喜熨斗政泰(きのし・まさ

やす)と申し上げる。明治二十五年(1892年)十月歌舞伎座で初

代市川團子の芸名で舞台を踏み、明治四十三年(1910年)二代目

市川猿之助を名乗った。

 本作は二代目市川猿之助の映画演技を撮影した貴重な作品で

もあるのだが、その荘厳な姿と清らかな気品は、義に生きた名将

謙信その人ではないかと想像せしめる力がある。

 昭和三十八年(1963年)五月歌舞伎座で「初代市川猿翁、三代目

市川猿之助、四代目市川團子襲名披露」が開催されることが決まり、

二代目市川猿之助は猿翁を名乗り、二人の孫と同時に襲名するこ

とが予定されていたが、心臓病で聖路加病院に入院し、担当医師

日野原重明の許可を貰い、息子三代目市川段四郎と共に三日間

のみ口上の席に出演し、涙の口上と呼ばれた。同年六月十二日

に初代猿翁は七十五歳で死去した。

 三代目市川猿之助は二代目市川猿翁、四代目市川團子は四代

目市川段四郎を名乗り現在に至っている。

 初代猿翁にとって、八代目市川中車・二代目市川小太夫は弟、

市川靖子は孫、香川照之(九代目市川中車)・四代目市川猿之助

は曾孫、五代目市川團子は玄孫に当たる。

  『川中島合戦』は、二代目市川猿之助にとって、数え年五十三歳、

満年齢五十二歳の作品だが、円熟の境地にあったことが窺える。猿

之助は主演でありつつ、特別出演と配役クレジットで表示されてい

る。

 「初代猿翁は愛嬌豊かな役者」と『演劇界』でリアルタイムで舞台

を見た先輩方は仰っているが、本作ではストイックで純情一徹な軍

神の如き名称を清らかな芸によって勤めている。

 

 武田信玄晴信を勤める俳優は大河内傳次郎。明治三十一年(18

98年)二月五日(戸籍上は三月七日)福岡県生まれ。本名を大邊

男と申し上げる。新国劇を経て日活大将軍に入社し室町次郎の芸

名で活動していた。

 伊藤大輔が室町次郎に注目し、大河内傳二郎と改名した次郎を

『幕末剣士 長恨』の主役壱岐一馬に抜擢し、映画は大正十五年

(1926年)十一月二十日に公開された。傳二郎の名が謝って傳次郎

と表記されたが、以後この芸名で通した。大輔・傳次郎の監督・主演

コンビは無声時代劇映画に悲しみの英雄を描く大傑作を次々と発表

し、歴史を明かした。

 『川中島合戦』の時代は、大河内傳次郎数え年四十四歳、満年齢

四十三で脂の乗り切った、充実の時期であったと拝察する。

 その風格・その貫録は言葉・文字を越え、戦国武将の重厚さを伝え

てくれる。

 

 物資運送の小者達の悲劇・未亡人の犠牲・庶民の痛み・武将達の

戦死という合戦によって傷つき、命を落とす人々の物語が深く見つめ

られ語られる。

 

 その壮大な合戦ドラマの集大成シーンとして、上杉謙信対武田信玄

の一騎打ちが映される。

 二代目市川猿之助と大河内傳次郎と言う歌舞伎・映画のスタアどうし

の演技合戦が、雄大な劇世界を銀幕に明かす。

 

 衣笠貞之助監督の壮麗な演出に、二代目市川猿之助・大河内傳

次郎が応えた。

 

 

 

 

  京都文化博物館編『映画の青春』には、昭和四十七年(1972年)

三月二十四日から二十九日に行われた衣笠監督のインタビューが

収録されている。

 

    衣笠  私は映画に出会ったことをまったく悔いていませんね。

         というのは、私は映画と同じ年なんですね。映画はこ

         こまで来たんだと思うと同時に、自分はまだまだなん

         じゃないかとか・・・・・・。絶えず明治二十九年に、ア

         メリカとヨーロッパで映画が誕生したのだと・・・・・・。

         たまたまそういった仕事に興味をもって、まあまあや

         りたいと思うことをやらせてもらってきた。そして、あと

         は興行的なものに追われて、なかなか自分の思うよ

         うなものは作れなかったし、また作る力も出来ていな

         かったという気がする。しかし、映画といういい仕事に

         関わってきた。

         (『映画の青春』158頁 平成十年三月三十日発行

          キネマ旬報社)

 

  昭和五十七年(1982年)二月二十六日、衣笠貞之助は八十六

歳で死去した。映画と同じ年に生まれ、歩まれた名匠である。謙虚

な言葉に衣笠監督の姿勢を仰ぐ。「映画はここまで来たんだと思う

と同時に自分はまだまだなんじゃないか」という言葉にドキッとする。

 大名匠衣笠貞之助にして、この一言である。

 

 寧ろ反対で、衣笠貞之助が時代劇映画で無限の深さを探求され

たのに、その後、日本で時代劇映像は崩壊・瓦解の道を辿りつつ

あるということこそ事実であろう。 衣笠先生の偉業に学ばなかった

ツケが、一挙に迫り、現代の危殆に瀕した状況を呼んでしまったと

言うべきだ。

 

 しかし、衣笠貞之助本人とっては、昭和四十七年の時点で、「自

分はまだまだ」と感じ尚も歩み、「映画という仕事に関わってきた」

ことへの喜びを噛みしめる時代にあったことを確かめたい。

 

 『川中島合戦』は数え年四十六歳・満年齢四十五歳の衣笠貞之

助が撮り語った戦国群像劇であり、時代劇映画の一大傑作として

無限の輝きを放っている。

 

 

                                 文中敬称略

 

  大河内傳次郎百二十歳誕生日

  山田五十鈴百一歳誕生日 

                      平成三十年(2018年)二月五日

 

 

                                     合掌

 

 

                                南無阿弥陀仏

 

 

 

                                    セブン