お天気は良いのですが、やや風がある東京。
家の中にいる分には、それほど寒さは無いかな。
 
 
 
少し気分転換をしたい時。
昔の鉄道に浸ります。
映像だったり、音声だったり。
 
それも、自分が実際に経験しているもの。
 

こんなおかしな音でも、いくつかのシーンが浮かんできます。

 

そして、ここに出てくる信越本線の横川と軽井沢間の碓氷峠。

この映像は、私もビデオで持っていましたし、実際に何度もこの区間は通っています。

廃止がはっきりした際は、この区間を乗りに行くのが目的ということもありましたが、それまでは単に通らざるを得なかったということもあります。

 

スキーを始めた高校生の頃。

 

上野駅発の信越本線の夜行の普通列車を使っていました。

長野駅から飯山線に乗ったり、バスで各地のスキー場へ。

または、長野以遠へこの列車で行くことも。

 

今は無き上野駅地平ホームの18番線から22時59分発というのを覚えています。
 
普通車だけの客車の編成。
上野駅地平ホームへは、バックで入線してくるのが客車列車の見どころ。
今は、臨時列車以外では見ることができなくなりました。
これは、特急北斗星の入線風景。

当時、信越本線の客車列車の先頭に立つのは、EF62型電気機関車。

横川と軽井沢間の専用機関車EFE63と協調して運用ができる電気機関車。
客車は比較的新しい10系客車と旧型の客車の混結でした。
 
旧型客車といっても、もともと急行列車などに使われていましたから、座席も乗り心地も以前に書いたオハ61とは、わけが違いました。

窓の大きな10系客車は、冬期の夜行列車には寒かったので、旧型客車に乗りたかった。

乗り心地も車体の重い旧型客車の方が良かったような記憶が。

 

ただし、1本の編成の中にバラバラに10系客車と旧型客車が連結されているのです。

目の前の乗車口に何が止まるかわからない。

通勤客も利用していたので、意外に上野からは混んでいた記憶が残っています。
 
 
夜中の碓氷峠越え。
さすがに夜中には、峠の釜めしの販売もありません。
 
深夜、横川駅から発車する際の汽笛の音が良かったですねぇ。
先頭に立つEF62と最後部から押し上げるEF63の汽笛。
 
横川駅と軽井沢駅間は、特急電車などのどんな編成でも上野方に2両のEF63型が連結されて、長野方面への下り列車では押し上げて、上野方面への上り列車では編成を支えるようにして坂道を上り下りするわけです。

 

 

軽井沢方面への客車列車は先頭にEF62が、最後尾から2両のEF63が押し上げます。

EF63は、この一駅だけの運転。
 
長野方面へは、横川駅で連結して、軽井沢駅で解放(切り離す)。
上野方面へは、軽井沢駅で連結して、横川駅で解放。
 
以下の動画は最初の動画の後半に出てくるシーン。

客車列車の峠越え。

これと同じことが、私の学生時代に乗っていた普通列車でも行われていたわけです。

当時でも、帰りは昼間の急行電車を利用していたかな。

まだ、ビュッフェ車が連結されていて、スキーシーズンではなかった時に一度だけ蕎麦を食べた記憶が。

社会人になってからの信越方面へは、往復共に昼間の急行列車や特急利用がほとんどになりましたが、それらの電車が横川駅、上り列車では軽井沢駅に停車すると台車の空気バネから空気が抜かれます。
これは、あまりの急坂のため、車体の揺動が大きな空気バネでは、連結器に過度な力が加わるから。
 
ですからこの横軽間では、レールの繋ぎ目が直接響き、一気に乗り心地が悪くなりました。
こちらは、それも楽しみの一つでしたけれど。
 
車両の軽井沢方と横川方では、高さが違うのがわかったほどの急坂。
66.7‰というのは、1000mあたり66.7mの高度差。
 
車両の長さは約20mですから、単純計算では同じ車両の両端で約1m30cmの高さの差がてきたわけです。
空き缶が転がります。
 
 
横軽区間以外では、新幹線開通前の奥羽本線の福島から米沢間を真っ赤な交流の電気機関車に索かれて各駅停車でスイッチバックを繰り返しながら利用できたことも思い出に残っています。
確かに時間はかかったし、夏でもクーラーはありませんが。

 

何度も狙って乗りに行ったのは、ちょうど以下の動画の頃かな。

動画へは、以下のリンクから。

動画の中でも話していますが、2~3両編成という短い50系客車の運用でした。

 

 

あまり、この車両は好きではなかったのですが、東北地区では多かったですね。

新津からだったと思うのですが、下りの始発が50系客車。

まだ、ビジネスホテルが少なかったころ、駅前の商人宿に泊まって始発に乗りました。

 

そこから、酒田、秋田と列車番号を少しづつ変えながら、同じ車両で青森まで。

もう少し、早めに乗りに行っていれば旧型客車で旅をできたのですけれど。

 

 

旧型客車というと、常磐線の普通列車にけっこうと遅くまで残っていました。

 

 

そして旧型電車では東京駅に乗り入れてくる最後まで残った80系電車も狙って乗りに行きました。

行き先と時間はダイヤ改正のたびに変更されていましたが、東京駅を11時33分発富士行きというのを何度か。

 

その頃、まだ急行桜島・高千穂が最後まで残っていて、これも乗りに行きましたね。

音声動画ですが、以下のリンクから。

ただし、これも乗ったのは、沼津辺りまでだったかな。

 

沼津からは東名の高速バスで寝て帰って来ることが多かった。

この桜島高千穂には、1968年までは食堂車が連結されていて、一度だけ乗ったことがありました。

 

 

 

【食堂車】

 

食堂車というと、前述の急行信州や中央線の急行アルプスにブッフェが連結されていました。

新幹線の食堂車は、社会人になってからの出張帰りが多かったですね。

 

一人だと、ほとんど利用することはなかったのですが、大阪での営業会議などで何人かで行っていると、帰りは食堂車が連結されている編成を狙って、必ず食堂車で飲むということに。

上越線の特急 “とき” にも食堂車がありましたから、土曜日の半ドンで午前中は仕事をして、午後にスキーへという時が食堂車の利用が多かったかな。

 

札幌に行く際も函館から札幌行きの “特急北斗” は、その頃には食堂車が連結されておらず、その直後に発車する “特急おおとり” を狙って乗りました。

大沼公園あたりで営業開始になったかな。

当然、ビールを飲みながら。(笑)

 

北斗星には、2度乗りましたが、食堂車の予約が取れず。

それよりも、北斗星では最上級の個室のロイヤルでさっとシャワーを浴びた後に、並走する京浜東北線の通勤客を見ながらワインをなんてことを。(笑)

 

 

 

今の旅行では、飛行機の利用も当たり前ですし、新幹線も本当に便利です。

でも、それと引き換えに失ってしまったものもたくさん…。

 

疲れた時に思い出すのは、そんな昔の旅のこと。

それを経験できただけでも良かったのかなと思うのですが。

 

あと、何十年かしたらリニアが完成していて、昔は東京から大阪まで2時間半もかかっていたんだという時代になるのでしょうかね。

その頃には、私はいないでしょうけれど。ニヤリ

 

 

 

てなことで パー