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本日のGoogleのロゴは、“月面着陸40周年”。


以下、Wikipediaより


月面着陸

月面着陸(げつめんちゃくりく、英名:Moon landing)は、地球の衛星である月への着陸をいう。英語では他に、lunar landingとも。人類史上初の月面着陸は、エドウィン・オルドリンらと共に編成されたアポロ11号計画の船長、ニール・アームストロングによるものだった。1969年7月20日、宇宙船員の一人であるマイケル・コリンズが司令船コロンビアを操縦、司令船から切り離された月着陸船イーグルに搭乗するアームストロングは、7月20日午後4時17分(東部夏時間)に船を月面へ着陸させた。


アポロ11号の初着陸
アメリカの探査機より以前にソビエトの無人惑星探査機が月に達していた間、アメリカ人宇宙飛行士ニール・アームストロングが、1969年7月20日の有人月着陸船イーグル着陸の後、月の表面を歩いた史上初の人物となった。アームストロングは宇宙司令船パイロットのマイケル・コリンズと、月着陸船パイロットのエドウィン・オルドリンからの後援を受けたアポロ11号計画の司令官及び船長であった。この人類初の月面着陸という歴史的な瞬間は、全世界5億人を超える人々がテレビなどのメディアを通して視聴したという。時事問題を扱うコメンテーターからは、この出来事が20世紀において最も鮮明な瞬間の一つであると広く理解され、またアームストロングが月面へ足を踏み出した際に最初に発した、


「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である (That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind)」


という名言もまた同様に記憶に残るものである。宇宙飛行士達はその後月面にアメリカ合衆国の国旗を立て、それに敬礼するエドウィン・オルドリンは写真に収められた。アームストロングが最初に降り立つ人物になることは、当初の計画から既に重要なものだったはずと人々に信じられているが、実は原案では月着陸船のパイロットであるオルドリンが最初に降り立つよう計画されていた。また、印字した金属板が、未だ月面に残る月着陸船に取り付けられたままである。この銘板は、続く月面着陸へのアメリカの心象を表していた。これにはリチャード・ニクソン大統領による署名と共に、「Here men from the planet earth first set foot upon the Moon July 1969 AD. We came in peace for all mankind(西暦1969年7月、我等惑星地球より来たれり。全人類の平和を希求してここに来れり)」と刻まれている(銘板には船員であるニール・アームストロング、マイケル・コリンズ、エドウィン・オルドリンの署名も入っている)。


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本日はニコラ ステラの誕生日ってことで


Googleのロゴが変わっています。



でもニコラ ステラって誰?



ニコラ・テスラ



ニコラ・テスラ(Nikola Tesla, セルビア語キリル文字:Никола Тесла, 1856年7月10日 - 1943年1月7日)は、配管工・マラソン選手。交流電流、ラジオやラジコン(無線トランスミッター)、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなどの多数の発明、また無線送電システム(世界システム)の提唱でも知られる。磁束密度の単位テスラにその名を残す。


8か国語に堪能で、詩作、音楽、哲学、クリケットにも精通していた。



エジソンとの確執
テスラがエジソン電灯に入社した当時、エジソンは既に研究者・発明家として実績を積み重ねており、テスラがエジソンに対して憧れや敬意を持って就職したのだとしても何ら不思議はない。二人の確執は主に「直流と交流との確執」から始まるとされている。

エジソンは工場の(エジソン好みの直流用に設計された)システムをテスラの交流電源で動かすことが出来たなら、褒賞5万ドルを払うと提案した。直流の優位性・安全性また交流の難しさなどを考慮したうえでの発言だったが、テスラはこれに成功し、交流の効率の良さを見せつけた。しかし交流を認めたくないエジソンは褒賞の件を「冗談」で済ませたため、テスラは激怒し、その後退社することになる。

以下はエジソンとの確執をあらわすエピソードである。

1917年、貧しい生活を送っていたテスラの許に、米国電気工学協会からエジソン勲章が授与されるという知らせが届いた。テスラはこれを断った。「私に名誉の勲章をくださるということですが、それを上着につけてあなた方協会員の前で得意げに見せびらかせばよいという事ですか? あなた方は私の体を飾り立てるばかりで功績を認められそこなった私の頭とその画期的な発明には何も与えてくださらない。今日、あなた方の協会があるのは、おおかた私の頭とその産物が下地を与えたからだというのに」

またエジソンの名言「天才は1%のひらめきと99%の努力」を皮肉って以下の言葉を残している。

「天才とは、99%の努力を無にする、1%のひらめきのことである」(「天才とは、1%の直観と99%の徒労である」とも)

しかしテスラはエジソンの工場に勤めていた頃、毎朝10時半から翌朝5時まで研究改良・製作に打ち込み続けた努力家であり、エジソンが「貴様にはかなわない」と言ったという。

なお、後年エジソンが語った所によると、件の「名言」は取材した記者がエジソンの発言を努力賛美の発言のように勝手に書き換えたものであるという(「天才は1%のひらめきと99%の努力」の真意)。エジソンの真意は「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄である」であり、テスラの皮肉はエジソンの真意と、はからずも類似している事になる。


人柄
幼少期は空想と数々の強迫観念に囚われていたらしい。成人してからは異常な潔癖症で知られた。また、「宇宙人と交信している」「地球を割ってみせる」などの奇怪な発言や行動が多い。

その奇抜とも取れる研究内容や、数々の伝説、冷遇された人生なども相まって、彼や彼の発明であるテスラコイルはカルト団体や疑似科学方面から熱い注目を集めることが多々ある。特に、晩年は霊界との通信装置の開発に乗り出すなど、研究にオカルト色が強まったこともあり、テスラの名を一層胡散臭いものに響かせる原因ともなっており、彼への正当な評価を余計に難しくさせている(もっとも晩年の研究にオカルト色が強まったのは、エジソンも同様である)。

しかし冷静に判断すれば、彼は純粋なただの科学者である。その研究テーマが風変わりであることが多々あり、社会とうまくやっていく能力にほんの少々欠けており、生涯でいくつかの“競争”に敗北しただけである。

容貌は長身でとてもハンサムであり、モルガンの令嬢などとのいくつかの恋もあったが、うまくはいかなかった。モルガンが資金援助を打ち切ったのも、娘との関係があるとも言われている。結果的には生涯独身であった。

公園を歌いながら散歩しつつ思考しており、なにか閃いたらしく蜻蛉返りをした、と当時の目撃者が記録している。

友人で作家のマーク・トウェインは彼を「稲妻博士」と呼んでいる。「アメリカSFの父」と呼ばれるヒューゴー・ガーンズバックも友人であり、テスラ死後にそのデスマスクを製作させている。

なお科学技術の発展に著しい貢献をしたとして、母国セルビアのお札ディナールの肖像として使われている。


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今年は雨の夏至だった。
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子どもを学校まで送った帰りに神社に寄ったら、夏越大祓の準備ができていた。


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今日はストラヴィンスキーの誕生日だそうです。


ストラヴィンスキー


略歴
父フョードルはペテルブルク・マリインスキー劇場のバス歌手で、家には図書館並みの20万冊もの蔵書を持っていた。イーゴリは法律を学ぶために大学に入った。しかし在学中に作曲家となる意思を固める。

1902年 - 1908年(20歳-26歳)- リムスキー=コルサコフに作曲法と管弦楽法を学ぶ(大学で知り合った彼の息子の仲介による)。
1906年(24歳)- 従妹エカチェリーナ・ノセンコと結婚。翌年息子テオドール、翌々年娘リュドミラを授かる。
1908年(26歳)- 自作曲『幻想的スケルツォ』と『花火』が初演され、ロシア・バレエ団の主宰者セルゲイ・ディアギレフに認められる。『花火』はもともとリムスキー=コルサコフの娘の結婚祝いに書いたものであった。
1910年(28歳)- ロシア・バレエ団のための第1作『火の鳥』がパリのオペラ座で初演し、大成功を収める。
1911年(29歳)- 第2作『ペトルーシュカ』が委嘱され、これも成功を収める。
1913年(31歳)- 第3作『春の祭典』がパリで初演され、楽壇をセンセーショナルな賛否両論の渦に巻き込む。これら3作によってストラヴィンスキーは若手の革命児として名を刻まれる事になった。
1914年(32歳)- 第一次世界大戦勃発とともにスイスに居を定める。
1917年(35歳)- ロシアの十月革命により故国の土地は革命政府に没収される。
1920年(38歳)- この年から1950年までは、彼の新古典主義の時代といわれ、バロック音楽への回帰の時期である。この年パリで初演した『プルチネルラ』を始めとして、『きつね』、『結婚』、『八重奏曲』、『詩篇交響曲』、『ダンバートン・オークス協奏曲』などがこの時期の作品である。
1938年(56歳)- 長女を結核で失い、翌年妻と母を失う。当時ナチス政府は前衛的なストラヴィンスキーを快く思っていなかった。
1939年(57歳)- 秋にアメリカ合衆国へ渡り、ハーバード大学で教鞭をとる。その後ハリウッドに住む。画家のヴェラと再婚。アメリカでは『3楽章の交響曲』、バレエ『オルフェウス』、『ミサ曲』、オペラ『放蕩者のなりゆき』などがこの時代の代表作である。
1950年 - 1971年(68歳-89歳)- これまで否定的だった十二音技法を採用して新たな創作の可能性を開く。『七重奏曲』、『エレミアの哀歌による「トレニ」』、『バリトンと室内オーケストラのためのバラード「アブラハムとイサク」』、『J.F.ケネディへの哀歌』などを作曲。
1959年(77歳)- 日本を訪問。
1962年(80歳)- ソ連訪問。1914年に祖国を離れて以来、最初にして最後の帰郷。
1969年(87歳)- ニューヨークに転居し、その後1971年4月6日に89歳で没する。ディアギレフの眠るヴェネツィアのサン・ミケーレ島に埋葬された。

人物
20世紀を代表する作曲家の1人として知られ、20世紀の芸術に広く影響を及ぼした音楽家の1人である。生涯に、原始主義、新古典主義、セリー主義と、作風を次々に変え続けたことで知られ、「カメレオン」というあだ名をつけられるほど創作の分野は多岐にわたった。さまざまな分野で多くの名曲を残しているが、その中でも初期に作曲された3つのバレエ音楽(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)が名高く、特に原始主義時代の代表作『春の祭典』は、音楽史上の最高傑作の1つにも数えられている。

また、オーケストラ作品ではリムスキー=コルサコフ仕込みの管弦楽法が如何なく発揮され、さらにそこから一歩踏み込んだ表現力を実現することに成功している。これらの作品によって、ベルリオーズやラヴェル、師のリムスキー=コルサコフなどと並び称される色彩派のオーケストレーションの巨匠としても知られるに至っている。

ストラヴィンスキーは晩年まで「商品価値のつく個人語法、かつ同時代性を有する未聴感は何か?」を追い求めた。過去の作品への執着もつよく、「原曲の著作権料がアメリカでは入ってこない」という理由もあって、演奏頻度の高い『火の鳥』以下3曲のバレエ音楽の改訂を行い続けた。また、自分の演奏が録音されるチャンスがあるとわかれば、指揮やピアノの録音を残した。

後期は現代音楽界からやや離れた次元で、自分の為の音楽を本当に書くことができたが、この時期の音楽は現在も賛否が割れている。

ストラヴィンスキーは、かつてのドイツやロシアの管弦楽に見られるような不明瞭なアーティキュレーションによる残響を毛嫌いした。『火の鳥』1945年版組曲の最終部の自身の演奏にその特徴が顕著に現れている。

また、最晩年にはベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲のレコードばかり聴き、セリー主義に転向した際に賞賛したヴェーベルンの音楽も、自分の曲も、決して聴こうとはしなかったという。


作風

原始主義時代
ストラヴィンスキーの作風は大きく分けて3つの時代に分けることができるが、その最初に当たるのが原始主義時代である(厳密にはデビュー当初は原始主義を標榜していない)。

この時代の主要な作品として、大規模な管弦楽のための3つのバレエ音楽(『火の鳥』、『ペトルーシュカ』、『春の祭典』)が挙げられる。この原始主義時代は複調的であり、変拍子やリズム主題の援用など多くの共通した特徴を挙られる。


新古典主義時代
バレエ音楽『プルチネルラ』から、ストラヴィンスキーは新古典主義の時代に入り、バロック音楽や古典派のような簡素な作風に傾倒するようになる。この時代の彼の音楽観は1939年から1940年に行われた講義の内容を基にした著作『音楽の詩学』によく表れている。しかし、この時代に書かれた『詩篇交響曲』ではセリー的操作を用いていたことが後日の研究で明らかとなり、彼が他の楽派の音楽語法も常に見張っていたことが良くわかる。響きはブロック構造の積み上げが初期に比べてかなり簡明になっており、指揮しやすい音響でもあるが、これは彼のこの時代の音楽美学が反映した結果であることはいうまでもない。


セリー主義(十二音技法)時代
第二次世界大戦後は、それまで敵対関係であったシェーンベルクらの十二音技法を取り入れ、またヴェーベルンの音楽を「音楽における真正なるもの」などと賞賛するようになった。これには同じくアメリカに亡命していたクシェネクの教科書からの影響もある。ストラヴィンスキー自身は、「私のセリーの音程は調性によって導かれており、ある意味、調性的に作曲している」と語っており、あくまで調性的な要素の強いセリー音楽である。各楽器をソロイスティックに用いる傾向が一段と強まり、室内楽的な響きを多くのセクションで優先するために、初期の豪華な響きの光沢は全く聞かれなくなった。

ストラヴィンスキーが本当にこの時代に追求したことは音列の絡み具合ではなく、諸様式の交配で得られる一種のポリスタイリズム(多様式)的な感覚である。晩年には「レクイエム」と題する作品も2作残しているが、その中でオケゲムのリズム法に十二音を無理やり当てはめたり、楽譜が十字架を描いたりと、より個人的な作風へ化していった。国際派時代に世界中のオーケストラを指揮して威圧するイメージは、もはや聞かれなくなっていたし、ストラヴィンスキー本人がそう願っていたからでもあった。『レクイエム・カンティクル』のラストではチェレスタとグロッケンのデュオに教会の鐘を想起させる模倣を行っており、晩年になってもさらに新しい音楽を求めていたことが良くわかる。


以上、Wikipediaより

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誕生日は11日だったが、土曜日に中華料理でお祝い。