意のままに
よく晴れた日であった。
イクスが二日酔いで疲れた体を布団から起こしたのは辰の刻(午前10時頃)を優に過ぎてからだった。彼は大きく背伸びした。庭からは小鳥のさえずりが聞こえる。
「ウノはいるか」
イクスは大きな声で叫んだ。最近は、このウノというお付きの奴婢に何もかも頼りっぱなしである。
「何でしょうか、大監」
ウノはすぐに現れた。
「水を持ってこい。それと、チヒョンを呼べ」
簾越しにイクスは言った。
「チヒョンですか?」
「ああ。さっさと行け」
ウノは深々と礼をしてそそくさと部屋を出た。
「大監、チヒョンは不在でございます」
部屋に戻ったウノはイクスに椀を渡しながら言った。
「不在だと?チョンホはどこにいるのだ」
「今日は司馬試覆試の合否が貼り出される日でございます」
「ああ、そうであったか」
イクスは納得したように言うと水を一口含んだ。
「・・・どうだ、あいつは及第しそうか?お前はどう思う」
珍しくイクスはウノに意見を聞いた。
「さあ、どうでしょうか。学のない私には何とも申せませんが、チヒョンは必ず及第すると思い込んでいるようですよ」
「あいつは少々チョンホに甘いからな。だが、贔屓目なしに見てどうなのだ」
「お気になられますか?」
ウノは不思議そうにイクスの顔を見て聞いた。
「・・・何だ、おかしいか?」
ウノは瞬きした。イクスはふっと笑う。
「当然であろう。息子の名声は親に影響を及ぼしうるものだ。あいつがしくじれば、私にも被害が及ぶのだからな」
「はあ・・・」
「お前、試験がどうなったか調べてこい。この日の高さじゃあもう結果は出ているだろう」
イクスは言った。
「はい、大監」
そう言ってウノが立ち上がろうとした矢先、表の扉が騒がしく開いて誰かが廊下を走ってきた。
「大監、チヒョンでございます!」
息を切らせた様子だった。
「入れ」
イクスはそう言うとウノを見た。
「これは及第したようだが」
ウノは頷いて、脇に座り直しチヒョンに席を開けた。
部屋に入ってきたチヒョンの顔には歓喜の色が浮かんでいた。
「で、朝っぱらから騒がしく何の用だ」
イクスはぶっきらぼうに言った。
チヒョンは途端に顔を歪めた。
「何の用などと本気で仰いますか?今日が何の日か本当にご存じありませんか?」
ウノが何か言おうとしたが、イクスは手を挙げて制した。
「面倒くさいやつだな。つべこべ言わず早く要件を言え」
チヒョンはため息をついた。
「・・・チョンホ道令様が、覆試に及第なさいました!しかも・・・」
「そうか。それはご苦労。下がってよいぞ」
イクスはいかにも関心なさげに遮った。それがチヒョンの気を余計に逆なでした。
「大監!お話は終わりではございません!」
「今度は何だと言うのだ」
「道令様は、何と、首席で及第なさったのです!状元でございます!!」
チヒョンの言葉に一瞬イクスの瞳孔が開いた。が、それは傍にいたウノにしか分からなかった。
「ほう、そうか」
イクスはぼそっと呟き、それ以上は何も言わなかった。
「・・・驚かれないのですか?」
チヒョンは怪訝そうにイクスに訊いた。
「これ、チヒョン。やめんか」
ウノはチョンホをたしなめた。
「やっと婚儀の準備に入れるな」
イクスは大きく息を吸って言った。まるでチョンホのことには関心などないかのように。
「大監、これではあんまりではありませんか?」
チヒョンは言った。
「チヒョン!」
ウノは語気を強めたがチヒョンは意に介さなかった。
「道令様は大監に認められようと必死に努力なさったのです。それを、『そうか』でおすましになるおつもりですか?あれだけ『無能だ』と道令様に仰って来たのに、少しも申し訳ないとはお思いにならないのですか?」
「いい加減にしろチヒョン!大監に何と失礼なことを申すのだ!!」
ウノは叫ぶように言った。
だがイクスはどちらにも関心が無いようであった。彼は大あくびをし、再び水を口に含んだ。
「ご苦労であったチヒョン、もう下がりなさい。ウノも仕事に戻れ」
イクスははぼんやりとした表情で言った。
チヒョンは言い返そうとしたが、イクスがあまりにもぼうっとしているので逆に恐ろしくなり、それ以上は何も言わず部屋を出た。
「さっきの大監に対する態度は何だ。曲がりなりにも大監は道令様のお父上なのだぞ」
部屋を出るなりウノはチヒョンを叱りつけた。
「ではウノ兄さんは、大監があれほど道令様に無関心であっても何もお感じになりませんか?」
チヒョンは挑発的な目つきで言った。チヒョンはまだ26歳と若く、血気盛んであったのだ。
「大監は慎重なお方だ。我らの前で大仰に驚いたりなどなさるものか」
「我らの前でも女を抱くのにですか?」
「その言い草は何だ。いいか、道令様にいくら思い入れがあるからとは言え、お前はあまりにも道令様を甘やかしすぎているのではないか?」
「甘やかしているですと?私も、大監のように道令様を殴ったり蹴ったりすべきだとおっしゃるのですか?」
「おい、ふざけるのもいい加減にしろ。第一、道令様のように父親に礼を尽くさない人間が本当に信用できるのか?道令様は、大監に育てて頂いたご恩も忘れて反抗ばかりしておられるではないか!」
ウノは眉をひそめて言った。
「反抗ですと?」
「ああそうだ。ご夫人を失くされて大監がどれほどお苦しい思いをなさったかお前は知らないからそう簡単に言えるのだ」
「では、何の罪もない幼子の時から大監に邪険にされておられた道令様をお可哀そうとも思われないと?」
「全く、何の罪もないとは良く言えたものだ。あれほど手塩にかけて育てて頂いたお母上のことなど全く覚えておられぬのに、大監が御気分を害されない訳がなかろう」
「道令様はまだ3歳だったではありませんか。覚えておられるわけがございません!」
ウノは言い返そうとしたが、はっとして口をつぐんだ。
「・・・何ですか?」
見兼ねたチヒョンは言った。
「・・・何でもない。とにかく、道令様もこれで自立なさることができるのだ。大監がおっしゃった通り、我々も婚儀の準備に取り掛からなければ」
「その件でウノ兄さんにご相談があるのですが・・・」
チヒョンは先ほどまでの反抗的な態度を鞘に納め、改まった表情で言った。
「相談?一体何かね?」
ウノは不思議そうにチヒョンを見た。
「夢でも見ているみたいだよ」
掲示板の前で呆然と立ち尽くしながらソンは言った。
「ああ、ほんとに。お前がいくら賢いとはいえこんなに早く及第するとは思わなかったよ」
ソンの隣でイドが言った。彼らは覆試を受験した友人たちのために応援に来ていたのだ。
「イド、おれの顔を殴ってくれ」
「何言ってんだよ、お前正気か?」
イドは面食らって言った。
「ああ。早く殴れ。これが夢じゃないって確かめたいんだ」
ソンの言葉に天邪鬼のイドは顔をしかめた。
「嫌だね。自分で自分の顔でもつねってろよ。おれはお前に殴り返されるのを分かっててまで殴るほどお人よしでもなきゃあばかでもないんだ」
「ちぇっ。せっかく来てくれたってのに、いつも通り愛想がないやつだな。ところで、チョンホはどこ行ったんだ?」
「宦官に呼ばれて連れて行かれたよ。当然だろ、状元なんだから!」
「なんて問題だったんだ?」
小柄なイドは背伸びをしてソンに聞いた。
「ふん。お前には分からない問題ってやつさ」
「ちぇっ。面白くない奴だな」
「ソン!」
後ろから声がして2人は振り向いた。そこには既に宦官に解放されたチョンホがいた。
「やあ、チョンホじゃねえか!増広試司馬試状元のミン・ジョンホ道令様がわざわざ来てくださったぞ!」
イドはにやっと笑って大声で言った。周りの受験生たちは一斉に振り向く。
「おい、やめろよ!」
チョンホは慌てて小声で言い、2人の袖を掴んで人気のないところに連れて行った。
「何だよ、そんなことしても無駄だぞ。お前のことはすぐに有名になるに決まってるんだから」
イドは口を尖らせて言った。
「そうだ。今回ばかりはイドの言うとおりだよ。チョンホ、もう昨日までとは違うんだ」
ソンはやけに真剣な表情で言った。
「だけど・・・」
チョンホはぼそぼそと言った。
「で、どうだった?」
ソンはチョンホに訊いた。
チョンホはソンの声が聞こえないのか、呆然とした様子であった。
「大丈夫か?」
ソンはチョンホの顔を見て言った。
「うん」
チョンホはそれ以上何も語らなかった。
チョンホとソンは2人帰路に就いた。
「浮かない顔してどうした?」
ソンはいつも以上に口数の少ないチョンホに訊いた。
チョンホは相変わらず戸惑った表情でソンを見た。
「状元だぜ?今までにこの朝鮮で、こんな浮かない顔をした状元なんかいなかったと思うよ。どうしたんだ、何が心配なんだ?」
チョンホはソンの言葉に、彼の目をじっと見た。
「・・・一体何が変わるんだろう、と思って」
「変わる?何が?」
「・・お前は家に帰ったら祝ってくれる家族がいるし、そもそも実家に大きな貢献をしたじゃないか。でも・・・」
「お前は誰も祝ってくれないって?」
ソンはチョンホをじっと見て言う。チョンホは答えない。
「何の貢献にもなってないって?」
チョンホはソンから目を逸らした。ソンの言わんとしていることが分かったのだ。
「・・・お前からしてみればおれは情けなく映るだろうな。他人の評価ばかり気にして、自分の意志なんかこれっぽっちもないように見えるだろう」
「チョンホ、いいか」
ソンは親友の肩を握って正面を向かせた。
「馬鹿言うなよ。それが何のためであろうが、何かのためにあんなにも努力できるんだ。誰にでも出来ることじゃあない」
ソンは真剣な表情で言った。
「お前が出来ることを考えればいいんだよ。他人と同じようになろうとするんじゃなくて・・・」
「おれにしか出来ないことをか?」
「そうじゃない。そりゃ、そんなのがあれば万々歳だぜ。だけどそんなのそう簡単に見つかるもんじゃないだろ。だから、おれが言いたいのは、ただその瞬間に出来ることをすればいいってことだよ」
チョンホはソンの言いたいことがよくわからなかった。そんなチョンホの表情を見たソンはチョンホの肩を叩く、
「覚えてるだろ、採紅使から中人の女を助けてやった時のことを?お前、あの時、あれがお前に出来ることだったからそうしたんじゃないのか?それとも、ああやったら大監に褒められるとでも思ったのか?」
「あれは・・・」
「いいか、お前はそういうやつなんだ。自分ではそう思ってないかもしれないけどさ。何か事が起きた時に、安易な方に逃げたがる人は多い。でもお前はそうじゃないじゃないか。いつも誰かを助ける、とか大仰な話じゃなくてさ、その時に出来ることをやろうとするじゃないか。逃げることを考えずに」
チョンホはソンが言わんとしていることが多少は分かる気がした。だが、この時の彼にはまだ全てを理解することは出来なかった。
「それに、そんなことは置いておいて、おれはどうだ?おれが庶出だって忘れたのか?」
「そんなこと、気にすることなんてない」
「ほら。そう言うと思ったぜ。お前はそういう奴なんだから、もっと堂々としろよ。そんなしょぼくれた顔してちゃ、成均館でいじめられるぞ」
「お前だって入学するのに、そんなことあるわけないだろ」
チョンホは言った。
「何言ってんだよ」
ソンは笑う。
「・・・とにかく、お前が状元でみんな喜んでるんだ。おれだってそうさ。親友が状元だぞ?多分、自分が状元を取るよりすごいことだと思うぞ」
チョンホはつい笑った。
「みんなおれのもとに寄ってくるに決まってる。『お前の状元の親友を紹介してくれ』ってな。なに、お安い御用さ。適当にお前には何人か紹介して、あとはおれの人間にしてしまえばいいんだから。お前、おれの方が出世してから『何でこうなったんだ』とか聞いてくるなよ。からくりはもう全部喋ったんだから」
ソンはふざけた口調で滔々と話した。
ソンの冗談にチョンホは緊張を解いた。ソンは笑いながらソンの肩を叩く。
「・・わかったよ、ソン。もう分かったって」
ソンはそんな親友の肩を握った。
「・・・だから、何を言われてもあんまり気にするなよ」
「大丈夫だよ」
チョンホは言った。
チョンホは帰宅するなりイクスのもとに行き、シミンと婚礼の儀を挙げたいと申し出た。
これにはイクスだけでなく、チヒョンを含む従者たちも驚きを隠せなかった。何せ、あれだけシミンを嫌っていたチョンホである。それが、自分から結婚すると言ってきたのだ。
ウノは、きっと状元になって調子に乗っているのだろうと思った。だが、自分の主をよく知っているはずのチヒョンはどうしてもそうは思えなかった。むしろ、状元の件でも父親に認められないことを恐れて婚儀の話でイクスの関心を逸らし、加えて自ら彼の意のままになることで認められたという気にかりそめでもなろうとしているように思えてならないのであった。