旧制の学校制度には、私立大学や官立大学などで大学への進学を前提とした予科が存在した。そのほか官立を中心とする高等学校が同位の学校として存在した。

 手元に中央大学の「大学予科生徒證」(予科生徒証)がある。1942(昭和17)年4月入学で、第一予科のものである。持ち主の彼は、1924(大正13)年11月生まれで、入学時17歳である。このブログ記事を書いている2024年に、ご存命ならば彼は満100歳を迎える。

<図1 予科生徒證 第1面、第4面>
中央大学予科生徒證(1942年入学)第1学年

<図2 予科生徒證 第2面、第3面>
中央大学予科生徒證(1942年入学)第1学年

 当時の中央大学の予科には第一と第二とがあり、第一予科(3年制)は昼間、第二予科(2年制)は夜間に授業を行なっていた。

 なお、このブログ記事で学則に触れる場合、中央大学ウェブサイトの「開学当初から旧制時代の学則、規則類」ページに公開されている次の2種の学則に依拠した。
(1)「中央大学学則 : 大学部大学予科専門部 1939(昭和14)年2月」(1937年4月改正)(1937年度版と略記)
(2)「中央大学学則 : 大学部大学予科専門部(1944(昭和19)年8月)」(1943年2月改正)(1943年度版と略記)
 中央大学のウェブサイトには「中央大学学則(旧制)」(附則に1942(昭和17)年4月1日より適用とあるもの)がある。持ち主の彼が入学したときの学則である。しかし、内容を子細に見るとブログ記事で引用するには要件を満たさないので依拠しなかった。詳細は後日投稿するブログ記事をご覧いただきたい。


 この生徒證は、厚紙を2つに折る形式で、計4面で構成されている。第1面(扉)には校章とともに「大学予科生徒證」、「中央大学」とあり、四周を飾りで囲み、四隅には「質実剛健」の4文字を配置している。中を開けると第2面、第3面は見開きで、第2面には「身分證明書」、第3面には「身分證明書注意」、横に一、二、三、縦に8を除く4から3までの33の枡、最終の第4面には「学費領収證」、「生徒顔写真」、「学籍」、「氏名」の欄が配置されている。

 第2面の「身分證明書」には、現住所、氏名、生年月日に続いて「右本大学第一予科生徒タルコトヲ證明ス 昭和十七年四月壹日、中央大学予科長 森田実」とある。

 第3面の「身分證明書注意」には他人への貸与の禁止、乗車・乗船中の携帯、鉄道係員の請求時には提示することなど6項目の注意事項が並んでいる。その6項目には、「本證明書ノ有効期限ハ当該年度内トス、各学年毎ニ證明ヲ更新スルニ付其證ナキモノハ無効トス」とある。
 横に一、二、三、縦に8を除く4から3までの33の枡の意味は不明である。漢数字は学年を、英数字は月を表すものと推測する。「身分證明書注意」の内容からすると、鉄道会社などによる「学割定期券」の発行控かもしれない。

 第4面の「学費領収證」欄には、第1学年から第3学年それぞれに、4月から7月、9月から12月、1月から3月の11個の枡があり、12個目の枡は空欄である。学費を収納したしるしに係の朱色の印が捺されている。第1学年の4月から7月の4枡全体を覆うかたちで横長の「既納」の印が捺され、第1学年の3月までの各枡には個人印が捺されている。12個目の枡には朱色で印面が丸枠に「教」の印が捺されている。「学籍」欄には「第一予科昭和十七年度第444号」とある。「氏名」欄の氏名の上部には「服」の朱字印が捺されている。

 この「大学予科生徒證」からいろいろ調べたり、考えたりした。それを以下に述べる。

1 氏名欄の「服」について
 ここからは推測である。
 「服」は服役のこと、つまり、志願して兵となったことを表しているのではないか(注1)。学則には、陸軍、海軍の現役に服する者、および、召集中の者は休学の扱いとし、満期後はただちに原級に復帰することができるとされていた(第20条)。

  注1: 当時の「兵役法施行令」(1927(昭和2)年勅令第330号)を参照すると、年齢が17歳以上で徴兵適齢未満の者が志願できるとされている。


 彼が入学した1942(昭和17)年は、その前年12月に始まったアメリカ、イギリスとの戦争(太平洋戦争)下にあった。日本軍は、1942年1月にマニラ(フィリピン)占領、3月にヤンゴン(現ミャンマー)占領。6月のミッドウェイ海戦を境に日本軍は劣勢になってゆく。

<図3 ミッドウェイ海戦の「勝利」を伝える大阪毎日新聞(6月11日)>
ミッドウェイ海戦の勝利を伝える大阪毎日新聞1942年6月11日
 学校関係では、9月に学部学生、予科・高等学校生徒は6か月の卒業繰り上げを余儀なくされ、翌1943年1月には予科の修業年限が3年から2年に短縮され、同年4月に施行されている(ただし、在校生については3年)。

 学則には、4月、9月、1月の3回に分けて学費を支払うことが定められている(1937年度版、1943年度版、いずれも第55条)。彼は1943年の1月に学費を支払ったのが最後である。つまり、彼は、第1学年を終わった時点、あるいは、第1学年の途中で志願して兵となり、休学したのではないかと推測する。


2 身分證明書の更新
 第3面の「身分證明書注意」に「本證明書ノ有効期限ハ当該年度内トス、各学年毎ニ證明ヲ更新スルニ付其證ナキモノハ無効トス」とある。

 證明の更新はどのように行なわれたのだろうか。すでに述べたように「学費領収證」欄は修業年限の3カ年分の枡が用意されており、生徒證自体をあらたに発行することで更新したとは考えられない。

 以下は推測である。
 「各学年毎ニ證明ヲ更新スルニ付其證ナキモノハ無効トス」とあることから、考えられるのは、新たな学年を意味する内容の紙片を生徒證の内側などに貼り付けて、学校印を捺すなどして正規のものであることを証明したのではないか。

 この推測が正しければ、すでに述べたように、持ち主の彼は第1学年の途中、あるいは、学年修了時に志願して兵となったのではないかということの蓋然性は高くなるのではないだろうか。


3 「教」の丸印
 軍事教練が1939(昭和14)年4月から学部で必修とされた。予科について必修化された記録は見いだせないが、教練実施の例は「ウェブ版中央大学年表」に記録がある。1940年10月から1942年6月にかけて3件、そのほか、配属将校に関する記録も存在する(注2)。

  注2: 予科での教練などの記録。
1940(昭和15)年10月24日 代々木練兵場で予科教練査閲。
1941(昭和16)年09月14日 予科配属将校・都丸隣信大佐着任、若林大中佐は東京帝国大学へ異動。
1941(昭和16)年10月31日 代々木練兵場で学部予科教練査閲。
1942(昭和17)年05月22日 予科3年生乙班野営教練を富士山麓板妻私設軍教廠舎で実施(-5.28)。
1942(昭和17)年06月13日 代々木練兵場で予科教練査閲。

 ここからは推測である。
 「学費領収證」欄の第1学年の12個目の枡に「教」の印が捺されていることはすでに述べた。現代なら教職課程を履修している場合の記録などと推測しそうだが(旧制には教職課程はないが)、軍事教練を履修していることの印ではないかと推測する。

 持ち主の彼が入学した前年の1941年10月に、6カ月以内の繰上げ卒業を可能とする勅令が出されている(勅令第924号「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」)(注3)。この勅令を承けて、政府からの指示により同年12月には学部、専門部で3カ月の繰り上げ卒業が行なわれている。また、同年11月に、政府は大学学部、大学予科などについて1943年3月卒業予定を6カ月繰り上げることを決定している(文部省令第81号)。以降、1944年3月予定を6カ月繰り上げること(1942(昭和17)年文部省令第68号)、1945年3月予定を6カ月繰り上げること(1943(昭和18)年文部省令第80号)を決定している。

  注3: この勅令で対象となる学校等は、大学学部、大学予科、高等学校高等科、専門学校、実業専門学校である。


 1942年の段階で彼が知り得た情報は次のような事柄だろう。(ミッドウェー海戦での日本の敗北の事実は伝えられていない。むしろ、国民は戦勝と認識しただろう)。
 (1)1941年12月に繰上げ卒業が実施されたこと
 (2)1942年9月繰上げ卒業の計画があること
 (3)1943年9月繰上げ卒業の計画があること
 このように繰り上げ卒業が繰り返されるとすれば、最悪の場合、卒業と同時に兵として徴集される可能性も視野のなかにあったかもしれない。持ち主の彼は1942年11月に満18歳となり、第3学年の間に満20歳に達する。
 入学以前から、いずれ学業に費やせる期間は短くなることを知った持ち主の彼は、入学時から教練を履修することを決めたのではないだろうか。教練の検定で合格すれば、兵となった場合に優遇される(注4)。そのことを見越した選択であったのかもしれない。

  注4: 1933(昭和8)年の勅令第71号「陸軍補充令中改正」で、大学学部、大学予科、専門学校関係では、配属将校による教練の検定に合格することが幹部候補生志願の要件とされた(補充令第53条)。

 持ち主の彼は、入学翌々年の1944年11月に満20歳を迎えることになる。在学していれば、徴兵年齢は満20歳であるので、徴兵検査(注5)を受検することになったであろう(実際の検査は4月から8月の間に実施(注6))。そして、同年9月に繰り上げ卒業を迎えたであろう。

  注5: 徴兵検査は、前年の12月1日からその年の11月30日までの間に満20歳を迎える者がその年に受ける規則である。1944年は、徴兵年齢が満19歳(「徴兵適齢臨時特例」(1943(昭和18)年12月23日勅令第939号)公布日施行)とされたため、19歳と20歳の両者が受検した。なお、「特例」の附則で、1943年12月から1944年11月30日の間に満20歳となる者には、これを適用しないとされた。
注6: 検査の実施期日については1943年陸軍省令第69号(1944年徴兵事務特例)で定めた。


 以上では、持ち主の彼は志願して兵になったのではないかとの推測をした。ただし、兵にならず、軍学校への入学という進路も可能性としてはあった。たとえば、陸軍経理学校は、16歳以上20歳未満を条件とし、学校を卒業した後には、見習士官とし任官できた(注7)。

  注7: 陸軍経理学校に関しては陸軍経理学校『陸軍経理学校 (陸軍生徒志願新書 ; [2])』(日本報道社、1944(昭和19)年)を参照した。
 

 いずれにしても、この生徒證が紛失物であった場合を除いて、持ち主の彼は中央大学を去っていったのであろう。

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 今回当時の学則をいくつか参照した。学則から見える戦時の様子について、後日新たなブログ記事で報告することにする。