チョンホが状元になったことの余波は思いのほか広がっていた。

 漢陽に来て以降、言ってみれば『平穏』とも言えるような静けさが閔家にあったのは確かである。特に、他の家は採紅使や燕山君の悪政に怯える日々が続いていただけに、その影響がほとんどなかった閔家はある意味珍しい存在であった。それに、イクスが職を辞してから既に10年が経過しており、閔家そのものが政局から忘れ去られていたのだ。

しかし、もはやそのような日々も終わりを迎えたようであった。閔家の長子であるチョンホが司馬試進士科で状元であった、という一報は瞬く間に宮中を駆け巡った。いや、そもそも、中宗即位後に重臣となった者たちのほとんどは功臣と呼ばれる勲旧派の人間たちであり、即ち中宗反正に一手を貸した者たちなのである。その中には、科挙も受けずに遊び回っていた者も少なくない。彼らにとっては、勲旧派が宮中を牛耳るまたとない好機なのである。そんな中、引退した士林派の長子が科挙を首席で及第し、殿下の目に留まったとあればたまったものではない。チョンホは既に、大いに「目立って」いたのである。

 弱冠18歳の中宗は勉学をあまり好んではいなかった。幼少期は武術に身を投じ、書物を読むことを好んではいなかったのである。それゆえ、功臣たちも中宗が科挙をそれほど重視するとは考えていなかった。故に、今回覆試の題を中宗自身が考えると言い出した時は度肝を食らった。しかし、増広試である。即位を祝っての科挙であるので、中宗がいわば形式的に何かをしようとするのも当然である。多くの功臣たちはそう思って納得し、中宗が題を考える手助けをした。だが、中宗は彼らの思惑通りになりはしなかった。

 そもそも即位など望んでいなかった中宗は、たった7日で寵妃を廃せざるを得なかった。というのも、この妃が燕山君と遠縁であったためである。意気消沈の中宗は、何より王になっても王権が功臣たちによって疎かにされているという現実に直面した。親類であるからという理由だけで、中宗の意思に反して妃が廃せられるほど、彼の発言権は無いに等しかったのである。いわば傀儡のようなものである。

 臣下に操られる王になりたくないがために権力から遠ざかろうとしたにもかかわらず既にその渦中にいた中宗が最も欲すのは、当然、「臣下」としての立場をわきまえられる人間であった。それでは試題で受験者の意気込みを試そうではないか、そう考えた中宗は敢えて、

君主と臣下のあるべき姿について述べよ

と題したのである。そして、だからこそ、「臣下は自信の才を知ってわきまえるべき」と述べた、自分よりも若いチョンホを首席としたのである。

 

 

 だが、そんな事情など当然誰も知らない。チョンホが状元だったと聞いたシミンは、「模範的な許嫁」らしく、すぐさま閔家の屋敷の扉を叩いた。

しかし、既に午の刻を回っていたこの時にはイクスは出払っており不在であった。当然チョンホも留守であり、シミンはソンジョンに案内され、しばし屋敷の中で彼らの帰りを待つことにした。

 ソンジョンはシミンの従者たちを離れに案内して食事を出し、その後シミンのもとに戻って菓子と茶を出した。

「こちらでもお召し上がりになってお待ちくださいませ」

ソンジョンはにこっと笑って言った。こうして笑ってみれば、彼はそこそこの美男子であった。

「ありがとう」

シミンは丁寧に言って茶に口を付けた。

「大監は間もなくお戻りになると思います。パク・スボク令監のお宅にお出かけになっただけですから」

「ええ」

シミンは大人しく頷いた。

「ところで、先日は助かったわ。大監がいらっしゃるなんて思いもしなかったもの」

「申しましたでしょう、道令様のお言葉は当てにならないと。ああいう方は、自尊心が高くて女などには尊大に振舞うものですから」

ソンジョンは言った。

「そうみたいね」

「もう少しの辛抱です、お嬢様。男というのは女よりはるかに幼いのです。お嬢様のような大人びた方を前にして、やけになっておられるのでしょう。道令様のお心を掴みたければ、何度も申している通り大監に気に入られないと」

「そうね」

「どうかお傷つきにならずに。お辛いときは、このソンジョンがそばにおりますから。それに、先日大監とお話ししたのですが、お2人のご婚礼後、私は道令様のお住まいに仕えることになったのです」

「そうなのですか?」

シミンは表情こそ変えなかったが、わずかに目を輝かせた。

「ですから、お嬢様の・・・」

その時、背後から騒がしく音がしたかと思うと、扉が開いてウノが現れた。

「お嬢様!おいでとは存じ上げませんでした、申し訳ございません」

「構わないわ」

「ソンジョン、今日はもう大監はお帰りにならない。少しお出かけになるところがあるようだ」

「えっ?ですが・・・」

「私も今から随行する故、道令様とチヒョンのこと頼んだぞ」

「は、はい・・・」

ウノはそう言うとシミンに一礼して部屋を出た。

 

仕方なく帰路に就いたシミンは、道中ふと呟いた。

「まさに、運命の方とはこのことだわ・・・」

従者は顔を上げた。

「それは、ミン・ジョンホ道令様のことでしょうか?」

「さあね・・・」

シミンはそう言ってにこっと笑うと、チャンオッ(女性の上着)を頭まで深く被り再び歩き出した。

 

 

 

中宗の御代が始まって漢陽はお祭り騒ぎであったが、所変わって漢陽から少し離れた小さな港町では盗難が多発しており、村人達はため息をつくばかりの毎日であった。

村人の嘆願により駆けつけた下級官吏が調べたところ、無くなっていたのは主に干し魚や海藻類で、他にはどこにでもある白い男物のパジ、チョゴリや下着が数枚だけであった。金目のもの(そもそも盗まれるだけの高価なものを持っている家は少なかった)が盗られたという話も全く無かった。困り果てた下級官吏は地元の地主と相談し、盗難の件を闇に伏せて漢陽に戻って行った。

呆れ果てた村人たちは、遂に自らの力で犯人探しをすることにした。盗難はいつも夜中に起こることから、ある晩彼らは集まり、たいまつを持って村中を周回し、怪しい者がいないか探し回った。

 

村から少し離れたところに薄暗い林があった。その少し小高くなったところに、いくつか大きな岩が重なり合っていた。その隙間に、ちらちら燃える薪の火で秋の寒さをしのぎながら干し魚をかじる青年がいた。

もう何日もそこにいるようで、居心地の良いように草が綺麗にかき分けられ、その上には何着かチョゴリを敷いて布団のようにしてある。

まだ若いその青年は火に照らされたその顔を曇らせながら、盗んできた干し魚を頭までしゃぶっていた。

服装こそ乱れているが、育ちの良さそうな顔立ちである。何より、右手には古い書きだこがある。見る人が見れば、彼が両班であったことは日を見るより明らかであった。

そう、彼こそが儒医の子息イ・リョウォンであった。

魚を齧り終えたリョウォンはため息をついたのち仮の寝床にゆっくりと横になり、眠りにつこうとした。リョウォンはしばらくまばたきをしていたがやがて静かに瞼を閉じた。

 

 

 

打ちつける雨の中、船から降りた流人の列が江華島の役所に着いた時には、リョウォンの母ハン氏と妹チミは既に顔を真っ青にさせ、息も絶え絶えであった。リョウォンは2人の体を支えながら必死に列について行った。だが、彼らに与えられた部屋は男女別々であったので、結局リョウォンはチミに母を任せることになった。

儒医とはいえ、所詮は両班である。雑用すらした事のない彼らが重労働につかされ粗末な食事で日々を過ごすなど容易いことではなかった。ただでさえ夫の死で打ちひしがれていたハン氏は、義禁府で受けた拷問の影響もあり体を壊してしまった。一方、まだ若いチミは少しずつ体調を回復させた。使い物にならないハン氏を見兼ねた兵士は、当時流行していた疫病を恐れ、チミをハン氏に付け、彼らを少し離れた東屋に幽閉した。

リョウォンには2人がどうなっているのか全くわからなかった。1日1回の食事、それも握り飯と余った野菜の汁だけであったが、それを手に入れる為、日々黙々と納屋を片付け、藁を編み、堆肥を畑にやり、重くゴツゴツとした木材をひたすら運んだ。再び感情を押し殺し自分を消したリョウォンは、その顔からすっかり覇気が無くなってしまった。それゆえ、チミが官庁に戻ってきた時には彼女は自分の兄が彼だと気が付かなかった。

リョウォンは兵士に連れられて小箱を抱えたチミがこちらに歩いてくるのを見た途端、全てを悟った。チミの顔からは何の感情も読み取れなかった。彼女は死人のような表情でチマを引きずりながら歩いていたが、目の前にいるのが兄だと気づいた途端、彼女は元の彼女に戻った。チミは子供のように泣き出した。

「兄上・・・・!」

リョウォンはがくんと膝をついた。受け入れられない現実に、彼は声も挙げずただ涙を流した。

 

まだ10代半ばの兄妹にとって、両親を突然失ったことは耐え難いことであった。

リョウォンは、父親が死んだ時点で自身が家長としてやって行かなければならないことに気づいていた。だが、辛い現実から目を逸らすうちに母を死なせてしまい、激しい後悔に苛まれた。母親は、家長である自分が守らなければならなかったのに、と。

だが、彼はまだ1人ではなかった。茫然自失のチミを守ってやれるのはリョウォンただ1人である。リョウォンは悲しみに暮れる暇もなく気を引き締めなければならなかった。もはや、チミの命は彼一人にかかっているのである。

日頃喧嘩ばかりしていがみ合っていた兄妹であったが、もはやお互いが唯一の頼れる存在である。彼らは寝る時を除いて常にそばを離れなかった。

 

彼らは一緒に何とか冬を越した。だが、ある春の日リョウォンは、兵士の一人が頻繁にこちらを見ているのに気がついた。初めは気のせいだと思っていたが、次第に疑いが確信に変わって行った。その兵士は、リョウォンではなくチミを見ていたのである。

年頃のチミを若い男が見つめる理由など明白である。リョウォンは背筋が凍り、絶対に自分から離れないようチミに言い聞かせた。だが、常に一緒にいるのは現実的に不可能であった。ある日、チミが足袋の中まで泥だらけになりながら放牧場を片付けていると、彼女と同室の女の奴婢が、寝床に足袋の替えがあるから取っておいで、と彼女に勧めた。その奴婢の言葉にリョウォンも特に疑いを持たなかった。だが、チミがその場を去ってしばらくしてから、ふと辺りを見渡して例の兵士がいないことに気がついた。

リョウォンは全身から血の気が引くのを感じた。彼は全速力で彼女の部屋に走った。だが、途中で顔面蒼白になって走ってくる例の兵士にぶつかった。

兵士は相手がリョウォンだと気づいた途端、一目散に逃げ出した。リョウォンははっとして兵士が出てきた方向に走った。

そこにはチミが倒れていた。服が乱れているのはもちろん、両足は不自然に曲がり、目を閉じ喘ぐように息をしていた。

リョウォンはチミに駆け寄り、手を取り脈を診た。彼は頭が真っ白になった。脈がないのである。

彼は思い出した。父が昔、彼の前で瀕死の患者を救ったことがある。その患者も脈がなく、喘ぐような呼吸をしていた。

「チミ!...誰か!......誰か!!」

リョウォンは震える声で叫んだが、人気は全く無かった。

彼がどうにかするしかない。今すぐ手を下さなければ彼女が助からないことなど彼はよく知っていた。だが...父があの時どうしていたか彼には全く思い出せなかった!

麝香が脈のない患者に効く、医学書で齧ったその知識を思い出し、彼はふと、数日前に倉庫で麝香を見たことを思い出した。彼は急いで倉庫に向かった。幸い倉庫は開いており、彼は麝香の粉を握り締めると近くにあった木筒を掴みチミの元に戻った。

チミは既に喘ぎをやめていた。動かない彼女の前で麝香を筒に詰め、やっとの思いで彼女の鼻の中に吹きかけた。が、彼にはその要領もわからなかったし、おまけに焦りのため何度も鼻から筒が滑り落ちた。

 

 

謀反人は死んでも弔いもされない。リョウォンの家族は皆、彼に故人を想って泣く場所すら遺すことが出来なかった。チミの亡骸にすがり付いて泣くリョウォンを兵士達が力づくで引き離してからというものの、彼はもはや涙も枯れ言葉一つ発することが出来なくなっていた。

リョウォンの同室の奴婢であるポンチョルはまだ若い彼に同情し、食べ物も受け付けない彼をなんとか生かそうとした。そのお陰か、江華島に秋が訪れた頃にもリョウォンはなんとか生きていた。

あれから、例の兵士は姿を見せなくなっていた。リョウォンは仇を打つことも出来ず、依然絶望のどん底にいた。激しい後悔が毎夜彼を襲ったが、次第にそれは怒りや憎しみに変わって行った。

リョウォンは幼い頃から父親に言われてきた言葉を思い出した。

「リョウォン、お前は医員になってはならない。学問に打ち込み、ソンビとなって民に尽くすのだ」

しかし、リョウォンの意に反したこの命令はもはや彼にとって1番の怒りの対象であった。なぜなら、もし彼が医術を修めていたならば、彼は母と妹を救うことが出来たからである!

 

次第に、リョウォンは亡き父に反抗心を抱くようになった。そして、家族の亡骸をないがしろにした両班たちを激しく憎むようになった。それらの気持ちの変化が、いつしか彼にある決意をさせた。それは、医員になって漢陽に戻り、自分たちを陥れた人間に復讐することである。

 

死んだような彼を注意して監視する兵士は1人もいなかった。故に、大金を盗み出して闇商人に船を出させ、江華島を脱出することなどそう難しくはなかった。

 

 

リョウォンははっと目が覚めて飛び起きた。何やら林の向こうから物音が聞こえたような気がしたのだ。

彼は恐る恐る岩陰から向こうを覗き込んだ。遠くにうっすらと松明が揺れ動いているのが見えた。彼は耳を澄ました。

「盗人は出てこい・・・・!」

男たちが口々に叫んでいた。

リョウォンは頭が真っ白になった。今ここを出ても、村を通らずして逃げることは出来ない。だが、こんなところまで自分を探しに来ているのだから、村にもたくさん人間が自分を待ち構えているはずである。

だが、彼にはほかにどうしようもなかった。リョウォンは急いで荷物を整え、彼らに見つからないよう一目散に坂を下って行った。

 

 

 

夜も更け、イクスはウノを引き連れある屋敷の前に姿を現していた。

「大監、もうお気になさらずともよいのでは?」

ウノはイクスに言った。

「そなたが口を出すことではない」

イクスは短くそう言うと、扉を叩いた。

 

「待たせて済まなかったな」

イクスは部屋に腰かけるなり、彼を待っていた中年の男に声を掛けた。

男はイクスより5歳ほど年上のようで貧相な身なりではあったが表情には強い決意の色が見られた。

「毎度わざわざお越しいただき面目次第もございません」

男はイクスに頭を下げて言った。

「それで・・・単刀直入に言うが、そなたの言うようなおなごは見つからなかった」

イクスの言葉に男はうなだれた。

「そうですか・・・」

「そなたの住んでいた集落だけでなく、漢陽に近い白丁(ペクチョン)の村は根こそぎ調べたし、万が一と思って民間の妓房に新しく入った人間がいないかも調べさせたのだ。だが、収穫は全くなかった」

「妻が妓房に逃げ込むことは無いと思います」

男はきっぱりと言った。

「何を言う、子連れの母ではないか。子の命がかかっているとなればどこにだって逃げうるはずだ」

「いいえ、妓房はだめなのです」

男が頑なに言うのでイクスはため息をついた。

「いずれにせよ・・・どんな女子か私が知らないのだから見つけ出すのは困難だろう。まだ若いのであろう、そなたの妻は?」

「はい、30になるところです」

「娘は、確か10歳であったな」

「はい」

「それにしても、そなたの歳にして若い妻を手に入れたものだ。久々に会ったかと思えば、義禁府の兵士どもに捕らえられておるわ、妻子が行方不明などと言うわで・・・そなたは内禁衛にいた頃からそうであった。私が義兄弟の儀を結ぼうと言っても、結婚する気などないと抜かして腰を抜かせよった。それが、どういう風の吹き回しだ?あれほど女を避けていたではないか」

男は逡巡したが、やがて苦笑いを見せた。

「・・・大監の場合と同じ理由でございます」

イクスはふん、と言った。

「そなたに私の何が分かる。・・・いずれにせよ我々は義兄弟なのだから、本来はそなたの娘と私の息子を結婚させるのが筋なのだが・・・。状況が状況であるし、何より息子には少し問題があるから・・・それは分かってくれるな?」

「チョンホ道令様に問題がですか?あれほどお素晴らしいお方に?」

「うむ。一重に私のせいなのだが・・・。とにかく、あの子がそなたの娘を幸せにしてやることが出来るとは到底思えない。いずれにせよそなたの身分が回復されない限り婚礼などできっこないのであるがな」

「私は一介の武官に過ぎません。大監のような名家の方と縁組を持つなど恐れ多いことです。それに、チョンホ道令様はこれから成均館に入られるのでしょう?婚礼をそれほどお急ぎになる理由は何です?」

男はイクスに訊いた。イクスは眉間にしわを寄せて腕組みをした。

「うむ・・・。ソリがいなくなって、傷を負ったのは私だけではない。私もあんな調子であったし、あの子が十分な愛情を受けて育ったとは到底思えない。スボクがいたからなんとかやってきたようだが、スボクのもとを離れてあの子が一人で生きて行けるだろうか?そなたも見ただろう?枯れ葉が散っただけで涙を浮かべるような子供だったのだ。私も、父上から厳しく育てられた。父上はいつも、優秀だった弟たちばかり可愛がり、私には関心の一つも寄せてくれなかった。あの時にメチャンやソリがいなければ、私はどうしていただろうか?考えるだけでも恐ろしいのだ。あの子は私の息子だ、近しい人間が側にいなければ生きてはいけないのも同じであろう」

男はイクスの正直な言葉を真剣に聞いていた。

「では、道令様をお手放しになっては、大監は生きていけないのではないですか?」

男の言葉に驚いて彼の目を見たイクスだが、戸惑ったように目を逸らした。

「・・・図星のようですね」

イクスは何も言わなかった。

「だから、道令様を束縛なさろうとなさったのですね」

「勘ぐるのはやめろ。何がどうであろうと、私はチョンホにとってお荷物にしかならないのだ。これで良かったのだ。今回の婚儀もあの子から願い出たのであるからな」

「果たして道令様の本心でしょうか?」

男の言葉に、イクスは何も言わなかった。