こんにちは、ゆうゆうです。

 

筆不精なもので長らくブログを書いていませんでしたすみません(汗)

 

基本、気が向いた時に書くゆうゆうなのでまた間が空くかと思います、ご了承下さいm(__)m

 

 

今回は8月22日に関連しての体験談をさせて頂きたいと思います。

 

 

 

 

私は子ども時代、車に酔う子でした。

 

その為、車に乗る時は必ず酔い止めを服用し

 

乗ったらすぐ寝るようにしていました。

 

毎年お盆になると祖父母に会いに車で片道4時間の長距離ドライブ。

 

酔うのが嫌ですぐ寝てしまうのですが

 

いつも走行中ある場所に来ると

 

なんともいえない不快な感覚で目を覚まします・・・

 

その感覚はある場所の少し手前から発生し、そこを過ぎて少しすれば落ち着きます。

 

起きている時だけなら気にしてるからそんなことになると言えるのですが

 

寝ていてもその嫌な感じが少し手前から起こるので目で見たからではないと言えます。

 

目が覚めて窓の外を見ると

 

必ずあるものがあります。

 

 

花束です。

 

そう、そこは交通死亡事故現場です

 

 

私は特に何が見えるとかではないのですが

 

子どもの時からそこを通る時だけは寝ていようが落ち着かない嫌な感じが近づいてきてそこを通り過ぎる時に体を何かが突き抜けるような感覚を感じるという訳の分からない体質だったのです。

「またか」と思ってそのまま気にしないようにして寝直すのが

子ども時代のドライブの常でした。

 

死亡事故現場は片道に大体3か所位あって帰りもまた同じことになるのでドライブは疲れるので好きではありませんでした。

 

でもその感覚はいつも起こるわけではないとある時気づきました。

 

私の場合、お盆に起こることが多いようでした。

 

普段はあまり起きない感覚なので特に気にしないでいたのですが

 

そのことを思い出させられることが起きました。

 

 

 

夫と知り合って間もない時、ちょうどお互いお盆休みだったので

花火大会を見に行くことにしたのですが、花火まで時間があったので

海の近くでドライブでもしようかということになりました。

 

頭から完全にお盆ということが抜けてました。

 

お盆だけど海に入るわけじゃないし大丈夫、最近はあの変な感覚も気にならない位には慣れたから・・・

 

そう思っていたのですが、甘かったです。

 

なんと、海の、とある場所に近づくにつれてあの感覚が。

それもいつもの比ではない、恐ろしいほどの感覚。

無数の何かが私の感覚に働きかけて来るなんともいえない落ち着けない感じ。

とても気が気ではない状態になってしまい

夫(当時はまだ独身同士)に調子が悪いので車を停めてほしいとお願いしました。

 

そして停められる場所で降りて、気分転換に少し風に当たりに海の方に歩いて行きました。

 

海の側に碑があり花束が供えられていました。

 

なんの碑だろう、と近寄って見ました。(画像はお盆ではないので花は写ってません)

 

三船遭難慰霊の碑

第二次世界大戦末期の1945年8月22日、北海道留萌沖の海上で日本の引揚船3隻(小笠原丸、第二新興丸、泰東丸)がソ連軍の潜水艦による攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して1,708名以上が犠牲となった事件である。三船遭難事件とも呼ばれる。

 

 

 

ここでの引揚船(ひきあげせん)というのは当時日本領だった南樺太からの引揚船のことです。

終戦(8月15日)後に旧ソ連(現ロシア)が南樺太(現サハリン)に攻め入って来たのでそこに住んでいた多くの民間人が北海道へ疎開しました。

 

 

後に横綱になった大鵬は「小笠原丸」に乗っていましたが稚内で降りた為、難を逃れたそうです。

小笠原丸は稚内から小樽に向かい、8月22日増毛沖でソ連の潜水艦から魚雷による攻撃を受け沈没し乗員乗客638名が死亡し、生存者は61名とのこと。

 

 

同じく小樽へ向っていた貨物船の「泰東丸」は8月22日北海道留萌小平町沖西方25キロの海上において、浮上したソ連の潜水艦L-19の砲撃を受けました。同船は白旗を掲げたそうですが、ソ連の潜水艦は砲撃を続行。泰東丸には機関銃が搭載されていたため、砲撃に対して応戦したそうですが約20分後に機関部への命中弾により泰東丸は沈没し、乗員乗客約780名中667名が死亡したそうです。

 

 

残りの1船「第二号新興丸」は8月22日にソ連の攻撃により船体に大きな損害を受けつつも機関に異常はなかったため最寄りの留萌港に入港することができたそうです。船内で確認された遺体は229体。行方不明者も含めると400名近くが犠牲となったそうです。

 

 

 

・・・私、北海道生まれの北海道育ちなのですが

・・・この時まで全然知りませんでした。

私の祖父母が樺太に住んでいて北海道に移り住んだことも聞いてはいましたが

そんな壮絶な事があったとは子どもだったからか詳しく話を聞いたことがなかったです。

そして学校でもそんなこと教わったら印象に残って絶対忘れないと思うのですが

「はだしのゲン」が印象に残り過ぎていたことしか戦争の話は覚えがないです・・・。

 

北海道のことなのに、学校では教えてくれない・・・。

 

普通にドライブしてただけでは碑文もたいして気にならず読もうとは思わなかったでしょう。

変な体質のおかげで気付けて知ることが出来、良かったと思えました。

 

戦争が終わって77年経ちますがこういう話はちゃんと語り継がれていくべきだと思います。

 

ロシアのウクライナ侵攻が始まった時、真っ先にソ連の樺太侵攻のことが思い浮かびました。

ロシアは北海道を狙っていると聞かされて育ったので他人事ではないです。

 

 

ちなみに私の祖父母はその引揚船に乗ろうと鉄道で移動中にソ連軍に止められしばらく樺太から出られなくなったそうです。

その後、米ソ引揚協定の締結により集団引き揚げが始まってからようやく船に乗って北海道(函館)に行くことが出来たそうです。

祖父母が暮らしていたのは敷香(シスカ)という所で南樺太でもソ連との国境に近い北寄りの場所です。

一番上の伯母が近所に住む大鵬と遊んだことがあると聞いてます。

近所の大鵬一家が小笠原丸に乗り込めて、祖父母たちが鉄道で止められたと聞いた時は大鵬一家の情報収集が早かったのかなーと思いました(;'∀')

 

激動の時代を生きたおばあちゃんは水戸黄門が好きでアニメを見たい私とよくチャンネル争いをしてたなーとか、うる星やつらを「うるぼしやつら」と呼んでて梅干しみたいだな~と思ったこととか懐かしいことを思い出してしまいました(;^ω^)

 

 

 

なんだかまとまりのない内容になってしまいましたが

ここまでお読み頂きありがとうございました(*´ω`*)

 

 

 

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