今日は予報通り、昨夜の夜中から雨です。
 
昨日、夕方に買い物を済ませてきているので、明日まで雨が続いても食べるものはOK!
頭の中には、3日先くらいのメニューがあるのですが、果たしてその通りになるかな。
なるわけねぇな。グラサン
 
 
さて、何度かご紹介している 「もりぞの医院」のブログ。
今回は、コロナ関連ではなく一般的なブログなのですが、私には興味深いことが書いてあります。

 

アメリカの印象操作だったのかどうかは別として、確かにこのような雰囲気はありましたね。

昔のアメリカのテレビドラマでは、大きなキッチン、冷蔵庫、テレビが置かれた居間など、当時の日本人からすると羨ましいような生活が。

 

ただし、そこには主人公の親が出てこない。

出てくるのは、「奥様は魔女」くらいではないかな。

まぁ、それも魔女ですから同居していたと言えるのかどうか。笑

 

 

以前に、マスコミが流している 「DINKS」 にもブログで触れましたが、少子化になるわけですよ。

 

その昔、大家族制度でしたから3世代同居は当たり前。

確かに一次産業が主体でしたから家族総出で家業というのがありましたし、長子相続というような問題もあったのは間違いないことですが。

だから、敢えて国の福祉がということは大きな問題ではなかったのではないかなと。

 

 

そして、戦後。

東京を中心とする大都市集中が始まる。

 

その昔は、地方に残る両親を残して子供たちが都会に出てきていました。

今は、都会に出てきた世代で親子の別居が続いています。

 

これは、もう仕方がないことなのかなとも感じますが。

“もりぞの医院” のブログのようなことも考えても良いのではと。

 

 

そして、今や共稼ぎが当たり前の時代。

これも、すべてとは言いませんが、マスコミで専業主婦がいかにも悪いイメージを作ってしまったのではないかと。

そうなれば、ゼロ歳児保育だのと福祉にも金がかかるのは当然です。

 

ただし、それが昔と違って共稼ぎをしないと生活できないという環境に置かれている人が多い。

さらに東京などの大都市への一極集中によって、地方では就職先がない。

これも一つの大きな原因なのかなとも。

 

この二つの問題は、結局政治の問題でしょうか。

 

 

何か良いアイデアはないのでしょうかねぇ。えー

 

 

 

話題を変えます
 
深夜放送の話し。

 

最初に “あのねのね” のことを少し書いてしまいましたが、1973年にオールナイトニッポンのパーソナリティーに抜擢されたのが、その年にデビューしたばかりの彼ら二人。

 

彼らも深夜放送のファンで、暴走気味のトークは、その愛情の裏返しと番組のナレーションでは話しています。

一人で深夜放送を聴いていると、一人のはずが、すごく勇気付けられたと原田さん。

 

 

何もわからないまま、スタジオ入り。

午前1時までは、番組ディレクターを兼ねていたカメさん(亀淵昭信)さんがしゃべり、そのまま彼は調整室へ。

“あのねのね” の二人は、カフスイッチすらわからず、午前1時になりいきなり喋り始めた。

 

ガラスの向こう側からスタッフが飛び出してきてカフスイッチをゴムバンドでぐるぐる巻にして、お前らは一切これに触れるなと。

その後、調整室がマイクのオンオフをやることに。ガーン

 

 

彼らは、片っぱしから思いついたこと、面白そうなことを喋りまくったと言います。

ロッキード事件があった際には、ロッキード本社まで電話をしたと。

 

授業中の○時○分に一斉に立ち上がり、商売!商売!と言おうと、呼びかけたことがあり、実際にやった生徒がいたそうで。

そうしたら、それオールナイトだろうと先生から。

先生もラジオを聴いていたというヲチが。グラサン

 

 

深夜放送は、自分たちも本音のトークだったと。

だからこそ、リスナーも本音をぶつけてきてくれたのではと彼らは話します。

 

 

そこで、『コンプライアンスって、正しいのかな? と、思うことがある。』という発言が。

あの頃のオールナイトニッポンのようには、もう喋れないのかなと原田さんが。

そうしたら、1回や2回はできないことはないと、ただし直ぐに降ろされる。

さらに、1回ではなく、開始15分かもと清水さん。

 

これ、わかる気がします。

 

行き過ぎたコンプライアンスが、テレビやラジオをつまらなくしている。

さらに、それはネット社会の発言まで。

今さらですが、人を傷つけたりする発言は良くないのは当たり前なのですが。

不快だとかいうことで、発言が封じられてしまう。

 

難しいですね。

 

言いたくありませんが、昔は面白かった。

 

一度やって終わるのも面白いと、清水さん。

本気で喋るというのは、こういうことだと伝えたいと続けます。

その気持ちはわかりますがね、番組担当者の後始末が大変です。ショボーン

 

 

 

TBS、文化放送、ニッポン放送の深夜放送御三家が出揃うと、ブームが加熱し、吉田拓郎、松山千春、中島みゆきなどの人気フォークシンガーが、パーソナリティーをすることが増えてくる。

 

“セイ!ヤング” を谷村新司さんと一緒にやっていた “バンバン” の “ばんばひろふみ” さん。
関係ないことですが、最近のバンバン、じゃりん子チエに出てくる花井拳骨に似てない?
敢えて、画像は載せませんがね。(笑)
その “バンバン”、ラジオでは人気があったものの、シンガーとして、グループとしてはまったく売れなかった。
もう、プロとして音楽をやっていくことを諦める寸前。
ただし、その決断のためにもきっかけが欲しかったと。
 
ここからは、知られている話しですが。
 
最後に勝負をして駄目だったら諦めもつく。
知り合いがユーミン(当時は、荒井由実)のデビューアルバム「ひこうき雲」、セカンドアルバム「MISSLIM」を貸してくれて、そのアルバムを聴いてこの人すごいと。
 
直接彼女の所へ出向き曲を書いてほしいと依頼。
彼女からはどんな曲が良いかと尋ねられ、すべてお任せしますと。
そして、その後カセットテープに録音されてきたのが「いちご白書をもう一度」。
その時に谷村新司さんと“セイ! ヤング” を一緒にやっていて、レコーディングを終わったその曲を、いついつ発売になる新曲を聴いてくださいと、初めて番組で放送。
 
当時はSNSの時代ではないので、リスナーの反応にも次回放送まで1週間のタイムラグがある。
次週に番組に行ったら、ディレクターに見せられたのは、「いちご白書…」のリクエストハガキの山。
 
そこで、もしかしたらイケルかもと。
結果的に当時のヒットチャートで、6週連続1位を獲得。
 
後日、ユーミンと会った際に彼女からは、あの曲はあなたにとっても、そして私にとっても運命的な曲だったと言われたそうです。
 
深夜放送とユーミンが、“バンバン” の運命を変えた。
その後は、ソロになり続くヒット曲の「SACHIKO」を最初にかけたのも深夜放送。
彼が言います。
深夜放送がなければ、発信する場所すらなかったと。
 
 
 
とりあえず、今回はここまでに。
この後、2~3回かな。
 
 
 
 
てなことで パー