吉川弘文館の「歴史文化ライブラリー」シリーズのひとつである西山伸『検証学徒出陣』(2024年8月)を読んだ(注1)。

  注1: 西山氏は「京都大学における「学徒出陣」に関する調査・研究」(平成16・17年度総長裁量経費プロジェクト)の中心研究者である。この書籍のもととなったのは以下の論考であろう。『京都大学における「学徒出陣」 : 調査研究報告書』中の氏による「調査研究の概要」、「「学徒出陣」という言葉 」、「 研究史」、「制度的枠組み 」、「京大における実態」、「軍隊における学徒兵」や個別の論文(たとえば、「1939年の兵役法改正をめぐって」(2015年3月)、「徴集猶予停止に関するいくつかの間題について」(2016年3月)、「1943年夏の大量動員 : 「学徒出陣」の先駆として」(2018年3月)、「戦争末期の「学徒出陣」」(2019年))。

西山伸『検証学徒出陣』(2024年8月)

 西山氏はプロローグ「学徒出陣とは」のなかで、「本書は、最終的には「学徒出陣」といわれるようになる、学徒の軍隊への入隊を考察することを目的としている」、「学徒出陣」は1943年10月の出陣学徒壮行会の模様の映像や書籍『きけわだつみのこえ』などで「比較的よく知られている」、「しかし、知名度のわりにその実態がどこまで知られているかについては、いささか心もとないのではなかろうか」として、軍隊における学徒兵の位置づけ、軍隊は学徒兵に何を期待したか、世間の受け止め、特攻隊と学徒兵、軍隊に入った学徒の数や戦死者数などが明らかにされなければならないとしている(p.2)。
 同プロローグ中で、本書での「学徒出陣」という用語について、1943年10月の在学徴集延期臨時特例で徴集延期が停止され、同年の軍隊への一斉入隊を指すばかりでなく、その後も徴集延期停止により在学のままの徴集が敗戦まで続く事象を含め、さらに、1943年夏の大量動員も政府の意図の共通性から「学徒出陣」として扱うとしている(p.4)(注2)(注3)。

  注2: 『京都大学における「学徒出陣」 : 調査研究報告書』の「調査研究の概要」のなかで、「「学徒出陣」という用語は、1943年10月2日公布の在学徴集延期臨時特例による学生生徒の一斉入営・入団を指すのが一般的であろう。しかし、一方ではその後敗戦まで在学身分のままの徴集は引きつづき行われており、もう一方では、在学徴集延期臨時特例公布以前から、徴集時期を早めることを目的に大学の在学年限短縮や徴集猶予年齢の低下が始まっていた。これらの措置はいずれも戦時下特有であり、戦争と大学の関係を考える上では見過ごせないものである。
 そこで、本調査研究では、最初の在学年限短縮が適用された学年である1939年4月の入学生(同時にこの学年は、徴集猶予年齢が従来の27歳から26歳に初めて引き下げられた直後の入学生でもあった)から、戦時中の最後にあたる1945年4月の入学生までを対象とした」としている。
 また、「「学徒出陣」という言葉 」のなかでは、「いずれにしろ、「学徒出陣」とは元来軍の側からの明確な目的意識を持った言葉であることは間違いない。その意味では、歴史用語として現在そのまま使用するのは適当でないかもしれないが、すでに広く定着した用語であることと、当時の状況を示す用語であるという理由から、本調査研究では、カギ括弧を付して用いることとした」とある。
注3: 「学徒出陣」という用語の意味するところは、その使用者によって揺れが大きい。以下にいくつか紹介する。
(1)1941年の繰上げ卒業期以降を「学徒出陣」とする見解
 秋谷紀男「戦争と明治大学 : 学徒出陣と学徒勤労動員を中心に」(明治大学史資料センター編『戦争と明治大学 : 明治大学の学徒出陣・学徒勤労動員』(学校法人明治大学、2010年3月)では、「1941年度の学部卒業予定者は3か月の繰上げ卒業の対象となり、各学生は12月に徴兵検査を受け、翌1942年2月に陸海軍に入隊した。いわゆる「学徒出陣」が開始されたのである」(p.85)、「明治大学では1943年12月から1945年6月までに3564人が陸海軍に入隊している。学徒出陣はこれ以前から開始されているから、5000人前後の明大生が兵役に就いたといえよう」(p.90)としている。
(2)在学生や卒業直後の者に大きな影響を与えた点を捉えた見解(『立命館百年史紀要』第2号(1994年3月)所収の論考など;以下は、小特集「立命館大学学徒出陣五○年」の記事)
ア.1943年、1944年、1945年について第1次、第2次、第3次の「学徒出陣」と明記して捉え、さらに、学徒出陣とは明記していないが、1943年の繰り上げ卒業も掲げている;繰り上げ卒業では、約1600人の卒業者のうち500人が入隊したとある(小西康夫「立命館大学の学徒出陣・学徒勤労動員に関するアンケート調査中間まとめ」)。
イ.「兵役者名簿」(自昭和14年至昭和20年)などの史料を調査した結果を表などにまとめたものの注記として、「本稿で「学徒出陣」と表現している対象は、在学中に兵役休学したものをさしている」(西川賢「(統計)立命館大学関係の「学徒出陣」者数調査」)とある。

 また、プロローグの最後で学徒兵という用語について以下のような断りを述べている。「本書では高等教育機関を卒業して、あるいはその在学中に入隊した者を「学徒兵」と表記している。入隊者のなかには卒業生もおり、また士官にならず兵に止まる者もいたが、その多くは下士官や下級士官になっているので、彼ら全体を指す用語として「学徒兵」は正確とはいえない。しかし、一般の徴兵で入隊してきた兵や職業軍人と彼らを区別する簡潔な用語が他にないため、そのように表記している」とある(p.8)。

 引用したこの部分はややわかりにくい。
 ウェブ版「精選版 日本国語大辞典」は、学徒兵を「学徒出陣によって戦争に参加した兵」としている。同辞典の学徒出陣の項は「学生、生徒が兵隊として戦争に参加すること。昭和18年(1943)第二次世界大戦の戦局の悪化に伴い、それまで学生に許された徴兵猶予の特権が廃止され、旧制専門学校以上の学生が戦争に参加した」としている。この辞典では、「学徒出陣」を学校などに在籍中に兵隊となること、とくに1943年の事象と定義づけ、学徒兵は、そのようにして兵隊となった者を指すとしている。これは西山氏のいう狭義の定義づけである(p.4)。
 わかりにくいのは、引用したプロローグ中の「入隊者のなかには卒業生もおり」、学徒兵にはこのそ卒業生も含むとしているところである。これは、氏が「学徒出陣」を1943年夏の「大量動員」を始期として捉えることによるものである。氏のいう大量動員とは、1943年の海軍、陸軍による高等教育機関の卒業生、卒業見込みの在学生を対象として下級士官への登用を前提とした採用活動により多くの卒業生や在学生が応募し、採用されたことを指している(注4)。

  注4: (1)海軍:1943年5月に海軍がの募集を開始した「海軍予備学生」、「兵科予備学生」(採用はいずれも10月)。応募資格を高等教育機関の卒業生、および、在学生で同年9月末までに卒業見込みの者とした。この期の飛行科予備学生は、志願者約5万人以上、合格者は5,000余人であったとある(p66)。兵科予備学生は3,700人以上が採用されたとある(p.69)。
(2)陸軍:1943年7月に陸軍が募集を開始した「特別操縦見習士官」(採用は10月)。応募資格は「海軍予備学生」とほぼ同様。採用者数の記述はないが、知覧特攻平和会館ウェブサイトの展示「学鷲の軌跡」の説明には第1期から第4期の合計採用者数は約8,000人とある。



 以上プロローグでは、何について、どのような範囲で、何を明らかにするかを述べている。基本的には「京都大学における「学徒出陣」に関する調査・研究」と同じである。
 かいつまんで箇条書きに掲げれば以下のとおりである。
1)実質的な「学徒出陣」(1943年の在学徴集延期臨時特例だけを対象としない;政府の意図の共通性を重視して、実質的な「学徒出陣」を対象とする)
2)1)にしたがって、時間のうえでは1943年夏の大量動員から敗戦まで、人の範囲では卒業生を含む学徒
3)軍隊における学徒兵の位置づけ、軍隊は学徒兵に何を期待したか、世間の受け止め、特攻隊と学徒兵、軍隊に入った学徒の数や戦死者数

 章立てはしていないが以下に目次を掲げる。

学徒出陣とは―プロローグ

兵役と学徒 制度的前提
 在学徴集延期制度
 陸海軍の対学徒策

縮小する「特権」 日中戦争期の学徒
 「学生狩り」と「インテリ兵士」
 一九三九年の兵役法改正
 在学・修業年限短縮
 対米英開戦前後

学徒出陣の先駆け 一九四三年夏の大量動員
 大量動員の背景
 始まった大量動員
 志願、そして入隊

一斉入隊する学徒 徴集延期停止
 発表された徴集延期停止
 入隊までの二カ月
 一斉入隊後の進路

絶望的な戦局のなかで 戦争末期の学徒出陣
 「根こそぎ動員」へ
 特攻と学徒兵

運命の受容 学徒兵の残した記録
 学生時代
 軍隊における学徒兵
 転変する運命

どのように伝えられてきたのか 学徒出陣の戦後
 遺稿の刊行
 社会の変化のなかで

今、改めて学徒出陣を考える―エピローグ

 

 本書の優れている点は、高等教育機関の学生生徒が享受してきた権利や特権が規制されたり、奪われたりしたことに着目して、そのことが本来の教育から逸脱してゆく制度の側面、実態を一般読者向けに発表したことである。違う言葉でいえば、「学徒出陣」の総体を明らかにしようとしている点である。



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 最後に注文を2つ掲げる。

1)1943年夏の大量動員について表状のもので表現

 西山氏が指摘する「1943年夏の大量動員」がいかに大量であったかを知りたく思い、本書のなかからまとめた。
 本書の各所に高等教育卒業者・卒業見込み者を対象とした海軍、陸軍の下級士官採用にかかわる制度や採用人数が記されている。それをもとにまとめたのが以下の表である。
 1943年夏から秋にかけて11,000人以上の高等教育卒業者・卒業見込み者が予備学生などとなっていることががわかる。

海軍、陸軍の高等教育卒業者・卒業見込み者を対象とした採用(1941年以降)

  採用(採用年月、採用者数など) 備考
1941年
主計科2年現役士官(海軍)(注5)
第6期(1941年4月):110人
第7期(1941年8月):98人
「海軍主計中尉任用海軍主計少尉候補生採用規則」による採用(官報)。
1942年
主計科2年現役士官(海軍)
第8期(1942年1月):318人
第9期(1942年9月):472人
1942年
海軍飛行科予備学生(第9期-第12期)(注?)
第 9期(1942年 1月): 38人
第10期(1942年 1月):100人
第11期(1942年10月):101人
第12期(1942年10月): 70人
第9期、第10期:1941年12月繰上げ卒業者を含む。
第11期、第12期:1942年9月繰上げ卒業者を含む
1942年
海軍兵科予備学生
第1期(1942年1月):298人
第2期(1942年9月):551人(注6)
第1期:1941年12月繰上げ卒業者を含む。
第2期:1942年9月卒業者を含む
1943年
海軍飛行科予備学生
飛行科(第13期)(1943年9月):5,199人 第13期:1943年9月繰上げ卒業者を含む。
第13期の志願者:5万数千人
1943年
海軍兵科予備学生
第3期(1943年10月):3,700余人 1943年9月繰上げ卒業者を含む
1943年
特別操縦見習士官(陸軍)
第1期(1943年10月):2,386人(ただし、少尉任官者) 1943年9月繰上げ卒業者を含む
1943年
主計科2年現役士官(海軍)(注7)
第10期(1943年9月):702人
1944年
海軍飛行科予備学生
第14期(1944年1月):2,690人 1943年9月繰上げ卒業者を含む、徴集延期の中止より在学中に徴兵された者を含む
1944年
海軍飛行科予備生徒
第1期(1944年1月):2,100人 徴集延期の中止より在学中に徴兵された高等学校、専門学校在学者
1944年
海軍兵科予備学生
第4期(1944年1月):3,400人 1943年9月繰上げ卒業者を含む、徴集延期の中止より在学中に徴兵された者を含む
1944年
海軍兵科予備生徒
第1期(1944年1月):1,000人 徴集延期の中止より在学中に徴兵された高等学校、専門学校在学者
1944年
特別操縦見習士官(陸軍)
第2期(1944年2月):約1,100人 1943年9月繰上げ卒業者、徴集延期の中止より在学中に徴兵された者を含む
1944年
主計科2年現役士官(海軍)
第11期(1944年2月):559人(注?)
第12期(1944年9月):903人
  注5: 主計科2年現役士官(海軍)とは別に、軍医、技術、薬剤、法務、歯科医の2年現役士官制度があった。
海軍予備学生には、飛行科、兵科のほかに、おもに技術系の整備科があった。蜷川壽惠『学徒出陣 : 戦争と青春』(吉川弘文館、1998年)によれば、1943年の整備科の採用者数は1436人(p.51)。
注6: 1942年海軍兵科予備学生(第2期)については、蜷川壽惠『学徒出陣 : 戦争と青春』(吉川弘文館、1998年)から補った(p.54)。
注7: 1944年主計科2年現役士官(海軍)(第11期)については、本書の2カ所に記述があるが、人数が異なる。出典の違いによるものである。20ページの記述は出典『海軍主計科士官物語』で559人、108ページの記述は出典『海軍予備学生・生徒』で540人とある。

 

2)本文中の引用文献表記の工夫

 本文に掲げた引用文献などの表記からは、巻末の参考文献リストへの参照関係が追いにくい点である。たとえば、海軍航空予備学生制度に触れる箇所で参考文献として『海軍予備学生・生徒』とタイトルだけを掲げている(p.18)。著者や編者の50音順で並べられた巻末の参考文献リスト(約100点)に容易にはたどり着けないのである。リストには「小池猪一編著『海軍予備学生・生徒』(全3巻) 国書刊行会、1986年」と「こ」の位置に掲載されているのである。

 ポツダム宣言受諾 敗戦の日に記す。