しかし迷う父の遺品
今日もお会い出来て嬉しいです
手放し写真集
その父、の残したもの、やはりなかなか手放せない。
元気なころ、父の集まりに時々一緒に行きました。これはたぶん、靖国の横にある記念館・特攻隊出撃機の前で撮った写真・
昔の仲間に「これが三女で・・」と紹介しているときは本当に嬉しそうだった。皆、好々爺で、ジェントルマン、ただただ関心を持ってくれる人がいることが嬉しかったという感じ。
誰も、私の家族がどうだ?なんてことを聞くはずもない、要らん怖れをしていた私はばかばかしい。
もう旅立ってから、21年になる。
肺がんで、わかってから6週間。ちょうどよい期間でした。病室でよく聞きました.戦友とのこと。
『仲間が言いにくるんだ。「まだ、○○は生きて日本の為に尽くしてほしい」』
戦地に赴くときに、父の母はいっぱいお守りを持たせてくれて、油紙で包んで体につけてくれた。その包みを身に着けて南の海を漂流しながら、結局捕虜になった父。家に戦後帰り着いたとき「○○!足があるの!?」と叫んだという祖母。
テニアン島。南方諸島の玉砕の島の一つ。
サイパンから、ほんの1時間。
サイパンに遊びに行ったときにレンタカーで、島を廻った。
きれいな浜もいっぱいあったけれど、私は激戦地の洞窟を廻った。
○○団ではないので、定かではない。
しかし、お経をあげ、経本をたむけて引き返した。
その父がいて今の私がある。
畳の上の小さな砂粒すら嫌がる父があの、泥沼を這いつくばって動き回っていたなんて信じられない。
しかし、手ぬぐいを頭にかぶって、古式泳法で、海を泳ぐ父のことは小さいときよく見ていたので、海は本当に泳げるらしい。ほんの小さいときは、ウミガメのように父の上に載って、海を泳いだ私。
泳げたからこそ、生きて「生きて捕囚の恥辱を受けず」という言葉があっても、死なないで帰ってきてくれて今の私がある。
このお守り、とうに手放す時期は来ていて、ほんとうなら、昨年の12月末にデッドラインを決めた。しかし、まだ今ある。
だから、単に偉くなりたかったわけではなく、日本の為に尽くしたかった。という気持ちは確かにあった。
これらを手放していない私を隠す必要はない。今の私です。
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