国会中継を聴いていると、東日本大震災の時につくられたケア付き集合住宅と言う言葉が出て来ました。能登半島地震、高齢者のみの住宅も多く、ケア付き集合住宅とはどう言うものかと思いました。
日本のあちこちに、海が見える所にマンションや介護付き老人施設が有るので、県営とか市営のケア付き集合住宅は良いのでは、と思いました。親を引き取って土地を売却したい、と言う方々がいらっしゃる場合にはそこは別にしておいて、倒壊した後に長く雪や雨に当たっている所にボランティアの方々に片付けをお願いする事は危険極まりないので、ガーッと機械で片付けをして(個人ですると土地の売却代金くらいかかるかもしれません。新しく建てる予定の方々の土地の等価交換などもする)更地にして、県や市の管理する地区にする。跡を継ぐ人がいない土地は更地にして国に返すようになる⁉️なっている⁉️時代なので固定資産税を払うより良い場合もあるし、東日本大震災の時にどうしたか、、、、。日本の人口は減るばかりだし🤔何年も前から、"消えていく町"や"衝撃の縮小日本"と言われているのだから。
老人ホームで利益を得ようとする方々の手に余るくらいの超高齢化時代に突入するので、、、良い‼️
ポチッと♡
↓上を書き写しました。
東日本大震災の復興における都市政策と健康・医療・福祉政策の連携
及びコミュニティ形成に関するガイドライン
〔参考資料編〕
[目次
■第1章「はじめに」関連
参考資料1
健康・医療・福祉関連施設一覧
…・・1
■第2章「本格復興時における都市政策と健康・医療・福祉政策の連携」関連
参考資料2 健康・医療・福祉のサービスを統合した多機能型の施設の事例
参考資料3 公共公益施設と連携した多機能型施設の事例・・:13
参考資料4 公共交通施設と連携した多機能型施設の事例・・・15
参考資料5
「津波被災地における民間復興活動の円滑な誘導・促進のための土地利用
調整のガイドライン(平成23年7月22日)」の抜粋
参考資料6 サービス付き高齢者向け住宅、グループホーム、コレクティブハウジングの事例
参考資料7 たまり場となる空間の整備事例
参考資料8交通不便地域における多様な移動手段例の制度概要
参考資料9 道路の移動等円滑化整備ガイドラインにおける基準の概要
参考資料 10健康づくりにも配慮した道路空間整備の事例
■第4章「都市政策と健康・医療・福祉政策の連携の進め方」関連
参考資料 11産学官の連携による取組事例
参考資料12 PFI等の事業手法による健康・医療・福祉施設の整備事例
参考資料 13 パーソナルサポート、コミュニティ形成支援員に関する事例
ウム🫤↑他県の物件を資料にしているだけ⁉️で実際はどうだったのでしょう。
↓
特集 災害復興における医療・福祉の展開
「福祉避難所」ならぬ「ケアつき避難所・ケアつき仮設」を阪神・淡路大震災を体験した者として
社会福祉法人 阪神共同福祉会
理事長 中村大
1. はじめに
福祉避難所なる語句は、阪神・淡路大震災時にはなかった。その後、1997年の「災害救助法」運用基準の見直し時に位置付けられた。実際の開設は2007年の能登半島地に始まり、その後の中越沖地震から広く一般的に開設されるようになり、2011年の東日本大震災では、被災地に福祉避難所が設置されたことは広く知られている。
だが、「福祉避難所」が公用語として定着する以前から、福祉的避難所の存在は、1995年の阪神・淡路大震災時においても、福祉施設とりわけ高齢者福祉施設がその任を果たしていた。
当時、私が働いていた尼崎市にある特養(特別養護老人ホーム(以下、特養))「園田苑」でも、地震発生直後から、たちまち在宅での生活継続が困難となった高齢者が飛び込んできた。当時は措置費時代であり施設の利用は行政による措置権の発動であったが、緊急事態を目の当たりにして、いちいち行政に御伺いを立てることなど論外であった。
ただ、この状況に直面してなお行政の指示待ちに陥った、平時のマニュアルを墨守した施設が少なからずあったことは、その後に問題を残した。
震災直後に飛び込んできた高齢者は、従前から当施設の在宅サービスを受けていた人がほとんどであったが、途方に暮れて歩いているところを運よく知人と出会い、園田苑に行けば何とかなると連れてこられた独居高齢者もいた。
高齢者福祉施設に飛び込んできた人たちは、何も高齢者に限らなかった。尼崎市に隣接する伊丹市の特養「あそか苑」では、近隣のマンションから乳幼児を抱えた避難者が200名ほどなだれ込んできた。被災した自宅ではできなかったミルクの調合や離乳食の調理が、施設では可能となり大変喜ばれた。
前述した震災直後に「なんとかなる」とやってきた人も、自宅の修復や一般仮設住宅が建設されるに及んで、一人減り二人減りとだんだん減少していったが、園田苑の場合はそれでも定員50名を超えること 12名の人たちが約3ヶ月間滞在した。
昼間はデイサービスや特養の利用者に混じって過ごし、夜間はデイサービスルームで雑魚寝状態であった。対応する職員を特別に増やすこともできず、どうなるかと心配したが、「案ずるより産むが易し」とはこのことで、夜間などは、さながら中学・高校生が修学旅行で過ごす旅館の大部屋的宿泊の賑いである。それぞれ、めいめいが自分の居場所を自ずと決め、それなりの秩序を保っていたのには、「高齢者は伊達や酔狂で年はくわないもの」だと納得させられ、変に感心した。
その人たちのADL(日常生活動作)にも左右されるが、直前まで在宅生活をしていた人たちなので、あれもこれもと職員が手出しをしなくとも、集団になればそれなりに集団生活を律するものであることを知った。私はこのような状況を「高齢者が自律して協働生活を営むスタイル」と名付けた。
高齢者福祉施設などに避難してきた人たちは、結果として緊急入所になった人もいたが、そのほとんどは一時的緊急避難者であった。
それでも、一人の女性が仮設住宅に移るにあたり、「ここが私にとって天国に一番近い所でした。皆様に多くの幸せがありますように」との挨拶は、あながち、彼女がクリスチャンだから言わしめたものではない。
阪神・淡路大震災を経て1年後の1996年6月に、園田苑も加盟する兵庫県老人福祉連盟が震災を振り返って出版した記録集のタイトルが『大震災共に生き
る』であり、そのサブタイトルは編集者の一致した表現として「老人ホームは安心拠点」を採用したのは、農災時に果たした高齢者福祉施設の自負がそうさせたのである。
なお、同連盟が社団法人兵庫県老人福祉事業協会と組織変更して、2005年に出版した震災記録、提言集
パート2のタイトル及びサブタイトルもそのまま変わっていない。
阪神・淡路大農災を体験した者の一人として、その後各地で震災体験や被災者支援について述べる機会があった。
1995年10月、埼玉県でのことである。阪神・淡路大震災で果たした高齢者福祉施設の実例を発表し、その場に同席していた当時の厚生省C課長に、特養等高齢者福祉施設の居室等の面積、配置基準を災害時の被災者救援に対応すべく拡張、拡大すべきではないかと口頭で申し入れたが、「施設はそのことを前提としていない」とのそつけない返事であった。今から思えば古い話である。
2. 避難所は福祉的要素を持つ現在、福祉避難所をインターネットで検索すれば、様々なところがヒットする。例えば尼崎市で検索すれば高齢者施設名が画面に表示される。
東日本大震災以来、定点支援、継続支援として関わっている気仙沼市のそれを見ると、20ヶ所のうち13
ヶ所が特養、デイサービス、グループホームなど高齢者施設が指定避難所として挙げられている。しかも、事前に福祉避難所としての指定の有無は全部が「無」である。さもありなんと思う。
そもそも、福祉避難所として事前に指定されており、そのことへの取り組みが平生に目的意識的に行われている方が不思議なのである。東日本大震災以降、津波から身を守る高所避難所の掲示が至る所で目につくが、それとは用途目的において違うから、福祉避難所なる掲示はあえて明らかにしなくてもよいのと同じである。
そもそも、私には福祉避難所なる語句は奇異に感じる。福祉+避難所というように、とってつけたようなネーミングの感がする。福祉避難所とことさら喧伝しなくとも、避難所は須らく福祉的要素を色濃く持って然るべきである。
いわゆる医療避難所とか乳幼児避難所などは、その語句からそこでの具体的取り組みを誰しもさほどの違いもなく思い浮かべることができる。
私は、曖味模糊とした福祉避難所というネーミングよりも、「ケアつき避難所」と称した方がより具体性を帯びると考えている。常日頃ケアを継続して取り組むためのソフトとハードの両面を有している高齢者施設が、歴史的にも実際的にも天災時にはその任を果たしてきたのだから、名実ともに一致する高齢者福祉施設は、福祉避難所ならぬケアつき避難所と称されるべきだろう。
3.高齢者福祉施設の設置基準を見直す時代に現在ある高齢者福祉施設は、一旦急の際はすべてがケアつき避難所としての機能を果たすべきである。
行政は、このことを前提とした高齢者福祉施設の立地環境と建設、居室等の配置基準を設定すべき時代に入っている。
行政の指し示す福祉避難所に、高齢者施設を一時的とはいえ「転用」する場合に、現実的な意味を持たない「現入居者の処遇低下に配慮すべき」などの二者択
ーを迫り、施設側が躊躇するような表現をあえてする必要はない。
しかも、園田苑の実例からしても、緊急避難した被災者12名のうち3名がそのまま入所となった。気仙沼市にある特養「春圃苑」でも緊急避難した要介護状態の27名の内13名が特養入居となった。一時的避難者であっても、少なからざる人たちが帰るべき所を失いまたはADLの低下により、そのまま引き続いて、その場に留まることになるのはやむをえないことである。
従って、「福祉避難所」と称する避難所は、その後
のことを十分勘案して設置されるべきである。そのことからも、特養等高齢者福祉施設は、予めそのことを想定しておくべき条件としてハード面を備えておかなければならない。
阪神・淡路大震災の被災者が避難所に移ったのはよいが、その後、居所(いどころ)を転々とする中で、私は苦い経験をした。家を失い避難所で過ごしていた高齢者が、次回訪問時には肺炎で緊急入院されており、長期入院を経て退院後は土地勘のない応急仮設住宅(以下、仮設)に直行せざるを得なかった。
短時日の間に本人の意志とは無関係に居場所(と言えるかどうかははなはだ疑問だが)が変えられた結果、父は特病のパーキンソン病も悪化させた。仮設で息子との二人暮らしは困難を極めた。昼間は父ひとり、就寝時間のみ二人の生活で、遂に父を殺める嘱託殺人を犯してしまった。
私はこの息子の裁判に情状証人として出延し陳述した。事は簡単であり息子も「犯行」を認めており、当初は判事、検事双方から証人陳述は不要との判断がされた。
審理が進むにつれ、事件の背景に被災・避難所生活・入院・孤独な仮設の生活・男性による実父介護の問題が抜きがたくあることが明らかになった。再度の証人申請には判事、検事ともすんなりと同意した。
この事件に関与した私は、避難所時よりもっと積極的に接しておけばよかったとの反省を持つとともに、いわゆる「福祉避難所」として高齢者施設が内外ともに広く知らしめられていたならば、初期に関わった民生委員や保健師など多くの人たちがもう少し違った対応ができただろうに、と悔やんだ。
ことほど左様に「福祉避難所」は、そこを利用した人たちの近未来をも想定して対応、運営すべきである。
私は、特養に身を置きながら、避難所に頻繁に通い、仮設の“ふれあいセンター”活動を担い、一方でケア
つき仮設住宅を運営し、それを引き継いだ「グループ
ハウス」の運営に従事した体験から断言できることは次のことである。
被災者といえどもまぎれもなく私たちと同じ生活者である。支援者と被支援者とは垂直関係ではなく協働関係であるべきである。たとえ住まいが「仮であっても」、生活には一刻たりとも「仮はない」ということである。
人は人にかかわってはじめて人となる。この言葉は私が老人施設に関わりはじめて、思いついた、薄き出た言葉である。今、東日本大憲災に深くコミットするなかであらためてその意を強くした。
福祉避難所があるとすればそれはケアつき避難所であり、ケアつき避難所は長期的な見通しの中で運営し継続した人間関係が途切れることなく続くことが肝要である。
4. ケアつき仮設住宅を経て「グループハウス」
を
ここで、少しばかり「グループハウス」に触れておきたい。
阪神・淡路大震災後に、宮城県からの提供で「ケア
つき仮設住宅」が建設され、その運営が尼崎の場合は特養に事業委託された。
12世帯一棟の長屋形態のケア付き仮設住宅であり、仮設での生活が不安である高齢者が入居した。応急仮設ゆえ2年の耐用期限であったが、そこでケア職員と入居者とが織りなす「なんとも言えない協働関係」に行政も目を見張り、2年半後に建設されたのが「グループハウス」である(写真1、図1を参照)。
特集 災害復興における医療・福祉の展開
生活援助員室
平面圆(縮尺 1/300)|
図1 グループハウス尼崎の概要
兵庫県住宅供給公社作成を参照
グループホームのように心身機能に同一性を有する人たちに限定した入居ではない。さりとてミニチュア特養に堕すものでもない。端的に言えば、同じ時間帯に入居者みんなが一斉行動を取らない。職員は配置人数からしても日陰の存在である。入居者の財布、胃袋の中には手を出さない。買い物も食べ物もめいめい勝手自由を旨とする。もちろん入浴、就寝時間は自由である。
グループホームとしばしば間違えられるので、私は「高齢者自律協働居住」と命名した。すなわち、お互い要介護状態も違って当たり前、しかも、お互い対等なる関係を堅持し、他者と関わりながら自らの生活を律しながら、今までとは違った協働の新たなる営み
(住まい方)を行うことである。入居条件は行政が一応決めているが、退去要件はない。本人、家族が望めばここで通夜、葬儀も執り行う。
建物は基礎にコンクリートを打った半永久的なものである。これぞ、永続性を有した「福祉避難所」と言える。1999年の台湾大震災後に際しては、尼崎のグループハウスを実地調査して、台湾の捕里に「福氣村(福気村)」なるグループハウスが出来た。
東日本大農災に際して、南三陸町、気仙沼市、宮城県などから官民の視察があり、石巻市の仮設開成団地にはグループハウスを模した、福祉仮設住宅「あがらいん」が建設された。私は第二、第三のグループハウスが東北にも建設されることを願っている。
\
写真1 グループハウス(2001年5月24日著者撮影)
復興(10号) Vol.6 No.1 2014.6.
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5. 思考停止と不作為責任の回避を超えて阪神・淡路大地でも、東日本大農災でも多用される表現は、「想定外」であり「未曾有」である。これを異常な事態というならば、これに従前のマニュアルや手法、基準で対応すること自体がナンセンスである。
人は生命の危機を感じる強制収容という異常な事態(環境)に遭遇して、異常な行動(反応)を取る(示す)ことが実は正常(人の特徴)である、との精神科医ヴィクトール・E・フランクル(2002= 1947)の指摘は天災時にも当てはまる。
想定外の出来事に想定外の対応を行い、未曾有なる事態には未曾有なる試みがなされるべきである。
昨今の世情をみるに、「想定外」「未曾有」なる言葉に踊らされ、なすべきことがあるにもかかわらず、従前(平生)の規範に囚われ、「だから仕方がない」との徒労感のみを味あわさせられているような気がしてならない。自然の猛威に蟷の(とうろうのおの)の如く立ち向かうことは無謀のそしりを免れ得ないが、阪神・淡路大震災の教訓を経て東日本大震災に際しても、「想定外」「未曾有」なる言葉が私たちの思考停止と不作為責任の回避を招いていないか考える必要がある。
参考文献
ヴィクトール・E・フランクル、2002=1947,『夜と霧』池田香代子翻訳、みすず書房
復興(10号) Vol.6 No.1 2014
by カンレキチカク
2017年、兵役活動のため休止していた東方神起、ユノが4月20日チャンミンが8月18日、2年間の兵役を終え、除隊した。8月21日から東方神起としてアジアプレスツアーで約2年ぶりに活動を再開。10月25日に復帰記念アルバム「FINE COLLECTION~BeginAgain~」をリリースし、11月11日の札幌ドームを皮切りに、札幌、東京、名古屋、大阪、福岡の全国5か所14公演の全国5大ドームツアー「東方神起LIVETOUR2017 ~BeginAgain~」を開催。 そして3度目の全国5大ドームツアーのファイナルとして、2回目の日産スタジアム🏟️前人未到の日産スタジアム 3days 「LIVE TOUR ~Begin Again~Special Edition in 日産スタジアム」開催
2018年の観客動員数日本一の、長寿アイドル東方神起はお互いに対する愛情と尊重、音楽に対する情熱と、同じ目標に向かっていくというブレない心で一生懸命誠実に努力し、支えてくれるスタッフやファンの温かな声援がマッチして良いシナジー(相乗)効果を出しながら、長寿アイドルとしての地位を築き上げていると言える。
Danmee記事より
東方神起 LIVE TOUR 2019 ~XV~
2020年1月20日avex記事
2020年で15周年を迎える東方神起が、自身4度目となる全国5大ドームツアー「東方神起 LIVE TOUR 2019~XV~」にて全国60万人を動員し、15周年を迎えられた感謝の気持ちを伝えた。
今回のツアーは、昨年10月に発売されたオリコン週間ランキングで1位、
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日本単独ツアー総動員数、海外勢最多564万人を記録 2020年1月20日スポニチ記事より
東方神起ファンクラブイベント2022『Bigeast FANCLUB EVENT 2022 TOHOSHINKI The GARDEN ~TOURS~』やコロナ禍前にお約束だった
1回3000人限定の『全国エアタッチ会 ~Haru・No・Touch会~』2022年5月23日(月)5ヶ所10回
"2003年に韓国で結成されてから今年で20周年を迎える。さまざまな困難を乗り越え、お互いに「ずっと信頼し合っている」と声をそろえる。
ユンホ♡「お互いがペースメーカーになってるんですよ。本当にバランスをうまく取っている。いろいろとあったけど、全部乗り越えて20周年を迎えてる。年をとって成熟もし、信頼関係を重ねて、すごく今が良いなと思ってる」
チャンミン♡「お互い違う人間だから、全てのことを分かち合ったりすることはできない。でも、昔と比べてどんどん相手のことを信頼できるようになった。2人でずっと歩んできた道だし、これからも歩んでいけるという信頼感はずっとある」常に進化を止めずにいる。お互いに俳優業などのソロ活動を精力的に行い、個人としての成長も忘れない。
チャンミン♡「自分のスペースを広げて、それぞれの世界もちょっとずつ広くすることが、結局は東方神起の可能性を広げられる活動になる」
ユノ♡「東方神起で見せなかった部分をソロで見せていければ。お互いがソロ活動をして、いつかその経験を合わせて、新しい東方神起になると思う」"2023年6月25日スポーツ報知記事より
東方神起の日本ツアー「東方神起 LIVE TOUR 2023 ~CLASSYC~」が6月25日に東京・東京ドームで幕を閉じた。本ツアーは、東方神起にとっておよそ3年ぶりとなる日本での全国ツアー。2023年2月に開催された愛知・日本ガイシホールでのライブを皮切りに、全国8都市のアリーナ会場で16公演、そして大阪・京セラドームと東京・東京ドームでそれぞれ2日間ライブが行われ、およそ30万人を動員。東方神起が東京ドーム公演を30回、そして日本でドーム公演を89回開催し、海外アーティストとして最多のドーム公演樹立 2023年7月7日 音楽ナタリー記事より