今日の東京は曇り空。
先程は、結構と強い雨も降りました。
 
寒いですねぇ…。
明日、明後日と東京でも氷点下という予報。
これで大騒ぎしたら、札幌の家族に笑われそうですがね。
 
今、PCでこのブログを仕上げているのですが、日が差しているときは温室とまでは言いませんが、結構と暖かいのですがね。
今は、電気膝かけを引っ張り出してきて使っています。
部屋全体の暖房は、電気ストーブしかないので電気代の削減でございます。
 
 
岸田内閣の支持率低下が止まらないようですね。
さて、本題です。
 
先日も書いた “昭和は輝いていた” というBSテレ東の番組で取り上げていた「実話を元にした昭和歌謡」。
以下のブログの続きとなります。

 

 

2つのボート転覆事故に関する曲を取り上げます。
 
まず、大正4年に発表された「真白き富士の根」という歌。

 

 
歌によっては、「真白き富士の嶺」と表記してありますが、このブログでは番組で取り上げた「真白き富士の根」とします。
 

この事件は、明治43年(1910年)1月23日といいますから、今日がその時からちょうど113年になるのですが、逗子開成中学の生徒がボートで江ノ島へ渡ろうとして転覆。

その結果、中学生11人と小学生1人が亡くなるという事故が起きました。
 
それを題材として作られた歌です。
 

 

 
事故は以下の場所で起きました。
犠牲者の中には、長男から4男の兄弟4人が亡くなられたということも。
唯一犠牲になった小学生はこの兄弟の4男の方。
 
この曲のメロディーは、明治の初期に賛美歌として日本に入って、それが唱歌として日本でも歌われるようになる。
そのメロディーに、三角錫子さんという方が詩をつけた曲といいます。
この三角さんは、鎌倉女学校(現、鎌倉女学院)の教師をされていた方。
事故の翌月に逗子開成中学で合同慰霊祭が行われて、この曲を全員で合唱したといいます。
 
「真白き富士の根」の歌詞。
大正4年にレコード化されたということです。
 
個人的には、この曲の最初の『真白き富士の根 緑の江ノ島』という部分は、知っています。
そして、逗子開成中学のボートの事故があったということも薄っすらと。
ただし、この番組を見るまで、双方がリンクすることはありませんでした。
 
今日が113年目にあたるということも、何かの縁でしょうかね、
 
 
 
番組で取り上げた次の曲が「琵琶湖哀歌」。
 
日米開戦の年の昭和16年(1941年)4月6日に旧制第四高等学校(現、金沢大学)の生徒11人が琵琶湖で遭難。
 
 
ただし、事件そのものは全国的なものにはならなかったといいます。
 
それを、当時の人気歌手だった東海林太郎さんと小笠原美都子さんが「琵琶湖哀歌」として歌ったことで、この事故が広まったと。

 

 

「琵琶湖哀歌」という歌は、私は知りませんでしたし、この事故のことも知りませんでした。
 
作詞は奥野椰子夫さん、作曲は菊地博さんという方。
 
この曲は、まだ遭難者捜索が行われている時点で作られたと。
このあたりが、前回にも触れたご時世の違いかなと。
今なら、必ず何が言われそうですからね。
 
「琵琶湖哀歌」の歌詞。
 
琵琶湖の曲というと思い出すのは、「琵琶湖周航の歌」。
昭和46年(1971年)に加藤登紀子さんが歌ったことで、よく知られています。
 

 

 

この2曲の関係が不思議というか…。
「琵琶湖哀歌」と「琵琶湖周航の歌」は、そっくりなのですが、「琵琶湖周航の歌」は、大正6年(1917年)に作られた曲なのです。
 
「琵琶湖周航の歌」を作ったのは、このお二人。
地元の大学のボート部などでは歌い継がれてきたといいます。
 
 
もし、現代なら…。
「琵琶湖哀歌」は、発表できなかったかもしれませんね。
おおらかだった時代故かな。
 
 
 
てなことで パー