皆さんこんばんは照れ

 

前回のあらすじ

チョンホは10歳になっていた。彼は書房の授業にあまり出ず、ほとんどを木の上で過ごしていたので、年上の子供たちに目をつけられ、いじめられていた。病弱な見た目で寡黙なチョンホはいつも何も言わず抵抗もしなかった。そんな中、とうとう堪り兼ねた書房の先生がイクスに話をするというので、チョンホは仕方なく事情を話す。何と、彼は独学で既に四書を全て覚えていたのだ。彼の才能に気が付いた先生はイクスを説得するが、四六時中酒浸りのイクスの耳には届かなかった。イクスはいつものように罰としてチョンホを納屋に閉じ込め、チョンホお付きの従者チヒョンが時々差し入れを持って行ってやっていた。しかしそんなある日、先生の計らいでとある人物がチョンホのもとを訪れた。

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漢陽 

 

チョンホは見知らぬ声に驚いたが、何かいいことが起こるのではないかという気がしたので慌てて返事をした。

「はい、起きています」

「ここを開けてもいいかね?ああ、お父さんには許可を取ったよ」

お父さん、という言葉にますますチョンホは期待した。自分の父親を皆大監と呼び敬うが、親しげにお父さんと呼べるということは、父と対等以上に話せるすごい人にちがいない。

「大丈夫です」

戸が開いた。そこには、見覚えのない儒学者が立っていた。年齢は父と同じくらいに見える。

「久しぶりだね。私を覚えているかい?」

その儒者は優しい表情をチョンホに向けた。全羅道の訛りで話すチョンホと違い、上品な漢陽の言葉であった。

ぽかんとしたチョンホを見て儒者は笑った。

「ははは。最後に会ったのはもう5年も前だから覚えているまい。愚問であったな。私はパク・スボクだ。元芸文館の提学で、今は漢陽で書房を開いている。お父さんとは幼馴染で共に科挙に及第し仕官した仲なんだ」

スボクは優しく言った。目は生き生きとし、その外見は聡明で温厚な儒学者そのものである。チョンホはすぐにスボクに好感を持った。

「お忘れしてしまい申し訳ございません。閔家の嫡子ミン・ジョンホです」

チョンホは改まって挨拶をした。

「さあ、出てきなさい。ここは暗くてじめじめして何て居心地が悪いんだ。さあ、おいで。おや、ずいぶん痩せたんだね。肌もこんなに白くなって。勉強ばかりしているのだろう。それとも、いつも納屋にいるのかな。腕もこんなに。骨しかないようじゃないか」

スボクはチョンホの腕をとり言った。

「どうしていらっしゃったんですか?」

「そうだ、大事なことをまだ言ってなかったな。急なことで驚くだろうが、倒れたりしないでくれよ。今からお前は、漢陽に行くんだ。そして、これからは私の書房で一緒に勉強をするんだよ」

チョンホの表情がとたんに明るくなった。漢陽だって?生まれの地とは聞いていたものの、記憶には全くないその漢陽は、噂によると、賑やかで楽しく、美味しい物や美しい物がたくさんあるそうではないか。それに、この物分かりのよさそうな優しい人が、勉強を教えてくれるだって?しかも、賢い子供たちが集まる漢陽で?

嬉しそうなチョンホを見てスボクは笑った。

「はは、そんなに嬉しいか。だが漢陽は華やかだけど危ないところだよ。私もちゃんと言いつけを守っていれば怒らないが、悪いことをしたら怒るよ。それに、私の書房では今までのやり方は忘れて私のやり方に従ってもらう。約束できるね?」

「もっと勉強が出来るのであれば、何でも約束します!」

スボクはさらに笑った。

「そんなに勉強が好きなのか!どれどれ、実力を少し聞かせてくれ。四書を全て覚えたとは本当かい?」

「はい、令監」

「ははは、そなたは芸文館の提学が令監だと知っているんだね」

「はい、従二品の官職ですから」

「やはりお父さんが言うことは本当だったんだな。まだ10歳なのに基本的なことは何でも知っているんだね。じゃあ、私のために、盡心章句下の十四を暗唱してみてほしいんだが、出来るかい?」

「はい。孟子曰く、民を貴しと為し、杜稷之に次ぎ、君を軽しと為す。是の故に丘民に得られて天子と為り、天子に得られて諸侯と為る。諸侯に得られて大夫と為る。諸侯、杜稷を危うくすれば、則ち変え置く。犠牲、既に成り、粢盛、既に絜く、祭祀、時を以てす。然り而して旱乾、水溢すれば、則ち社稷を変え置く」

「意味は?」

「孟子が言うには、人民が最も貴く、次に杜稷で、それらに比べて君子は軽い。なので人民に推挙されて天子となるべきであり、その天子に推挙されて諸侯となるべきであり、またその諸侯に推挙されて大夫となるべきである。なので、諸侯が杜稷を危うくするなら、替え置くべきである。いけにえも供え物もしっかり整え、祭祀を正しい時期に行っているのに旱乾や洪水が無くならないようなら、杜稷を変え置くべきである。このような意味にございます」

「ははは。その通りだ。だが、なぜ君子は人民や杜稷より軽いと言えるか?」

「それは・・・」

チョンホは困惑し口ごもる。

「はは。実際に進士科で聞かれるのはこのような問題だよ。だが、全羅道にいてはこういうことまで勉強できないまま何年も待たなければいけなくなる。私のところに来て、どのようなことを勉強すればよいかこれでわかったね?」

「はい。精進します」

チョンホはそれでも目を輝かせて言った。自分の分からないことを聞いてきた人は初めてである。チョンホはわくわくしていた。

 

その様子を陰から見守っていたイクスはため息をついた。

漢陽に戻ることは、彼にとっては不本意だった。しかし、スボクがあれだけ言うなら仕方ない。それに・・・。確かにチョンホはとても賢かった。

イクスは先刻の会話を思い出す。

『お前がどれほど落ち込んで辛いかは私にはわからない。配慮もしてやれず申し訳ないと思うし、一人で息子を育てるのがどれだけ大変か考えるには余りある。だが、イクス、お前はチョンホを愛していないのか?お前のたった一人の息子だぞ?ソリの血を引き、そしてソリが最期まで自分の命を懸けて守り抜いた子なんだぞ?こんなことをして、ソリが喜ぶと思うか?』

『ソリが何だと言うんだ。おれはもうソリのことは忘れたし、そんなことは私には関係ない』

『じゃあ、チョンホは?チョンホのことも、愛していないのか?』

イクスは再びため息をついた。

体から酒が抜け、手が震えていた。普段ならこの時間にはもう一杯やっているはずだった。

久々にしらふになっていたイクスは、チョンホがやせ細って生気がないことに気が付いた。これも、自分のせいなのだろうか?

怒りや虚しさを唯一の家族にぶつけるうちに、その家族の心を永遠に失ってしまったようだ。そう思うと余計に怒鳴りたくなるが、今は酒を飲んでいないのでただ心が暗く沈むだけであった。

イクスは黙ってその場を去り、チョンホの荷物をまとめてやった。

 

漢陽への道はチョンホにとってこの上なく楽しいものになった。イクスがいると普段は自由にできなかったが、この時はスボクも同行し、イクスに目を光らせていたからである。

チョンホには全羅道に来た時の記憶が無かった。そのため、見るものすべてが初めてに感じた。船の中でも、前から後ろに流れていく山々を眺めては追いかけ、木の枝で水面をつつき、船首で風を全身に受け、座席に腰かけて足をぶらぶらさせた。イクスはそんなチョンホを見てため息をついた。

「何だ?この程度でも気になるのか」

スボクはチョンホに聞こえないように小声でイクスに言った。

イクスは答えない。スボクはため息をついた。

「全く。子供と言うのはこうやって育たなければいけないんだ。縛り付ければ縛り付けるほど、心が弱く狭くなっていく。あの子は賢いが、自分で考える力があまり育っていない」

イクスは外の山々に目を向けた。

「今のチョンホは、与えられたものをこなすことはできるが、このままだと自主的に創造することはできない。ちゃんと自分で考え判断できるような環境においてやらねば」

イクスは相変わらず聞いているのかさえ分からない様子である。

今度はスボクがため息をついた。チョンホに目をやると、熱心に帳簿に何か書いている。

「何を書いてるんだい」

チョンホは急いで振り返る。イクスの顔色を伺いながら、恐る恐る答える。

「詩でございます」

「ほう、詩が詠めるのか」

スボクは手を伸ばす。チョンホは少しためらったが、仕方なさそうに帳簿を手渡した。

帳簿を受け取り、パラパラと頁をめくったスボクは再び驚かせられた。

「・・・これは全部、自分で考えたのか?」

「はい」

チョンホは不思議そうな表情である。

「見てみろ、お前・・・」

スボクはイクスに帳簿を手渡そうとしたが、困惑した父子の表情を見てやめた。

スボクは黙って帳簿をチョンホに返した。

「あの子の詩は繊細でませている」

少したって、再びスボクはイクスに囁いた。

「まるでソリの詠んだ詩・・・」

「あの子の母親の話はするな」

イクスはスボクを遮って言った。

スボクは黙った。チョンホは既に帳簿を懐に収め、甲板から身を乗り出して山々を見ていた。

スボクは何度もイクスが荒廃していくのを見ていた。その度に彼が手を差し伸べ、更生させてやった。しかし、今回は今までのようには上手くいかないかもしれない。

 

舟は漢陽に着いた。チョンホは市場をわくわくしながら歩いた。全羅道では、こんなに沢山の人が集まって賑やかにしているのなんて見たことがない。露店には、本や飾り棚、靴や布、魚や干し肉が並んでいる。店の前に何度も立ち止まって興味深そうに見るチョンホをスボクは微笑ましそうに見たが、イクスは堪り兼ねてチョンホの腕を強く引いた。それ以降チョンホは黙って2人におとなしく付いていった。 

閔家が居を構えたのは、以前の屋敷ではなかった。従者たちに荷を下ろさせ、部屋を整えさせている間に、スボクの提案で3人はチェ・パンスル商会に行くことになった。閔家とは外戚関係にある彼らに挨拶がてら、珍しいものがたくさんあるのでチョンホにそれらを見せてやろうと考えたのだ。

店に入るなり、偶然表に出ていたチェ・パンスルに見つかったイクスは奥に連れられた。その間、スボクはチョンホが様々な商品を手に取っているのを観察していた。奥の一角に珍しい硯が沢山置いてあった。チョンホはそこに釘付けになった。スボクはそれを見てつい笑ってしまった。

ふと脇を見ると、チョンホより少し年下ぐらいの女の子がチョンホをじっと見つめている。あまりにもじっと見ているので、スボクは声をかけた。

「やあ、どうしたんだい」

女の子はびっくりして飛び上がり、棚の本を落としてしまった。

本の音で振り返ったチョンホは、その本を拾った。そして、本をじっと見つめる。

女の子はチョンホに近づいていき、チョンホの持っている本を手に取った。顔は真っ赤である。

「ありがとうございます、道令様」

チョンホは顔を上げる。女の子がいたことにその時初めて気づいたようであった。彼は戸惑い、恥ずかしそうに本を突き出して再び背を向けた。

彼は今まで女の子と話したことが無かったのである。

スボクは再び女の子に声をかけた。

「ここの娘かい?」

「は、はい。チェ・グミョンと申します」

女の子は丁寧に礼をした。

スボクはチョンホに目をやる。背を向けて硯を見ているふりをしているが、明らかにこちらに聞き耳を立てている。スボクは笑い、チョンホの腕を掴んでクミョンの目の前に連れて来た。

「お前も挨拶しなさい」

「ミン家の長男のミン・ジョンホと申します。お見知りおきを」

チョンホは言い終えるとスボクの手から逃げ出して再び硯の前に立った。

スボクは笑いながらクミョンに話を続ける。

「クミョンと言うんだね。何歳だい」

「8歳でございます」

「そうか。こうやっていつも店に立っているのかい」

「はい。叔父様が、ここに立ってお客様を観察しろと仰るのでそうしています」

「そうなんだね」

スボクはクミョンの話に少し引っ掛かったが、この時奥からイクスとパンスルが戻ってきた。

「帰るぞ」

イクスはそれだけ言うとそそくさと出て言った。スボクは慌ててチョンホの手を取り、イクスの後を追った。

 

 

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さて、今回はここまで。

また次回照れ