期待
くどいかもしれないが、当時の朝鮮王朝の科挙制度を概説する。一説であるため、軽く聞き流してほしい。
まず、科挙とは官吏登用試験の全般を指す言葉であり、その中には様々な試験が存在する。現在の大学入試で想像してほしい。科挙を大学入試とすると、その中にはAO入試や推薦入試、センター試験(旧共通一次、2020年度以降は共通テスト)や二次試験があるのと同様に、様々な試験の選び方で官員になることが出来る。科挙は主に3年に一回開催されるが、それを式年試という。他に、王の即位時に臨時に行われるものを増広試と言い、主に即位年ないしは翌年に実施される。いずれの試験も大科と小科に分かれており、一度にどちらかしか受験できず、さらに基本的には小科合格者のみが大科の受験資格を持つ。小科は初試、覆試、そして大科は初試、覆試、殿試に細かく分かれており、上記の順で合格者が選抜されていく。つまり、官員を目指す子供はまず小科の初試を受験し、及第すれば覆試に進める。覆試を及第すれば、次回以降の科挙で大科を受験する資格を得る。
また、小科及第者は国立ないしは公立の学校に通う。その最高機関が成均館であり、そこの生徒を斎生と呼ぶ。
さらに、センター試験でも受験科目別に一型、二型とあるように、大科や小科にも存在する。そのうち、四書五経から出題する生員科、そしてそれに加え詩や表、賦などの科目も加わる進士科の2つが権威があるとされ、それらの科で及第した者のみ成均館に入学できる。中でも進士科は最も難易度が高く、及第者の最年少が30代ということもあったそうだ。
なお、小科は別名司馬試と言う。筆者(私)は司馬試の名を主に用いているが、これはクミョンがチョンホの受けた試験を司馬試と言っていたことに由来する。
長くなったが、本題に戻る。
中宗(晋城大君)が即位してから間もなく、増広試が開催されることとなった。乱れた世を一刻も早く直さねばという中宗の意向を受けてである。
それからはあっという間のことであった。日取りが決まると、書堂では誰が受験するのかさかんに議論された。チョンホはというと、みるみる顔色が悪くなっていき、ある日とうとう授業中に体調を崩してスボクに教室から追い出された。ソンはスボクの行為に憤ったが、スボクはチョンホを罰さんとしてそうしたのであった。
授業を終え、スボクは中庭で立たせていたチョンホのもとに行った。
チョンホは手ぶらで立たされていたので、ぶつぶつと何かを暗唱していた。スボクが近くに来るまで全く気が付かない様子である。
「チョンホ、何をしている」
スボクの言葉にチョンホは飛び上がる。
「・・・もうやめなさい。一体どれほど根を詰めたらそんなになるんだね」
そう言ってスボクはチョンホを縁側に座らせた。頬はこけ、目にはくまができていた。
「チョンホ、いいかね、そんなぼろぼろの人間を誰が官員にしたいと思う。やりすぎて自分の体調管理ができなくなるような人間など、殿下は求めておられないのだよ」
「申し訳ありません・・・」
チョンホは朦朧とした意識の中、頭を下げる。
スボクはそう言いつつも優しい表情でチョンホを見ていた。彼がどれだけ思い詰めているかが手に取るように分かったからである。
「・・・一人で悩むでない。そなたには友人がたくさんいるではないか。彼らが力になってくれる。不安を彼らに吐きなさい。誰もお前を馬鹿にしたり、責めたりはせんよ」
「彼らが私を支えてくれるのは分かっているのです。ですが・・・、ですが、その、あまり心配をかけたくないのです」
「しかし、結果的に大きな心配をかける結果となったではないか。余計な雑念は捨てなさい。お前は少し考えすぎるところがある。配慮が行き届くと言う点では長所なのだが、私にはどうもその性格がお前を傷つけているように思えてならない。純粋に、辛い、と言えることがどれだけ大事なことか」
チョンホは俯く。明らかに眠そうな彼を見て、スボクは笑った。
「・・・今日はもう勉強はやめてゆっくり休みなさい。家で休まらないのならうちにきてもよいから」
「・・・先生にはご迷惑ばかり掛けます」
「そのような気遣いが余計だと申したところではないか。さあ、もう行きなさい」
そう言ってスボクはチョンホを帰した。
教室に戻ると、同級生たちは一人も帰らずチョンホを待っていた。
チョンホは一瞬泣きそうになったが、何しろあまりにも疲れた表情だったので誰にも気づかれなかった。
「おい!馬鹿野郎、お前が一番勉強してどうするんだよ」
イドが真っ先に叫んだ。皆が笑う。
ソンは立ち上がってチョンホのもとに来、黙って彼の肩を抱くとそのまま支えるように席に座らせた。荷物は既に誰かがまとめてあった。
チョンホは感激で喉を詰まらせていたが、それも誰一人気が付かなかった。ソンは心配そうに親友の顔を覗き込んでいた。
「一体どれだけ勉強したら筆を取り落とすんだよ。最初、ソンが悪戯でもしたのかと思った」
普段無口なホンソが言った。チョンホは授業中、握っていたはずの筆を突然取り落としたのだ。
ソンは何も言わなかった。
「道令、早く帰って寝たほうがいいよ」
チョンジンは言う。
「そうだぞ。お前が体調を崩して司馬試がだめになったら、おれらはどうなるんだ」
「首席が試験を受けられないなんて、おれらにとっちゃどれだけ不安になるか考えてもみろよ」
「そうだ。一日ぐらいゆっくりしろよ」
皆口々に言った。チョンホは一人一人に返事をするほどの気力がなく、申し訳なく感じた。
「みんな、心配をかけて悪かった」
チョンホは弱弱しく言った。
サンミンから握り飯を貰い、チョンホは帰路に就こうとした。すると、ソンがチョンホを急いで追ってきた。
「なあ、このまま帰るつもりじゃないだろうな。お前、家でゆっくり出来る訳ないじゃないか。うちに来いよ」
先刻は一言も声を発さなかったソンが早口に言った。
「・・・大丈夫だよ。最近は案外ゆっくりできるんだ」
チョンホがそう言うと、ソンは何も言わなかった。
チョンホは素っ気ないソンをまじまじと見る。
「・・・怒ってるのか?」
「まさか」
「本当に?」
ソンは深呼吸する。
「なあ、おれらって親友だよな」
「えっ?」
チョンホは唐突な言葉に驚く。
「親友なんだったら、何で頼ってくれないんだよ。おれ、お前がこんなになるまで何にも知らなかったんだぜ。疲れてるの一言ぐらいあってもいいじゃないか」
「・・・すまない」
「すまないじゃないよ」
ソンはそう言ってチョンホの腕を掴んだ。
「なあ、ほんとに、おれたち、親友だよな?」
ソンはチョンホをゆすりながら聞いた。チョンホは何が何だかわからなかった。なぜソンがこれほど不安がっているのか理解できなかったからである。
「・・・ああ、もちろんだよ、ソン。唯一無二の親友だろ」
チョンホはソンの腕を握り返して言った。
ソンは少し安心した様子でため息をつき、チョンホの肩に腕を回した。
「さあ、お前が何と言おうと家に来てもらおうからな。こんな状態なのにおれが心配もせずにお前を一人家に帰せると思うか?馬鹿だなあ。おれの友情をなめてるだろう」
ソンの言葉をありがたく受け入れ、チョンホは彼に従った。
ソンがなぜこれほど不安を感じていたのかこの時のチョンホには分からなかったが、何年かして彼は全てを思い知ることになる。
その日何時間も眠り続け回復したチョンホは、以降二度と無理な勉強をすることは無かった。
やがてチョンホたちは司馬試初試の受験日を目前に控えることとなった。皆緊張していたが、多くは『運が良ければ』受かるかもしれない成績であったため、チョンホやソンほど深刻に考えてはいなかった。
先生たちは言葉にこそ出さなかったが、今回の司馬試進士科で及第するのは書堂中でチョンホただ一人だと考えていた。スボクはソンに生員科を受けることを勧めたが、庶子であり後のないソンは進士科を受けると言って譲らなかった。それでもスボクは渋っていたが、最終的にチョンホの説得により折れた。
そして、とうとうその日が来た。
チョンホはいつもよりずっと早く目が覚めた。昨晩はなかなか寝付けず、さらに悪夢のため眠りも浅かったのでかなりの寝不足だった。彼は深呼吸して落ち着こうとしたが、内心はかなり焦っていた。
ソンはと言えば、普段はホヨンに起こされるまでぐっすり寝ているのに、この日はチョンホ同様早朝に目が覚めた。体中に寒気が走るのが分かった。彼は落ち着かないそぶりで身支度を整えると、持ち物を何度も何度も確認しやっと家を出た。
チョンホたちは書堂の前で待ち合わせをしていた。親たちと一緒に会場に向かう子以外は皆集まっていた。案の定一番乗りはチョンジンだったが、その次に来たのがソンだったのでチョンジンは度肝を抜かされた。
「お、おい、ソン道令、どうしたってんだよ。いくら何でも早すぎじゃないか」
「何言ってんだよ。おれの家はそこなんだから、本気を出したらおれが一番早いに決まってるだろ」
そう言ってソンは自慢げな表情をするが、どことなく緊張している様子が滲み出ていた。
「ああ、全く。ソン道令が早く来るなんて、天地がひっくり返ったのと同じだよ。なんて縁起が悪いんだ」
そう言ってチョンジンは残念そうにした。ソンは呆れたように舌打ちする。
「だからなあ、お前、そう悪いように考えるなって。いつもは全然だめなやつも今日に限って力を発揮できる、なんて良いお告げかもしれないぞ」
2人が他愛ない話をしていたら、角からチョンホが現れた。彼は一瞬、ソンを見て眉間にしわを寄せた。
「おい、何でお前が・・・?」
ソンはため息をついた。
「おいおいお前まで何だよ。そんなにおれが早く起きるのがおかしいか?」
ソンは腕組みしてチョンホを睨んだ。
「全く、どいつもこいつも。何でそう悪い風に考えるかねえ。・・・チョンホ、大丈夫か?」
チョンホがどことなく不安げなのに気づいたソンは言った。
「大丈夫だよ、もちろん」
チョンホは素っ気なく言った。
ソンは疑わしげにチョンホの顔を覗き込んだが、それ以上は何も言わなかった。親友がどれだけ意地っ張りなのか良く知っていたからである。
そうこうしているうちに初試を受験する生徒たちが全員揃った。彼らは揃って会場に向かった。途中、チョンホが全員を見渡してため息をついたのにソンは気が付いた。一重にリョウォンのことを考えているのだろうと彼は察した。とても優秀だった彼なら、きっと一緒に受験していただろうに。
会場に到着して彼らは同時に息を飲んだ。見たこともないぐらい大勢の人たちが押し合いへし合い門を潜り抜けていた。緊張で青白くなっている若者もいれば、やれやれという表情で若輩者を眺めながらため息をつく中年の男もいる。当然彼らのような少年もいたが、全体から言えばごくまれだった。圧倒された表情の彼らを見たソンは急に大声を上げる。
「これだけの受験者を集めるなんて大したものだよ!いくら初試とはいえ、殿下の御代は平穏な時代になるに違いない!」
大人ぶって偉そうに言うソンを受験者たちは怪訝そうな顔で振り返った。チョンホは慌ててソンの口を塞ぐ。
「何言ってんだよ!」
ソンはチョンホの手を引きはがすと彼を睨んだ。
「おい、力で物をいわせなくたっていいだろ?そんなにおれが口で言っても分からないように見えるか?」
イドは吹き出した。
「お前、こんな時に何言ってんだ。全く呑気な奴だよな」
他の生徒たちも笑った。チョンホは彼らの様子をまじまじと見た。
表情の和んだ彼らはゆっくりと門の方に向かった。いったん門をくぐると皆は散り散りになった。何しろ受験者があまりにも多く、チョンホとソンは寸前まで貼りついていたが結局お互いが全く見えない席で受験せざるを得なくなった。別れ際、ソンは何も言わずチョンホの目を見て頷いた。だが、チョンホは頷き返せなかった。彼は不安げな表情のまま人波にのまれていった。
席に着いたチョンホは周りを見渡した。年長の受験生ばかりである。皆ぶつぶつ何かを唱えたり、目をつぶって何かを考えている。
チョンホは震える手を握りしめた。そういえば彼は緊張する場面に今まであまり晒されて来なかった。彼は自分の緊張に動揺し、何度も自信なさげに試験官から目を逸らした。
試験が開始しても彼の手はしばらく動かなかった。彼は深呼吸したが、それでも動悸と震えは収まらなかった。
進士科は受験科目が多く、試験は長時間に及んだ。試験を終えたスボクの書堂の生徒たちは会場の外で書堂の全員が出てくるのを待った。
ソンが試験を終えたのは全体の真ん中か少し早いぐらいだった。彼が回答を提出して外に出ると、既に数人の生徒たちが彼を待っていた。
「おい、チョンホはまだなのか?」
顔ぶれを見るなり彼は驚いて言った。
「そうなんだ。おれが出るとき、チョンホがまだ解いてるのが見えたよ」
イドは不安げに言った。
ソンは顔が青くなった。繊細で動揺しやすいチョンホのことだ、きっと緊張でうまくできていないのだろう。でなければこれだけ時間がかかるわけがない。書堂のほとんど全ての試験で、彼は最初に回答を終え、そしていつも首席だった。だがどうであろう。それから半刻が過ぎてもチョンホは出てこなかった。
「なあ、やっぱり何かあったんじゃないか?」
サンミンは青白くなって言った。
書堂で一番の人間が失敗することほど、彼らに大きな動揺を与えることはない。皆、特にソンはそわそわしながらチョンホを待った。しばらくしてやっとチョンホが出て来た。書堂の子の中では最下位だった。青白くなって出てくるチョンホを皆走って迎えた。
「おい!大丈夫か?」
皆口々に声を掛けた。
「ああ・・・。待たせてすまなかった」
チョンホは弱弱しく微笑んで言った。
ソンは親友の顔を見た。気疲れしきった表情である。彼は黙ってそばにつき、そのままみんなと一緒に帰路に就いたが、書堂の前で解散して2人きりになるとやっとチョンホに話しかけた。
「どうだった?」
「・・・最悪だよ。頭はぼうっとしているのに手が震えて何度も書き損じそうになったし、前の人の貧乏ゆすりが気になって気が散るし・・・」
「それで、題はよく解けた?」
「さっぱりさ。落ちたかもな」
チョンホは投げやりな表情で言った。
ソンはチョンホの肩を叩く。
「気にするな。結果はどうであれ、やれることは全部やったんだから」
チョンホはソンを見て悲しげに笑った。
「そうだな・・・。で、お前はどうだったんだ?」
「おれか?うーん・・・。まあ、それなりにってとこかな。何だかもうどうでもよくなってきたよ」
よくできたのだ、とチョンホは悟った。落ち込んでいる自分の手前そう言っただけで、実際はそう言うからには悪くない出来だったに違いない。
「どうかお前だけでも最後まで及第してくれよな」
チョンホは言った。
「馬鹿言うなよ。お前なしで成均館に行く気はないんだから。もう帰って休めよ。疲れ切ってるじゃないか」
そう言われ、チョンホは空を見上げる。もうとっくに日は暮れ、空には星が輝いていた。ふと流れ星が2、3個見えたが、チョンホは馬鹿らしくなって何も願う気がしなかった。
自分の手で何もかも無駄にしてしまった、と彼は思った。
この試験が自分の運命を握っており、彼の人生をひっくり返すほどの影響力を持っていることを彼は知りすぎるほどに知っていた。だが、それは皆に期待されていることである。チョンホにとってこの試験はそれ以上の意味を持っていた。期待に応えるのではなく、期待される存在になる、ということである。もちろん、彼自身はそんな自分の気持ちに気が付かないふりをしていたが。
翌日、依然疲れきった表情で書堂に行く前にチョンホがソンを迎えに行くと、ホヨンが門の中から現れた。
彼女の姿を見つけると、彼は急いで服装を整えた。
「道令様」
ホヨンはそれだけ言うとチョンホの前まで来た。2人は気まずそうに目を逸らした。
「お久しぶりです。お元気ですか」
チョンホは言った。
「ええ、私は何とか」
ホヨンはチョンホに訊き返さなかった。またもや沈黙が流れる。
「・・・ソンは?」
「さっき起きたところですわ。出てくるまでもう少しかかるでしょうね」
ホヨンは素っ気なく言った。
「・・・どうかなさいましたか?」
チョンホが訊くと。ホヨンは顔を上げた。
「緊張なさるなんて、道令様らしくありません」
彼女はきっぱりとした口調で言った。チョンホは俯いた。
「何のために官員になるのか、私に何度も仰って下さったではありませんか。そうでしょう?強い意志があるのに、どうして緊張なさるんです?目先のことに囚われて、本旨を疎かになさってるんじゃありません?」
チョンホは答えなかった。
「・・・失望しました。そんなの、私がお慕いする道令様ではありませんわ」
チョンホはぼうっとしていて一瞬言葉の意味が分からなかったが、すぐにはっとしてホヨンの顔を見た。
チョンホは何か言おうとしたが、頭の中は真っ白でまるで言葉が出なかった。
動揺しているチョンホを見てホヨンは笑う。
「宮中で働く方がそんなに感情を顔に出していいんですか?」
「・・・ああ・・・」
「私の友達はみんなあなたのことを石の心だなんて言いますけど、私にしてみれば全然そんなこと思いませんわ。むしろ、こんなに簡単に人の言葉に左右される方っているのかしら?」
「面目もありません・・・」
「何ですって?まあ。・・・ねえ、本当にこれで諦めてしまうわけじゃないでしょうね。人生に挫折なんて付き物ですし、期待が大きければ大きいほど、上手く行かなかったときに辛く感じるものですわ。でもね、実際は、そう期待していなかった時と同じようなものですよ」
「・・・でも、期待が大きいほど喜びも大きいのでは?」
「そうかしら。私は期待よりも謙虚さの方が喜びを大きくすると思いますわ」
チョンホはホヨンの言葉に首を傾げた。
「謙虚さですか?」
「ええ」
ホヨンは頷くと、意味深な表情を浮かべたままそれ以上何も言わなかった。幸いチョンホが次の言葉を選んでいるうちに、奥からソンが慌てた様子で走ってきた。
数日が経ち、初試の合格者が掲示された。
甲合格、乙合格ともに彼らの書堂の生徒はいなかった。
そして、丙合格に四名。上から、ソン、チョンジン、ポンニュン、そしてチョンホだった。
既に及第を諦めかけていたチョンホは、頭を殴られたような気分だった。
本番で本領を発揮した友人たちが落第し、不完全な態度で受験した自分が通ってしまったのだ。このようなことはチョンホの正義感が許さなかった。彼はここ数日の自分の落ち込んだ態度を反省し、友人たちに謝った。しかし、彼に不満を持っていた生徒ははなからいなかった。皆チョンホらの及第を喜び、次に続く覆試の勉強への支援を惜しまなかった。だが、そんな風に気丈に振舞いながらも四学への入学を準備している友人たちを見てチョンホは心を痛めた。と同時に、必ずや覆試も及第して見せると勉学によりいっそう勤しんだ。
そんなある日、ソンの言葉がチョンホを再び動揺させた。
チョンジンやポンニュンと放課後勉強している時だった。ソンが凝り固まった肩を気怠そうに叩きながら大あくびするので、殺気立った表情のチョンジンはソンを追いだそうとした。
「おい、何だよ。肩ぐらい誰でも凝るだろ」
「じゃあなんだよその大あくび。こっちは集中してるんだぞ」
普段の温厚な態度とは打って変わり、チョンジンは明らかに機嫌が悪い様子だった。無理もない、初試を及第したのはチョンジン自身も想定外だったのである。
「はあ、何だよ、みんな機嫌悪くなっちゃってさ。外にいてもお前らに怒鳴られるし、家に帰っても姉上に怒鳴られるし・・・」
「ホヨンさんは怒鳴ったりする人じゃないだろ」
チョンホは至って関心なさげに言った。
「そりゃあ普段は怒鳴りもしないぜ。だけど、あんな爺さんと婚約させられて、ご機嫌でいられるわけが・・・」
「えっ?」
チョンホは驚いて顔を上げた。
ソンはしまったという顔をした。
「いっけね、まだ言っちゃいけないんだった・・・。おいお前たち、このことは誰にも言うなよ」
「ちゃんと説明しろよ。婚約ってどういうことだ?」
「なんでお前がむきになるんだよ。はあ、簡単な話で、18になっても許嫁どころか求婚者の1人も現れないってもんだから、父上が隅々まで、本当に隅々まで探した挙句、何代か前に慶尚道の役人を出したチョンナウリとかいう67歳のお爺さんをわざわざ見つけてきて下さったんだよ」
ソンは嫌味たっぷりに言った。
チョンホは驚きで言葉も出なかった。
「嫌になるよな。なんだってあんな人を・・・。一体うちに何の利益があるってんだ。しかも、2番目の妻らしいぞ。そんな侮辱ってあるか?」
「おい、言葉を慎めよ。身元のはっきりしてる人なんだから、そんな言い方は良くないさ」
チョンジンは言った。
「チョンジン、他人事だからってそんなことを・・・」
「いつのことだ?」
チョンホは2人を遮ってソンに聞いた。
「・・・いつって、何が?」
「婚約のことだよ。いつ決まったんだ?」
「さあ・・・、おれが訊いたのは、初試の日の晩だけど・・・」
ソンは不可解な表情でチョンホを見て言った。
チョンホははっとした。彼は先日のホヨンの言葉を思い出した。
『期待が大きければ大きいほど、上手く行かなかったときに辛く感じるものですわ。でもね、実際は、そう期待していなかった時と同じようなものですよ。私は期待よりも謙虚さの方が喜びを大きくすると思いますわ・・・』
初めからこのことを言っていたのだ。だから彼女はあんな表情をしていたのだ。そして、だから彼女はチョンホに・・・。
チョンホは頭を振った。今はこんなことを考えている場合ではない。それに、こうなってしまってはもうチョンホの力ではどうすることもできない。
チョンホは胸の奥がずきりと痛むのを感じたが、気が付かなかったふりをして再び勉強に取り掛かった。
そして、司馬試覆試の受験日は間もなく訪れた。
チョンホはソンと待ち合わせて会場に向かった。ソンはチョンホを見るなり、今日こそは大丈夫だと感じた。チョンホはしっかりとした足取りで現れ、動揺の色は見せず、代わりに固い決意の表情を見せていたのだ。
チョンジンやポンニュンとは会場の前で合流した。彼らはともに慰め合うと、堂々とした足取りで会場に入った。彼らは席に着き、互いの位置を見た。現時点で受験者は百余名。この中から33人だけが覆試を及第できる。
チョンホは深呼吸し、硯や筆にそっと触れた。その時、記憶の奥底から初めて思い出す声が彼の頭の中に響いた。
「あなたがやりたいようにやればいいのよ」
優しい声だった。同時にぼんやりとした記憶が脳裏によぎった。
美しい女性がこちらを見ている。自分はその人をじっと見上げている。
チョンホは瞬きをした。途端に、今見た光景は頭の中から消え去り、殺気立った受験生たちの背中だけが延々と目に写った。だが、何も考える間もなく、銅鑼が鳴り試題が貼り出された。
『君主と臣下のあるべき姿とは何か』
チョンホは一瞬、その奇異な題に度肝を抜かれた。が、一息つくとすぐに彼は筆を走らせた。
それから余り経たないうちに、紙を字でいっぱいに埋めたチョンホが立ち上がったので近くにいた受験者たちは驚いて彼を見た。ソンもその一人であった。チョンホはそれでもひるむことなく、試験官に回答を提出して会場を出て行った。
この年の増広試司馬試の試験結果は以降何年も語り継がれることとなった。
というのも、中宗即位後の初の科挙であり中宗が直接司馬試の覆試の題を考えただけでなく、何よりその試験に状元(首席)で及第したのが弱冠15歳の青年、ミン・ジョンホだったからである。