八代目坂東三津五郎丈 没後四十三年・四十四回忌御命日 | 俺の命はウルトラ・アイ

八代目坂東三津五郎丈 没後四十三年・四十四回忌御命日

八世

 八代目坂東三津五郎(はちだいめ・ばんどう・みつごろう)

 歌舞伎役者・映画俳優・テレビ俳優・演劇研究家・日本芸能

研究者。

 本名 守田俊郎

 明治三十九年(1906年)十月十九日東京府生まれ。

 生後すぐ七代目坂東三津五郎の養子となる。

 大正二年(1913年)三代目坂東八十助の芸名で市村座で

初舞台。

 昭和三年(1928年)六月明治座で六代目坂東簑助を襲名。

松竹から東宝劇団に参加し関西歌舞伎に行く。

 昭和十六年(1941年)十月二十五日公開、松竹下加茂製作、

伊藤大輔監督の映画『鷲ノ王峠』に主演。

 昭和二十五年(1950年)五月六日公開、大映京都製作、伊

藤大輔監督の映画『われ幻の魚を見たり』で解説(ナレーター)

を担当する。

 昭和三十一年(1961年)五月二十七日公開、東映京都製作、

内田吐夢監督の映画『宮本武蔵』で池田輝政を勤める。

 昭和三十七年(1962年)九月歌舞伎座『六歌仙容彩』喜撰で

八代目坂東三津五郎を襲名。

 昭和四十九年(1974年)十二月国立劇場大劇場『仮名手本

忠臣蔵』「二段目」「八段目」「九段目」公演の「二・九段目」で

加古川本蔵を勤める。

 昭和五十年(1975年)一月南座『お吟さま』で千利休を勤め

る。同月十六日河豚中毒で急死。六十八歳。

 

 八代目三津五郎丈の舞台を見聞することは、自分にとって

叶わなかった事柄でした。

 「八十助さん(十代目三津五郎丈)と季実子さんのお爺さん

で河豚中毒で亡くなった方」と少年時代本で読みました。

 初めて映像を拝見したのは、テレビ放映の内田吐夢監督

『宮本武蔵』の池田輝政役でその凄みに圧倒されました。

 後の平成五年(1993年)一月四日京都文化博物館におけ

るこの映画の上映で六代目蓑助時代の八代目三津五郎丈

の深い芸に感嘆しました。

 歌舞伎を劇場で見るようになって、演劇古書を集めるうち、

八代目三津五郎丈は、日本演劇の演技・芸道は勿論の事、

東洋の伝統や宗教・哲学も深く研究されていることを学び

ました。

 仏教に学ぶ自分は、三津五郎丈の『仏説観無量寿経』の

研究に大きな示唆を与えて頂きました。

 武智鉄二氏の武智歌舞伎では、指導者として活躍され、

三代目實川延若丈・四代目坂田藤十郎丈・五代目中村富

十郎丈・八代目市川雷蔵丈を育てられたことを知りました。

 

 伊藤大輔監督とは、小山内薫門下ということもあって、仲が

良かったようです。

 

 『時代劇映画の詩と真実』所収『花中舎独語』で伊藤監督が

『六歌仙容彩』における「姉さん、おんじょかエ」の「おんじょ」が

わからず、「ほんじょ(本所)」と解釈されている例を挙げて、八

代目三津五郎丈に問われたそうです。

 

 「言われてみれば、なるほどこれまで少しも気がつかないま

まやっていましたが、早速調べてみます」と三津五郎丈は返事

され、「歌詞は伊勢詣りの参宮唄から採ったもの。元歌では、

〝ほんじょ〟とあるのを、清元で〝ほんじょ〟と改めた」と調査

され応答されたそうです。

 

 博覧強記の大名優であらせられた。

 

 『名作歌舞伎全集』には解説文を書かれてます。

 

 

 

 

 

三津五郎

 『助六』の意休。迫力ありますね。

 

 三津五郎

 

 

 

 

師直

 

八世 三津五郎

 昭和五十年一月十六日。愛孫池上季実子様十六歳お誕生日

に亡くなられました。

きみこ

 

 八代目三津五郎丈の生涯に敬意を表します。