覆水難収

 

 

 

 雪の日であった。

婚礼の日が近づきスボクから不用の外出を禁じられていたホヨンは、パク家の庭で雪の上に絵を描いたり雪玉を並べたりして時間を潰していた。

庭の池はすっかり凍っており、その上にうっすら雪が積もっていた。池のほとりのヤブコウジの葉も雪を乗せ、小さく真っ赤な実が雪の白色に映えていた。ホヨンは実を1つもぎ取ると、そのかじかんだ指先でゆっくりとその形を味わった。

「私と同じね」

ホヨンはそう呟くと寂しく笑い、木の実を巾着に入れて丁寧に懐にしまった。

彼女は真っ赤になった自分の手をじっと見つめた。裁縫の先生の言葉をふと思い出した。

『・・・いいですか、良家の子女は美しい手を持つべきです。手とは白く滑らかであればあるほどいいのです。殿方に愛されたければ、毎日暖かい湯で手をきれいに洗うことを怠らず、炊事や洗濯のように決して手を汚し痛めつけるようなことはしてはいけません。針を持つ時もあまり何度も刺してしまわないよう注意すべきです。・・・』

ホヨンは雪に触れて真っ赤になった自分の手を見ながら、大きなため息をついた。いったい、綺麗であったところでどうなるというのか?望んだ相手と一緒になれるわけでもないのに、雪にも触れることのできない人生を歩む必要など、さらさらないではないか。

彼女はやけになって雪玉に手を突っ込んだ。冷たさがじん、と染みたが、心を締め付けるこの気持ちに比べれば大したことは無かった。彼女は力任せに雪玉を崩し始めた。

「いけません!」

ふと声がしてホヨンの目の前に青い皮靴が見えたかと思うと、懐かしい香りを漂わせながら紺の衣が舞い、瞬く間に彼女の両手はその衣の持ち主の暖かい手に包まれていた。

ホヨンは顔を上げた。彼女の瞳は揺れた。彼女は想い人を前に声一つ出なかった。

「そんなに雪に触れていたら、霜焼けになってしまいます」

成均館斎生の礼服を着たチョンホはホヨンの目の前に膝をつき、彼女の目をじっと見て言った。やがて、ホヨンの目からは涙が一筋流れた。

「お嬢様」

「・・・お似合いですわ、とても」

ホヨンは俯いて言った。

「弟とは大違いですわ」

「・・お嬢様」

「シミンはどうしてますの?しばらく会ってませんの。元気かしら?あの子、すぐに風邪を引くから・・・」

「今日は、お礼を言いに来たんです」

チョンホはホヨンを遮って言った。

「・・・お礼?」

「今まで、私を実の弟のように可愛がってくれたお礼です。それに先日も・・・。私をああやって叱ってくれるのはお嬢様しかいませんでした。あと・・・」

チョンホはそう言って一瞬躊躇った。

「それと・・・申し訳ない」

ホヨンは顔を上げた。

「私には、他に言葉がありません」

「なぜ道令様が謝るんです」

ホヨンは少し驚いたようにチョンホに訊いた。

「それは・・・」

チョンホのホヨンの手を握る力が緩んだ。彼は俯いた。

「・・・・婚礼の件、知りませんでした」

「それはそうよ。父上が口止めなさったんだもの。でも、それはあなたには関係ないわ」

ホヨンの言葉1つ1つがチョンホの胸を締め付けた。

「関係ないことなんてありません」

チョンホはそう言って大きく息を吸った。

「・・・お嬢様の、つまらない私などへのお気持ちを知りながら・・・」

「何言ってるの」

ホヨンはチョンホの手を振りほどいた。

「知っていてどうなったって言うの?父上に直訴でもなさった?どうせ無理だったのよ。両班の女なんて所詮は政治の駒に過ぎないんです。採紅使の一件があった時からこうなるのは分かり切っていたんです。だから、道令様が申し訳なく思う必要なんて少しもないんです」

「そうじゃなく・・・。もちろん、説得しても無理だったのは分かっています。ですが、それ以前に・・・」

チョンホは戸惑って言葉をやめた。

ホヨンはそんなチョンホの顔をじっと見てふと考えた。もしかするとこの人は、ほんの少し、たった一瞬でも、女としての自分を愛してくれたのかもしれない。

ホヨンはそっと彼の頬に手を伸ばした。チョンホは彼女の手を見て目を泳がせたが、抵抗はしなかった。彼女の手は既に暖かかった。チョンホの頬に彼女の柔らかなぬくもりが伝わった。ホヨンはチョンホの真っ黒な瞳を見つめた。雪に反射しきらきらと光ったその瞳に、彼女は徐々に吸い込まれていくのを感じた。やがてそのまつ毛は互いの鼻筋に触れながら閉じられ、唇が柔らかく触れ合った。ホヨンは背中に暖かいチョンホの手が回るのを感じた。

かじかむような寒さの中、暖かい日差しが残酷にも彼らを照らし出した。

 

チョンホがパク家の庭を出て石畳を渡り門をくぐると、チャンオッを被った小柄な女性が門の傍に立っていて危うくぶつかりそうになった。

その女性はチョンホを見るとチャンオッから顔を出した。チョンホも予想していた通り、その人はユンナであった。彼がユンナに会うのは実に1年半ぶりであったが、彼女は挨拶もなしに咎めるような目でチョンホを睨んでいた。

チョンホは胸がずきりと痛むのを感じたが、平静を装った。

「何か?」

ユンナはチョンホの言葉に答えず、嫌悪と侮蔑のまなざしで彼を睨んだ。

「・・・用がないのであれば行きます」

チョンホはそう言って背を向けたが、ユンナの声が彼を引き留めた。

「よくもあんなことができますわね」

チョンホは足を止めたものの、振り返らなかった。

「一体何の話でしょう」

「全てご存知だったんですね。全て知ったうえで、ずっと弄んでおられたんですね」

チョンホは答えない。ユンナは続けた。

「もうすぐ嫁いでいかれると言うのに、ホヨン姉さんのお気持ちも考えずに、たぶらかしに来るなんて・・・」

チョンホは振り返った。ユンナは目を真っ赤にしてチョンホに怒りの視線を向けていた。

「あなたに何が分かるんです」

「ええ、私には何も分かりませんわ。・・・でも、このことをソン道令様が知ったら・・・」

「オム氏!」

チョンホは咄嗟に大きな声を上げてしまった。全身を恐怖が駆け抜けたが、それに反し非難の目で彼女を睨んだ。

「そんなことをすれば・・・あなたも・・・」

チョンホは途切れ途切れに言った。

「・・・私を脅すおつもりですの?」

「ただ事実を申しただけです。そんな話をソンにして、これからもソンのそばにいられるとお思いですか?」

「・・・呆れたわ。そんなふうに人を脅迫なさる方だったなんて。あなたがソン道令様の何だって言うのですか?いくら友人とは言え、何もかもあなたの思い通りになると思われているならそれは大間違いですからね」

ユンナは激しい口調でチョンホを責めた。

「あなたには何も分からない」

チョンホはそう言い残すと再び彼女に背を向けその場を立ち去った。

家路につきながら、彼は何度も頭の中で考えた。ユンナはソンに全てばらしてしまうだろうか?彼女は一体いつから見ていたのだろう。そもそも、なぜユンナがパク家の庭に入り込むことが出来たというのだろう。

この件を暴露されてしまえば、本当に大変なことになる。ソンはもとより、スボクもチョンホのことを許さないであろうし、ホヨンの縁談は解消になり、シミンの家族が知ればチョンホの婚約すら危うくなるだろう。しかし、ユンナは一体誰に密告できるというのだろうか?ユンナ自身、ソンとの交際という秘密を抱えている。パク家の庭にいた理由を問いただされれば彼女やソンの身すら危なくなることは間違いないし、万一ソンだけに話したとしても、ソンは信じるだろうか?ソンはもうすぐ成均館に入学すると言うのにそんな時に関係に亀裂の入るようなことはしないはずであるし、自らソンの信用を損なうような行為をするほど、ユンナは愚かではないだろう。それに、今更ソンとの関係が破綻すればソンがどうなるか彼女が一番よく知っているはずだ。

チョンホはそう考えながら、打算的な自分に驚いた。本当はユンナがどうしようがそんなことは問題ではないはずなのだ。幼い時より自分を可愛がってくれたホヨンを傷つけ、ソンを裏切っておきながら、平然と振舞う自分に嫌悪感を感じたチョンホはつい立ち止まった。

だが、今更どうすることもできない。

チョンホの脳裏に「覆水難収」の四文字が浮かんだ。つまり、覆水盆に返らずということである。

チョンホのそれは確かに恋愛感情ではなかった。いや、そもそも彼にはそれがどういうものか未だに分かっていなかった。しかし、ホヨンがいなければ、彼が全ての女性を敵視していたことは間違いなかった。チョンホにとって、唯一信頼でき対等に話せる女性がホヨンだったのである。加えて、それを一瞬愛と見まがう彼の不幸な境遇を理解していたのは、他でもないホヨンただ一人であったのだ。

 

チョンホが家に帰ると、チヒョンが部屋の前でそわそわしていた。

「あっ、道令様・・・!お待ちしておりました!」

チヒョンはチョンホを見るなり駆け寄って来て言った。

「・・・一体どうしたんだ?」

「先程から大監がお部屋でお待ちです」

チョンホは驚いた。

「父上が?一体どうして・・・」

「どこに行っていた」

2人が話していると痺れを切らしたイクスが部屋から出て来た。

「・・・パク家に挨拶に伺っておりました」

チョンホはイクスから目を逸らして言う。

イクスは庭先に立っているチョンホのもとに下りて行き彼の前に立った。

チヒョンはおどおどしながら彼らから離れた。

「私に一体何の御用でしょう」

チョンホは素っ気なく言った。

「・・・もうすぐ成均館に入るのだ。不要の外出は控えなさい。そなたに渡すものがあって来た」

イクスはいつになく穏やかな口調で言い、懐から包みを取り出した。

チョンホは恐る恐る包みを開けた。小さな硯であった。ところどころに傷がついているが、しっかり手入れされているのが分かる。流行のものではないので長いこと置いてあったものだとチョンホは気が付いた。

「これは・・・」

「閔家の嫡男に代々伝わる硯の1つだ。曾祖父の時代に懇意にしている職人に作らせたものだそうだ。祖父の時代の家紋も入っている。宮中に勤めている時、私が使っていたものだ。それからここには・・・」

「なぜ私にこのようなものを?」

チョンホは片眉を上げてイクスの顔を見た。

イクスは目を丸くした。

「なぜとはどういう意味だ、そなたが嫡男・・・」

「なぜ今更、嫡男のしるしなど私に渡されるのですか?」

「・・・もうすぐ元服であろうから、その機にと・・・」

「硯などなくても元服できますし婚儀も挙げられます。それが、今になって私にご自身の私物を渡されるなんて一体どういう魂胆でなさってるのかお聞きしているのです」

いつになく弱気なイクスの様子に相まってチョンホの口調は鋭さを増した。

「・・・魂胆とはどういう意味だ・・・?」

イクスは唖然とした様子で言った。

「今まで私に本の一つ、餅の一つき、菓子一かけらすらくださらなかったのに、この硯でなかったことになさるおつもりですか?」

チョンホははらわたが煮えくり返るのを抑えることが出来なかった。幼い折より冷遇され、望まぬ人との婚礼を強いられ、父親らしいことは何一つしてくれなかったイクスが今更父親面していることに我慢ならなかったのだ。

「・・・何を申す」

イクスはそういったものの、チョンホが何を言いたいか気が付いていた。

「硯などいりません。父上と私は、このようなやりとりをするような仲ではありません。不愉快ですのでどうかおやめください」

チョンホはそう言ってイクスに背を向けた。

イクスはふと脳裏に、17年前の光景がまざまざと浮かんだ。イクスの渡した装身具類を要らないと言って返すソリの姿である。イクスはとっさに、どうしても引き留めなければならないような気がした。

「チョンホ」

イクスはチョンホの腕を取った。だがその瞬間、チョンホの体に稲妻が走り彼は飛び上がるように腕を上げた。その勢いで彼の肘がイクスの左手にある硯に当たったかと思うと、硯は勢いよく石畳に落下し、大きな音を立てて見事に何十もの破片に分かれた。

イクスは動きをやめ、ばらばらになった硯を呆然と見た。チョンホは青ざめた顔で振り返り、自分のしでかしたことに慄き数歩後ずさりした。

イクスは呆然としていた。チョンホは身動きすら取らないイクスの表情を伺ったが、イクスが怒鳴る気配もないので、心なしか強気になってしまった。彼は震える手を隠し、そのまま放心状態のイクスを放って再び背を向けそのまま去って行った。

 

 

 

 

懐かしいため池の岸辺にそっと腰を下ろしたチョンホは、ふと自分の帯に何か挟まっているのに気が付いた。彼は手を伸ばした。

「・・・あっ!」

指先がちくりと傷んだ。チョンホの指を刺したそれは先ほどの硯の破片のようであった。

チョンホは今度はそっと手を伸ばし、欠片をじっくりと見つめた。表面に何やら凹凸がある。彼はじっと目を凝らした。

『戸曹判書 ミン・イクス』

小さく文字が書かれているのを見た彼は、すぐに手を下ろした。その瞳孔は激しく揺れた。

イクスはああ言ったものの、実際はこの硯はイクスの愛用のものだったのである。

イクスがチョンホに何か与えるなど初めてのことだった。しかもそれが自分の大事にしているものとなるとなおさらである。そうとも知らず意地を張ったばかりに・・・。チョンホの脳裏にリョウォンの言葉が浮かんだ。自分の気持ちは言葉にしないと伝わらないのだとういう言葉である。そして、先刻の「覆水難収」という言葉を奥歯で噛みしめるがごとく、彼はごくりと唾を飲み込んだのであった。