大輔先生にとっての小山内薫氏と東健而氏の影響 | 俺の命はウルトラ・アイ

大輔先生にとっての小山内薫氏と東健而氏の影響

 『映画の青春』において伊藤大輔先

生は、大正九年に小山内薫氏の俳優

学校に入られたことを確かめておられ

ます。


    伊藤 ご存じかもしれないけれど

        も、森田みね子という翻訳

        家がいたんです。女性の名

        前ですが、東健而という映画

        評論家です。あれは潜水艦

        の優秀な設計家なんですよ。

        あの人の「映画講座」は一生

        懸命聴きました。基本的には

        ああいう人から教えられたわ

        けですね。で、映画というもの

        はあなどれないものだなと。


    ー小山内先生に影響を受けられたの

     はどういうところですか。


     伊藤 やはり外国物の摂取ですね。

         ダンセイニの一幕物とか、「こ

         れが映画になるかね」とゴッホ

         の肖像画なんかを見せられま

         した。そういう訓練の仕方でした。

    (『映画の青春』 

     180頁 平成二年三月三十日発行

     キネマ旬報社

     インタビューは昭和四十六年十二月

     九・十・十一・十三・十四日

     聞き手は滝沢一)


 
伊藤 右太

 昭和四年(1929年)『一殺多生剣』演出の

伊藤大輔先生です。左から二人目の美男子

です・左隣は主演の市川右太衛門御大です。


 美男の伊藤先生に俳優学校にと声がかか

ったことは想像が成りちます。三十円の給料

ももらったそうです。大正九年の三十円はか

なりの高額と思われます。


 翻訳・潜水艦設計をされていた東健而氏

の指導を受けて、演劇を志望していた大輔

先生は、「映画は侮れない」と痛感された。


 小山内先生から戯曲や名作絵画を観て

「映画になるか?」と想像力を刺激する道

を学ばれた。


 伊藤大輔先生は、映画・演劇・テレビ・ラジ

オドラマのスタッフとして大活躍されました。


 どれだけ沢山の作品に関わったかは、精確

なデータがまだ出ていない程無数の作品を

書いておられます。


 先生の広大無辺の想像力の原点は、師匠

小山内薫先生と東健而先生の指導・講義に

あったのかなとも思います。


                文中一部敬称略


                        合掌