論語 学而第一 其の二

 

チョンホが初めて全羅道の書堂に行った日のことである。­

それまでずっと家で過ごしていたチョンホは初めての書堂に興奮していた。腕には風呂敷に包んだ教科書を抱きかかえ、満面の笑みで教室に入った。彼は意気揚々と席に着いたが、他の子たちはけだるそうな様子だった。

彼自身は意に介していないことだったが、最も上等な着物を着ているのは外ならぬチョンホであった。彼の両隣の生徒は、その着物をじっと見つめていた。そのうち、左側の子がチョンホに話しかけて来た。

「やい」

チョンホは驚いて振り向いた。

その少年は貧相な身なりをしていた。上着ははっきりとしない色の麻布で作られており、裾にはべったりと泥のシミがついていた。チョンホは悪気なく彼の恰好を眺めた。

「・・・何じろじろ見てるんだよ」

少年は気分を害したように言った。

チョンホはぽかんとした表情で少年の顔を見た。漢陽から来たチョンホは、全羅道の訛りの少年に一体何を言われているのか分からなかったのである。

少年はさらに何か言おうとしたが、先生が入ってきたのでやめた。

 

小学(朱熹の命によって劉子澄が編纂した、儒教における初等教育書)の最初の章の書き下し文をみんなで唱えた後、先生は全員を見渡して言った。

「では誰か一人に今のところを暗唱してもらおうか。やりたい者はいるか?」

チョンホは一気にしんとした教室を見渡した。彼は小学を既に暗記していたが、人前で話した経験が無かった。彼は手を挙げようか迷った。

ところが、先刻の少年はチョンホの躊躇う左手を見ていきなり彼の腕を掴み、無理矢理上に引っ張って手を挙げさせた。

チョンホはびっくりして少年の顔を見た。しかし既に後の祭りで、少年はチョンホに目もくれず、何事もなかったかのように振舞っていた。

「よせ、ではそなたにやってもらおう。前に出てきなさい」

みんながチョンホの方を見た。彼は全員の視線にすくみあがったが、先生に急かされて恐る恐る前に出た。

「さあ、言ってみなさい」

先生は優しくチョンホに声を掛けた。チョンホは大きく息を吸いこみ、声を出そうとしたが、喉が縮みあがって声が出なかった。

「ほほう、何をしている。もう忘れたのか?」

先生は呆れたようにチョンホを見る。生徒たちはくすくす笑い出した。

チョンホは顔が赤くなるのが分かった。ふと、父イクスの顔が脳裏に浮かんだ。途端にぶるっと身震いした。このままでは、また鞭で叩かれてしまう!

彼は突然、そして慌てたように暗唱を始めた。生徒たちは急にぽかんとしてチョンホを見つめた。暗唱が終わると、先生は満足げに頷いた。

「よろしい。席に戻っていいぞ」

チョンホは一礼して席に向かった。生徒たちは珍しいものを見るかのようにまじまじと彼を見つめた。特に、例の少年は非常に不愉快な様子であった。彼は戻ってくるチョンホの上着の裾をわざと踏んだ。チョンホは教室の真ん中で大きな音を立てて転んだ。生徒たちは大声で笑いだした。

真っ赤になって立ち上がったチョンホは、少年の方を見た。

「何で踏むんだよ!」

チョンホは鋭い目で少年を睨んで大声で言った。少年はその気迫に一瞬ひるんだが、すぐに言い返した。

「踏んでなんかないよ!勝手に転んだのに、人のせいにするなよ」

「うそだ。だってさっき・・・」

「お前の方が金持ちだからおれになんでもしていいと思ってるんだろう?さっきだってそうだったじゃないか!」

「さっきだって?!一体何の・・・」

チョンホは憤慨した様子で怒鳴ったが、先生に制された。

「黙りなさい!」

「でも、先生・・・」

「黙れと言ったであろう!先生の言うことが聞けないのか?」

「でも・・・」

「ほほう!まだ言うか!」

「不当です先生!僕は何もしてません!してないんです!」

チョンホは精一杯の声で叫んだが、先生はそれが気に入らないようだった。

「何もしていないとな?」

「はい!」

「では、なぜそうやって言い返すのだ」

「それは・・・、誤解だからです」

「誤解だと?」

チョンホは目を輝かせた。

「はい!理由は分かりませんが、僕は本当に彼に裾を踏まれたんです。因縁を付けようとしているのではありません!」

少年はチョンホを睨んだ。チョンホも彼を睨んだ。

すると、先生が髭を撫でながら言った。

「・・・先生はそうは思わないがな」

チョンホは驚いて先生をまじまじと見た。

「そなたの話をにわかに信じられない理由があるのだ。『上を犯すことを好まずして乱を作すことを好む者は未だこれあらざるなり』(論語 学而第一 其の二より)。目上の者に逆らうことを好まないのに乱れを起こすようなことを好む者は滅多にいないのだ。そなたは私の言うことを聞かないのに、なぜそなたが揉め事の原因でないと信じられよう?」

チョンホはうなだれた。

「儒学では孝弟(従順なさま)であることを重んじる。そなたは学をつけるのに向いていないようだ。ひと月の間、授業の時はみんなと一緒に勉強することを禁止する。授業の間、外で掃除をしていなさい」

「でも先生!さっき僕はちゃんと暗唱しました!」

「まだわからぬか!そのような口答えが、学に向いていない証拠なのだ!」

チョンホは渋々荷物をまとめ、げらげら笑う生徒たちを後ろ目に教室を出た。

 

彼には、自分を嵌め、馬鹿にして笑う生徒たちに勉強の資格があり、自分に資格がないその意味が分からなかった。だがそれから数か月のうちに、論語を読むようになって彼は気が付いた。従順な姿勢を見せなければ、意見しても誰も聞いてくれないのだと。彼はそれ以降、不満があってもよほどのことがない限り口にしなくなった。代わりに、将来宮中で殿下に仕えるようになったら、同じような理由で理解されない人たちの意見も公平に聞いてあげようと固く決心したのである。