昭憲皇太后と言われても、わかる方は少ないですね。
私もその一人でした。
この方は明治天皇の奥様、美子(はるこ)皇后、後の昭憲皇太后です。


明治天皇に関しては、勉強する機会も多くありますよね。
明治維新から日清、日露戦争を経て日本が近代化していく時代の天皇ですから。

しかし、皇后となると…。
そもそも、現在の天皇陛下の美智子皇后が初めて民間から皇室に嫁いだ方として有名ですが、それ以前の皇后がどのような方なのか、私は知りませんでした。


そうしたら、先日の「にっぽん歴史鑑定」という番組で “明治天皇后と最後の側室たち” と題して取り上げていました。

それがひじょうに興味深いものでしたが、これから書くのは、あくまでも番組からの知識です。


先代の孝明天皇の崩御により、第二皇子睦仁親王が皇位を継いで明治天皇となります。
即位したのは、15歳の時のこと。

そして、皇后はどのように選ばれたのか?

当時、皇后になれたのは皇族の子女か、鎌倉時代以後、摂政や関白になる資格があった五摂家(鷹司家、一条家、二条家、九条家、近衛家)の子女のみ。
その中から、天皇より年齢は5歳上から10歳下くらいの方。
人柄や教養に優れていることが条件でした。

ちなみに、大正天皇の皇后だった貞明皇后は九条家から、昭和天皇の皇后だった香淳皇后は久邇宮家の出身。
それを考えると、現在の美智子皇后が最初に民間から嫁がれたのは、本当にすごいことだし、ご苦労もされたのでしょうね。

美子(はるこ)様は嘉永2年(1849年)一条家の三女として生まれています。
幼い頃から利発で教養も十分。

后の候補には10人程の候補者がいたと言われています。
その中で何故、美子様が選ばれたのかということは、番組では面白い説を取り上げていました。
美子様が将棋を指されるということで、天皇が将棋板を持ってきて将棋を指したということです。
その将棋の指し方が面白く、それが人柄によく現れていて、天皇が好印象を持ったことが決定的になったと。
もともと人柄も良く、教養もあった方でしたから。

面白かったのは、当時の宮中では3歳差の結婚は縁起が悪いとされていたらしく、美子様の生まれを嘉永2年から3年に改定したといいます。

そして、明治元年12月28日に京都御所で入内の儀(じゅだいのぎ)ということになり、正式に明治天皇の皇后に。


そして、明治2年(1869年)に、最初は天皇が東京城(旧江戸城。現、皇居)に移り、東京が政治の中心になります。
天皇から遅れること7ヶ月。
皇后も東京に移りますが、皇后が京都を離れるのは初めてで、御所の外では反対運動も起きたと言います。


ちょっとここで…。

明治からは天皇陛下の在位、一世一元号でわかりやすいのですが、それ以前がよくわらない。
この明治天皇・皇后の生まれたのが “嘉永”ですが、その後 “安政“ “万延” “文久” “元治” “慶応” と続き、ようやく明治ですからね。
わずか20年で6つの元号。
何か大きな凶事があると改元ですから。
また、明治になり新暦が採用されていますから、当時の人は大変だったでしょうね。

そして、明治元年というのが、またわかりにくいのです。
これは、以下を参照してみてください、


さて、話を元に戻します。


日本を近代国家にするのが明治天皇の使命で、内から支えるのが美子皇后の役目。

当初は、皇室の改革すらまったく進まなかったと言います。
京都から連れてきた古参の女官が反対をして、大久保利通や西郷隆盛という政府の重鎮たちの説得も、田舎の侍上がりの野蛮人と馬鹿にしていたと。
それに対応するために、大久保、西郷を中心に古参の女官の総罷免を断行。
改革の必要性を理解していた美子皇后も異を唱えず。
新たな女官の選定は皇后の意向も入り、新時代に対応できる優れた女性が選ばれたと。

天皇・皇后が自ら率先して古い習慣からの脱却をはかります。

明治6年(1873年)3月に皇后がそれまでの公家の風習だった “お歯黒” と “眉墨”をやめ、天皇も西洋風に断髪し、髭をたくわえます。
男らしさを強調し、それまでの天皇のイメージを一新。
公の場では洋服を着用するようになったといいます。
そして、美子皇后は遅れて明治19年(1886年)に洋装に。


その後は、皇后も公の場では常に洋装だったそうです。

お二方は、肉食の解禁を宣言し国民にも促したと。
朝食にはカフェオレとパンを召し上がり、晩餐会はフランス料理で、テーブルマナーを身に付けた天皇が各国の要人をもてなしたと。

お二方とも、明治8年(1875年)に木村家總本店から献上された餡パンが気に入り、引き続き納めるようにという話しもあったようです。

ただし、天皇個人としては、西洋化はあまりに気に入らなかったようで、普段は和服で過ごし、ダンスや写真も好きではなかったというのが面白いですね。

「和魂洋才」という言葉があり、西洋の良いところは取り入れ、日本の良いところはそのままにということだったのでしょう。

それに対して、皇后は西洋化に抵抗はなかったようです。
洋服を着用し、化粧品や香水はフランス製のものを愛用していたといいます。
それだけでなく、明治20年(1887年)には、政府高官や華族に対して、洋装は立って行う礼儀作法に適し、動作や歩行に便利と、「洋装奨励思召書」を下賜し、そこに「洋服を仕立てる際には国産の生地を使用するように」と。
西洋文化を奨励するにしても、日本を豊かにすることを考えていたという、皇后の心遣いだったのでしょう。


ちょっと長くなりました。
美子皇后の様々な功績は次回にします。


ところで、本日はハロプロ関連はお休みかも。(笑)

てなことで ✋